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市岡康子さん(ディレクター) インタビュー 【後編】

 国内において映像人類学的な試みがなされた歴史を振り返ると、燦然と輝いて見えるのが、日本テレビ系列で放映された「すばらしい世界旅行」というテレビ番組である。そのなかでも、市岡康子さんは1966年から90年までディレクターとしてアジア太平洋をフィールドにして取材し、民族誌的な視点から記録映像を手がけてこられた。
 特にパプアニューギニアで撮影された、『クラ―西太平洋の遠洋航海者』(1971年)、『裸族最後の大酋長―石器時代から現代までを生きた男』(1982年)、『ヤケドを誇る人々 ギサロ―カルリ族の歌合戦』『ヤケドと涙の交換 ギサロ―カルリ族の歌合戦』(1987年)といった映像作品は、根強い人気をほこり、近年もさまざまなかたちで上映がなされている。
 2023年に著書『アジア太平洋の民族を撮る―「すばらしい世界旅行」のフィールドワーク』を上梓された市岡さんは、ご自身の「冒険」ともいえるフィールドワークについて詳細に書いているので、ぜひ手にとって頂きたい。ここでは、『アジア太平洋の民族を撮る』の刊行を記念して、Q&Aのトークとして収録した内容をインタビュー記事として読めるようにまとめてみた。

トロブリアンドの女性たち

――続きまして『トロブリアンド諸島 女たちの島々』(1976年)のお話をうかがえたらと思います。まずはこの企画のはじまりや、取材をどのようにしていったかお話いただけないでしょうか。

市岡さん キリウィナ島に入って『クラ―西太平洋の遠洋航海者』を撮影しているときに、たまたまヤムイモの収穫期にあたって、娘たちがトップレスで美しく着飾って、収穫されたヤムイモを運んでいく祝祭を垣間見ました。もうひとつは、クラ交易が完全に男たちの仕事であり、航海に出かけると集落を空っぽにして男たちがいなくなってしまう。そうすると、ヤムイモの畑仕事、豚の飼育、家族や子どもの世話はすべて女手にかかってくるわけです。ある意味で、男たちがクラで夢を追うことができるのは、背後で女性が支えているからではないか、とわたしも女性だから思いました。そのふたつの理由で、次に撮る企画では、女性を主人公にしたいと決めました。
 「すばらしい世界旅行」の番組内容を企画するときに、なかなか女性が主人公にはなりにくかったんです。なぜなら、どこへいっても女性は畑仕事や家事などの日常的な仕事をこなしており、あまり目立つような活動をしていないのです。夜の19時半にテレビを観ている視聴者を惹きつけるような題材を見つけるのが難しかったのですが、この企画ではあえてそれに挑戦してみました。 

――『トロブリアンド諸島 女たちの島々』のなかで興味深いのは、トロブリアンド諸島の集落の母系社会がヤムイモの交換によって支えられているという、人類学的にいえば社会構造が見えてきます。そのことを現地でどのように発見し、映像作品のなかで構成や主題化をおこなったのか教えて頂けないでしょうか。 

市岡さん ヤムイモの収穫時期になると、まず畑に穫れたヤムイモを円錐形に積み上げます。その家や家長の日頃の成果を見せびらかしているわけですね。たいていは男性が耕作をするのですが、成果を披露したあとは、そのヤムイモは男性の所有になるのではない。母系制なので、必ず自分の母方の伯母や叔母、姉妹、姪といった女性親族のラインをとおって、その女性たちの配偶者(男性)に贈与することになる。もしその配偶者が集落のチーフである場合、男性や女性がドレスアップして、おのおのが頭上にヤムイモを載せて、歌ったり踊ったりしながら運んで、贈与する相手の家へともっていく。そうすると、今度は受けとったチーフがヤムイモを円錐形に積みあげて、みんなに見せびらかすのです。
 そうすると、贈与した男性は何も食べ物がなくなってしまうように思えます。ところが、今度はその男性は自分の妻の伯父や叔父、兄弟などの係累がつくったヤムイモをもらうことになる。だから、島や集落のなかで、ヤムイモがぐるぐる回っている。わたしたち外部の人間からしたら意味がないことに思え、自分が耕作したヤムイモを自分たちで食べればいいと考えてしまう。そこで、集落の男性にインタビューでその質問をしたら、「そんなことは恥ずかしいことだ、みんなに悪口をいわれてしまう。自分は親戚の女性たちのためにヤムイモを育てているんだ」という答えが返ってきました。
 トロブリアンド諸島のキリウィナ島で、ある男性が亡くなりますよね。そのときに男性のために喪に服すのは、ヤムイモを受け取っていた係累の女性たちです。喪明けの儀式のときに使う、バナナの葉でつくった地元の貨幣がありますが、それを6、7ヶ月かけてつくるのも親戚の女性たちです。ややこしいのですが、女性たちが喪に服すあいだ、食べ物を運んだり、男性を埋葬するために穴を掘ったり、いろいろ立ち働く男性たちの妻に、この地元の貨幣を渡す。ひとりの男性と女性たちのあいだにおける、生涯にわたる贈与と交換がここで終結する。クラ交易の場合はマリノフスキーの著書があったので、読んで学ぶことができましたが、ヤムイモの贈与と交換に関してはこれといった資料がなく、試行錯誤しながら現地で見て聞いて理解するしかなかった。そうして自分なりの解釈にしたがって、番組を構成することになりました。

『トロブリアンド諸島 女たちの島々』より

フィールドでの生活

――ディレクター、カメラマン、助手、通訳など少人数の撮影クルーだと思いますが、どのようなところに滞在して、どんなものを食べて、数週間から数ヶ月の取材のあいだ、どんなふうに過ごしているのか。そのときに、どんな言葉を使って、通訳は何語と何語を架橋しているのか。現場の話をお聞かせ願えないでしょうか。

市岡さん 1970年のクラ交易のための滞在では、中国人が経営する宿があったので、そこに滞在しました。ですが、宿は村から離れているし、撮影対象となる集落の人たちとの関係にも密着できず、次に何が起こるかもわからなかった。いろいろな人を問い詰めるのですが、そこから出てくる情報は必ずしも正確ではなかったのです。そういうことを学んだので、1971年の二度目のクラの撮影のときは、宿に泊まることはやめました。また、滞在が長期間にわたるので、宿代を払っていたら製作費がパンクするので、集落のなかに住み込むことにしました。そのほうが自分たちで見て感じて、その場で人に話しを聞くことができます。情報収集の仕方がシンプルになりました。
 キリウィナ島の大きな村には、地域を管轄する役人がときどき見回りにきて宿泊するためのパトロール小屋がありました。それを借りて住むことにした。男性と女性のスタッフがいるので、あいだにシートをぶら下げて隔離しました。ひとつのスペースがリビングにも寝室にも物置きにもなり、合宿みたいなものでした。トロブリアンド諸島を含むニューギニアにはオーストラリア米を売っているので、それを主食にして自分たちで食事をつくりました。登山者の装備、つまり飯盒でご飯を炊き、灯油のコンロとコッヘルでおかずを作ります。取材の当初はじゃがいもや玉ねぎを持っているが、冷蔵庫がないからすぐに傷んでしまう。生鮮野菜はすぐになくなって、サバ缶やサバのトマト煮、ツナ缶やコンビーフをもっていき、それを元にして惣菜をつくるわけです。
「しっかりしたものを食べないと人間は元気がでない」とわたしは思っています。だから、あまり粗末なものは食べたくない。現地のヤムイモやココナッツも食べますけど、それを主食にはできない。なので、毎朝の朝食はクラッカー5枚に紅茶とジャムでしたが、スタッフには評判が悪かったですね。朝昼は撮影や取材で忙しいので料理はしない。お昼はたいていインスタントラーメンでした。ニューギニアの別の場所に滞在したとき、サバのトマト煮にたまねぎを入れて1品つくり、もうひとつ、ツナ缶と玉ねぎのみじん切りをマヨネーズで和えて、サラダ風の2品目もつくりました。そのときに一緒に取材したカメラマンが「今日はごちそうだな」というのです。なぜなら、彼はその前にアマゾンのインディオを取材し、そのチームでは、毎日ご飯の上に、トマトソースにショートパスタが浮かんだ缶詰めをかけて食べるだけだったそうです。東京に帰ってきたら、コンビーフの缶など見たくもないという感じになります。
 通訳はいつも頭痛の種でした。現地でプロフェッショナルな通訳を見つけられるわけがないし、不十分でも我慢するしかないので、地元の人が何をいっているのかを察する力が身につきました。トロブリアンド諸島の場合はキリウィナ語が使われるので、チーフ・プリタラという人に通訳兼コーディネーターなど、何でもやってもらいました。この首長はドブー語を話すこともできたので、とても助かりました。クラ交易をするとき島々の人たちは共用語としてドブー語を使っていた。ですから、キリウィナ島やファーガソン島の人でもドブー語を理解するし、クラに関わる人たちのあいだでは自由にコミュニケーションができていました。 

『トロブリアンド諸島 女たちの島々』より

ニューギニアの高地で

――トロブリアンド諸島からニューギニア島の山間部に舞台は移ります。1989年に完成した『ニューギニア横断記』は、「20世紀の弓矢戦争」「ミイラの村と黄金熱」「根回しOK 和解の宴」の3部にわけて放映されました。島の東側がパプアニューギニアという独立した国家で、その国を縦断するように道路がある。その道を移動しながら、偶然に遭遇した部族間戦争であったり、反対にいがみ合った同士が和解をするための儀礼をしたり、人々の姿が生き生きと描かれています。まずは、この企画が立ち上がったあたりから、お話をお願いできないでしょうか。

市岡さん わたしの場合、クラ交易のように何か重みのある題材を見つけて、その人たちと一緒に暮らしながら取材していくという方法が定番です。『ニューギニア横断記』はいってしまえばロードームービーであり、このようなつくり方は苦手なのですが、このときは他の方法を見つけられませんでした。パプアニューギニアに研究所があり、毎回そこで撮影許可をもらうんですが、所長と話していたら、パプアのハイランド(高地)では、当時は部族間戦争がひどくて、戒厳令をだしてもいいくらいの状況になっていると聞いた。でも、さすがに部族間戦争をテーマに番組をつくろうとは思いませんでした。
 むかし日本の援助もあり、パプアニューギニアのハイランド・ハイウェイは完成しました。その道路を移動しながら、遭遇したできごとを取材していこうと考えて、三菱自動車のパジェロをレンタルして運転手を雇いました。このときは通訳を見つけることが難題でした。ニューギニア島には全部で900以上の異なる言語があるといわれます。部族ごとに異なる言葉があったり、ひとつの島のなかで8つも異なる言語を使っていたり、という場合もあります。ですから、ニューギニア高地を移動すると、どんどん使われている言語が変わっていくので、ひとつの言語の通訳を雇うことはできません。
 それでは、現地の人たち同士はどうのようにコミュニケーションをとるかというと、互いにピジン語で会話をするわけです。むかしヨーロッパ人の商人が、商売上でやりとりをするためにその言葉を使い、時間を経つとそれが洗練されていった。パプアニューギニアでは、英語、ピジン語、それから、南部の海域の人たちが話すモツ語の3つが公用語になっており、国会のような公的な場でも3言語で翻訳されます。運の良いことに、以前に新聞記者として働いていた人をピジン語の通訳として雇うことができ、彼が車を運転し、取材にも慣れていたので、彼の力に大いに助けられました。
 たまたま高地のミンジという土地を車で走っているとき、部族間戦争がおこなわれているという噂を耳にしました。そこは気候の良いところで、ゴルフ場もあって、パプアニューギニアで働く欧米人が避暑に訪れるような場所です。そうしたら、ゴルフ場から見える山で戦争をやっていたんですよ。それで、でかけていって少し撮影をしたんですが、元新聞記者の通訳が「危ないから避難してくれ」といい、車のなかで待機しました。そうしたら、槍をもった敵側の男たちがウヨウヨやってきて、こちらは事情がわからないので、そんなに恐怖を感じていませんでした。元新聞記者は地元の人で戦争文化をよく理解しているから、ビビっていましたね。それで、その日は退散しました。

――ロバート・ガードナーが『デッド・バーズ』(1963年)で、ニューギニア島の部族間戦争を撮りましたが、80年代後半までそうした状況が続いていたとは『ニューギニア横断記』を観るまで知りませんでした。

市岡さん そうなんです。たとえば、A村とB村が部族間戦争をしているとして、わたしたちがA村の側で取材をすると、B側の村から見たら敵側の人間になるわけです。ですから、B村の人たちがいる場所にはいけなかった。なぜなら、戦争は白兵戦では終わらず、弓矢やライフルのような飛び道具が使われるので、取材するのは危険なのです。ひとつの部族間戦争の最初から最後までを取材でフォローすることなんてできない。それには何年もかかります。なので、戦闘のいち部分だけを撮影して、さっと逃げるしか方法がないので、そのとおりにしました。
 戦争のその後の展開を追うためにはどうしたらいいかを考えて、地元の警察署で張り込むことにしました。よくテレビ番組で「◯◯警察24時」のような企画がありますよね。ニューギニア高地のマウントハーゲンという大きな街の警察を取材しようと決めて、まずは中央の警察本部から許可をもらい、何日間か警察署に張りつきました。すると、警察署に届く事件の報告というものは、すべてが部族間戦争に関するものなんですね。戦争をしている両者が話し合いをもつと聞き、カメラをもって取材にいきました。その場所にいくために片道6時間をかけたのに、元新聞記者の通訳が知らない言葉が使われていて、何が起きているのかわからないということが何度か続きました。
 ある戦場にいったら催涙弾が使われて、目が開かなくなった元新聞記者が「こんな仕事はやってられない!」といって、わたしたちを置き去りにしようとしたときは本当に困りましたね。最終的には、部族間戦争をやっていた部族同士が和解の宴を催す場に立ち会い、その模様を2日間しっかり撮影することができたので、取材としては良かったと思います。『ニューギニア横断記』のなかで描きましたが、何ヶ月も何年も戦争がつづくと、戦士が怪我したり死んだりするだけでなく、家が焼き討ちにあったりする一般の村人もでてきて、大変困るわけですよね。ですから、お互いに条件交渉をして、賠償することを取り決め、和解したことを宴でもってお祝いをするんです。部族間戦争の終結するかたちを撮ることができて、最終的にこの映像作品は成立することができました。このロードームービーの撮影はとても疲れる取材でした(笑)。 

――『ニューギニア横断記』のなかでは、ひとりの老人が殺されてしまい、それで部族間戦争に発展してしまう。加害者側の部族がたくさんの豚を引き連れて、ヤムイモを運びこんで賠償をする姿が印象的です。互いに戦争していた同士ですから、遺族のための賠償を巡る光景も大変に激しいものがあります。 

市岡さん とにかく何も撮り逃がすまいと必死でしたね。賠償交渉の途中で裏取引がおこなわれたのですが、そんなことをわたしたちには知りようがない。ですが、元新聞記者の通訳が一緒にいたおかげで、裏取引がおこなわれているという情報を知り、その場に立ち会うことができました。その情報がなかったら、わたしたちは豚の頭数を数えている場にいて、何も重要な場面を撮ることができなかったんだろうと思います。そう考えると、この通訳兼コーディネーターの力はものすごく大きかったといえますね。


<書籍情報>
『アジア太平洋の民族を撮る 「すばらしい世界旅行」のフィールドワーク』
著者 市岡康子
416頁、弘文堂、本体3500円+税、2023年2月
出版社のサイト 
https://www.koubundou.co.jp/book/b618406.html

 本書は、1966年の番組スタートから終了までの24年間、国民的人気番組「すばらしい世界旅行」のプロデューサー/ディレクターとしてアジア太平洋地域を担当した市岡康子さんの、多数の貴重な写真も魅力的な「体験的フィールドワーク論」です。
 当時は海外旅行も一般的ではなく、外国といえばアメリカとヨーロッパという時代に、パプアニューギニア、インドネシア、カンボジア、タイなどの非西欧世界を紹介した番組は画期的でした。
 裸で暮らし、貨幣もたいした意味を持たず、畑を耕し豚を飼い、森林の恵みで自給自足している人々。西欧文明に染まった私たちの価値観をひっくり返すような世界でした。1年の半分近くフィールドに滞在し、現地の人々に深く入り込み、上っ面ではない番組を作り続けたドキュメンタリストの、手に汗握るフィールドワークの日々は、昨今の浅薄なテレビに飽いた人たちの共感を呼ぶものと思います。(書籍の紹介文より)

著者プロフィール 
市岡康子(いちおか・やすこ)
1939年中国長春生まれ。東京都立大学人文学部人文科学科卒業。62年日本テレビ入社、『ノンフィクション劇場』『20世紀アワー』など、テレビドキュメンタリーの制作を担当。72年、テレビ番組制作会社「日本映像記録センター」設立に参加。66年から90年まで『すばらしい世界旅行』のディレクター。 (2023年1月現在)


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