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「異人伝ーはぐれ者の系譜」第3回 前田速夫

その三 平秩東作へづつとうさく 天明の狂歌師。密命を帯びて江戸人として初めて蝦夷地に入り、アイヌの動向を偵察する

『古今狂歌袋』前編(天明七年〈一七八七〉蔦屋重三郎刊)
平秩東作

鴫ハみえねと
西行の歌ゆえに
目にたつ沢の
秋の夕くれ

一七二六年(享保十一)〜一七八九年(寛政元)。内藤新宿の煙草屋。天明文壇の長老格で、平賀源内の親友。内山賀邸、朱楽菅江、唐衣橘洲、蔦屋重三郎など交遊が広く、若き大田南畝(蜀山人)の才能の発見者として知られる。「滑稽の親玉」と呼ばれた反面、世間では山師との評判もあって、隠れ念仏の徒を摘発したり、田沼意次の懐刀、勘定組頭土山宗次郎の密命を帯びて、松前藩の抜荷の実態やアイヌの動向を偵察する。

此人山師也
 筆者は以前、『古典遊歴 見失われた異空間を尋ねて』(平凡社)という本の中で、江戸天明年間の文人として、平賀源内や大田南畝(蜀山人)を取り上げたことがあった。すなわち、「狂――増殖する狂言綺語」「連――江戸文人のサロン」という二章がそれで、源内が南畝の出世作『寐惚先生文集』に序文を寄せたのは、狂歌師としては先輩にあたる平秩東作の紹介によるとし、加えて天明二年(一七八二)三月の日記(『三春行楽記』)には、以下の記述があることも指摘した。

三日 朱楽あけら菅江、平秩東作、三井長年と土山(宗次郎)邸の曲水宴に行く。夜、席をのがれ万年の邸へ行き、山手白人、文竿らと呑む。芸者お仙らもいたので乱酔し、明け方帰宅。
四日 宿酔中だが、望汰瀾へ行き酒宴、同所に泊る。
五日 望汰瀾主人祝阿弥(狂名)と深川八幡に行く。
九日 土山氏に招かれ朱楽菅江、平秩東作と共に吉原の花を見る。夜、大文字屋(主人は狂歌師の加保茶元成)に登楼、土山の馴染みはが袖、菅江の相手は袖芝、予は一炷ひともと
十日 朝、菅江とともに(吉原)大門前の書肆蔦屋重三郎を訪い、午後駕で送られて帰る。

 ここで土山宗次郎とあるのは、老中田沼意次のもとで辣腕をふるった勘定組頭。のち松平定信は寛政の改革の際に土山を「行状よろしからず」として死罪にしているが、こうした剣呑な人物と平気で交際しているあたりが、いかにも当代の狂歌師連中ならでは。ついでに言えば、文中の蔦屋重三郎(狂名・蔦唐丸)は、さまざまな狂歌絵本のみならず、喜三二、春町、京伝らの黄表紙、歌麿、写楽、北斎らの浮世絵、馬琴、一九らの読本をヒットさせた江戸出版界の風雲児だった。
 問題は、平秩東作である。一般には、大田南畝の「東作翁六十の賀歌並序」(天明五年)が、以下のように賛辞を呈していることで知られている。

 〇海に千年川に千年、ちとさし合ながら山に千年、三千年もへづゝ入道、東方朔の東の字を盗み、東作を平日の名とぢくり、からのやまとの才はじけ、文は左氏司馬から韓だの柳文、詩三百とは店貸いんにゃ杜子美に李白散、湯島に近く家居して、昌平橋の親玉にむかひ、ちょッくり猪牙かいかだに乗て、九夷なんどはどでごんすとなめげなり。わけて此国の道はみそひともじ、赤人人丸の点はこういふ所、定家家隆の腹はかくなどと味ひ知れば、やせ我慢の連歌俳諧、人ぞやめきの夷曲などは、おのれがひったへづゝとも思はず、諸氏百家浄瑠璃戯作、天竺のおんあぼきや、阿蘭陀のあべせで、八宗兼学は勿論、ことに法談ときてはおまないたに水を流し、また枝炭の折にふれては坐禅をもせし大知識、下タっぱら禿に歯あばら骨より達者なる翁なれば、なみたいていの賀は奉りがたし。

 ところが、私は後日、井上隆明著『平秩東作の戯作的歳月』(角川書店)という研究書を読んで、東作が著した『莘野茗談』の後注朱書に、以下のことが記されていたのを知って仰天した。記入したのは、南畝の詩友で御書物奉行だった鈴木恭記である。

 〇此東作大ニ才略アリシ者也シガ、所謂山師也。土山宗次郎ト深ク交リテ、天明年間、始テ蝦夷地ヘ江戸人ノ入シハ此人也。其蝦夷ニ行時、土山氏ニテ作リシ詩ニ、酔月高楼酒若泉、漫歌伏櫪玉壺前、辺雲靺鞨三千里、無限秋風渡白川。乃チ土山氏ノ内命ニテ、彼地ニ往リ。後土山氏ノ出奔セシ時モ、此人ノ謀ニテ、山口観音ニ遷セシモ、官ニ捉ラレテ、拷問セラレテ白状シタリ。前年、御蔵門徒ノ訴人セシモ此人也。予屢土山氏ニテ会セシコトアリ。狂歌を読テ、其名ヲ平秩東作ト云。飛花落葉ヲ印刻シ、水ノ行方ヲ著述セシ也。実ニ凡庸人ニ非。
    文政七年甲申三月

 つまり、何かと評判の悪い勘定組頭の土山宗次郎の密命を帯びて、江戸の町人としては初めて蝦夷地に足を踏み入れただけでなく、それ以前に、御蔵門徒(隠れ念仏)の集会を偵察して公儀に訴え出たのも、東作だったというのであった。
 太平の世に狂歌をひねり、連日気のおけない仲間と痛飲しては登楼を繰り返す表の顔の平秩と、悪辣な勘定組頭の意を体してスパイ行為に走る裏の顔の平秩、この二重性はいったい何なのか。だが、そのことを考える前に、その生い立ちと略歴とを見ておこう。

 武家・町民ないまぜの遊民・逸民たち
 平秩東作は享保十一年(一七二六)三月、江戸内藤新宿の馬宿生まれ(現新宿三丁目交差点の追分交番に近接)で、生家は煙草販売業。十歳のとき父親と死別して、生活は貧しかった。この頃すでに狂歌を詠んでいて、のちに宿屋飯盛の編んだ『萬代狂歌集』に採られている。
   この菓子のさとう兵衛はのぞみなし西行ほしい西行ほしい
 湯島に行ったとき、土で作った西行像があるのを見て欲しいと言ったところが、あれは看板で売り物ではないからとすかされて、菓子を買って与えられた、その時の作という。
 四谷大木戸―太宗寺―追分の間に、二階建ての飯盛り旅籠が二十九軒。馬宿から宿場町へ、さらに女郎町への転換が、東作を育んだ。
   両頬は太鼓の皮とはれにけり 何その罰のあたるなるらん
 宝暦九年(一七五九)、三十四歳。喉の腫れ(扁桃腺肥大)で九死に一生を得、箱根塔ノ沢で療養中に商家の娘とせを知り結婚、彼女は糟糠の妻となった。
 同十二年ないし十三年、牛込加賀屋敷の内に住んでいた内山賀邸(田安家家臣)の家で、初めて大田南畝を識る。東作三十七、八歳、南畝十四、五歳。朱楽あけら菅江(与力)、唐衣橘洲、四方赤良よものあから(=大田南畝。御徒士から支配勘定にのぼる)のいわゆる狂歌三大人は、この賀邸の門下(牛込にちなみ牛門と称した)であった。
 翌年、戯作『水の往方』、一名『近代隠逸伝』を刊行。親友の風来山人平賀源内が序を寄せた。

 〇今平原屋が此書を見るに、滑稽を以て俗人をなつけ、教るハ古人の道の四角なるを、ところ〜〜隅切角にし、或は円くも長くも短くも、流次第の水の行辺。其浅きと深きに至てハ、汲人々の心まかせ……

 のち、源内は発狂して門人を殺害、獄中で没する(安永八年〈一七八〇〉十二月)が、東作が亡友の遺文を編んで『飛花落葉』と題し、その序で源内の文業を「憤激と自棄ないまぜの文章」と評したことは名高い。
 源内は高松藩出身の浪人、号の風来山人は風の流れに身を卜する意だし、幕臣とはいえ、賀邸の別号椿軒の椿には武家にとって吉凶両義がある。両者とも武家とは言い難く、逆に東作は、純粋の町人とは言い難い。「大隠は市中にあり……世界の人情を知りたる上にて、世を滑稽のあいだにさけよ」(源内『風流志道軒伝』中の風来山人の言)で、彼らはいずれも江戸の管理社会におさまらぬ遊民、逸民たちだった。
 明和二年(一七六五)、近隣から火を出して東作の家も類焼、二階に置いた書物を悉く焼いてしまい、この厄災が彼を仏の道に向かわせる。同年、隣家の男に進められて御蔵門徒(浄土真宗の一派)となるが、のちそれが邪宗であることを知って公儀に訴えて、褒美に銀三枚をもらい、誕生した娘を銀と名付ける。このあたりのことは、後述する。
 同六年、四谷の唐衣橘洲邸に、東作、大屋裏住、大根太記、南畝らが集まる。いよいよ本格的な狂歌会の始まりである。
 安永二年(一七七三)、東作四十八歳。この年、伊豆天城山炭焼廻しということを願い出て、許可を得、伊豆に至る。いつまでいたか不明だが、その後数年間、炭焼きのことに関わっていた。源内が秩父の鉄山に入れ込んで失敗したのと、何がしか通じよう。
 翌々年、家督を長男に譲って、本人は本所相生町に材木問屋を開く。炭から同類の材木への転換は、不自然ではないが、その変わり身の早さは、源内の事業と無縁ではあるまい。ところが、これも借財が嵩んで、三年後鉄砲洲に移り住んだ。
 同七年、剃髪。天明二年夏から翌年にかけて上方に遊び、八月からは、蝦夷地への大旅行の途に上った。このことも後述参照。
 天明年間、狂歌は一気に頂点を迎えた。五年秋に上梓された『狂歌評判俳優風わざをぎぶり』は、人気の菅江、赤良、橘洲、東作、(浜辺)黒人(書肆主人)のことを、わざと逆に書いているのが面白い。

 丸のやのゐん居まかり出、ゆびをほき〜〜おりながら、扨々今は世がすへになり、とかく女ばかりうれしがります。われら若い時よりきつい女きらひにて、目にみるもいぶせく、一坐もならぬくらゐ。むかし元禄宝永のころ、極楽〜〜ともてはやせし女は、色白にやせかれて、きつゐわれらが点でござれど、そのすへ膳をもじたい致て、一生不犯の清僧同前といへば、四方の亭主は、せうばいとはきついちがひの木下戸にて、酒塩にもゑふくらゐ、ひよつとねそびれでもすると、夜どをし目をまぢ〜〜してゐるにこまります。さるいんきよがゐけんに、うへつがたへでもめされた時に、酒をのまぬはわるひものと、度々酒をすゝめしが、今にのめませぬとの云ひぶん。橘屋は生得まめな男にて、一生ひるねといふ事をした事のない人。へづゝやは、かりにも山がゝつた事は、はなしにもきらひなおとこ、はまべやが白ひはをむき出して、笑ふ門にはふく来る。金の番人持乞食と、あた名をとりしきまじめの出合、むだ口などゝいふ事は夢にだもみず。風雅とははやり風の事とおもひ、詩歌とは子供に小べんやる事と心得、歌はよまねど狂歌師の株は四五十両のうりかひとはなりぬ。

 菅江、赤良、橘洲、東作、黒人(本屋)以外の天明の狂歌師は、大根太木(辻番請負)、元木網・智恵内子夫妻(湯屋)、大屋裏住(裏長屋の大家)、宿屋飯盛(石川雅望。小伝馬町の旅宿主人)、鹿都部真顔(汁粉屋)、加保茶元成(吉原の妓楼大文字屋主人)、花道つらね(五世市川団十郎)、手柄岡持(御城役)、山手白人(評定所留役)と多士済々、そのほかつむりひかり(日本橋の町代)、大曾礼長良おおそれながら節松嫁々ふしまつのかか(朱楽菅江の妻)、土師掻安はじのかきやす、寝小便垂高たれたか普栗ふぐり釣方、馬場金埒(銭両替商)、竹杖為軽たけつえのつがる(蘭学者。源内の友人)など。名乗りを聞くだけで、思わず頬がゆるむ。
 
東作の狂歌
 ここからは、平秩東作の狂歌の実作について一首ずつ、その代表的なものを見ていく(主には四方赤良撰『万載狂歌集』所載。括弧内の鑑賞は、水野稔氏による評釈を参考にした)。

    寅のとし春のはじめに
    東風こち吹けば今年も首をふる法師はりこのとらの春を迎へて
(天明二年新春の詠。新年を迎えて春風が吹いてくると、剃髪して五年にもなる古法師の私でも心が浮き浮きしてくるのは、寅年のせいだろうか。隠遁生活に反し、山師と呼ばれて野心鬱勃たる自分の思案を、張り子のトラが首を振るのに重ねるか)
    野夕立のゝゆふだち
   男なら出て見よらいにいなびかり横に飛ぶ火の野辺の夕立
(野守よ、男なら出て見るがよい。雷鳴がとどろき、稲妻の光が横ざまに飛んでいる。どうだ、これがまさに飛ぶ火の野辺の夕立ちのすさまじさだ。本歌は、「春日野の飛火の野守いでて見よいまいく日ありて若菜摘みてむ」。見かけの怠惰で軟弱な遊び人と違い、自分には男気があることを誇示する)
    反橋落葉そりばしのおちば
   住吉の橋のそつたにかんな月かんなから〜〜ふるの葉かな
(「神無月」に「かんな」を、「惟神かんながら」に鉋で削った木屑が散る擬態語「からから」を、「古木の果敢な」に「振る木の葉かな」を掛ける。住吉神社の反橋は反りのきついので名高く、神無月になったから、その反りに鉋をかけるというわけでもないだろうが、古代からそうであったように、古木の葉が果敢ない有り様で、鉋屑よろしく降り散っているとの意。神無月から鉋へ、惟神へ、かんなからからへと、「か」音の自在な転移が心地よく響き、社頭の初冬の雰囲気がよく出ている)
    駿河の国原の宿にて
   浮島がはらふ路銀もつきはてて三国一のふじゆうな旅
(原の宿まで来て、払う路用の金が尽きてしまった。浮島が原で三国一の雄大な富士山を眺めているというのに、三国一の不自由な旅になってしまった)
    内藤宿の傀儡くぐつを人のよめといひければ
   我が里の君を草花になぞらへてほめばかうしうかい道の花
(わが住む里の内藤新宿の遊ぶ君を草花になぞらえてほめるならば、甲州街道に咲く海棠の花というべきか。安永のころ、「四谷新宿馬ぐその中にあやめの咲くとはつゆ知らず」などという潮来節の替え歌が流行っていたのに対抗して、作者の郷土愛を示す)
    別恋わかるゝこひ
   そしてまたおまへいつきなさるの尻あかつきばかりうき物はなし
(吉原の遊女との後朝きぬぎぬの別れを詠じた歌。別れのあいさつに、またの逢瀬をせがまれると、その言葉が猿の尻のように真っ赤な嘘と知りながらも、つくづく別れが悲しくなる。本歌は「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」)
    題しらず
   富貴とはこれを菜漬なづけに米のめしさけもことたる小樽こたるひと樽
(富貴を名付けるのにいろいろあろうが、私にとっては菜っ葉の漬物に米の飯、それに酒が小さな樽に一樽あれば、それで十分。下七七を「たる」の音を重ねて押韻としたのが快い)
    としごろ本意ほいとげて、まろき頭になりけるにも、
     好物の味はなほわすれがたくて
   黒髪をおろし大根だいこんのりの道ほとけのそばや近づきぬらん
(黒髪を剃って仏の道に入り、お側に一歩近づいたものの、やはり好物のおろし大根に海苔をまぶして食べる蕎麦のうまさは、忘れがたい。「おろし大根」と「海苔」を「剃髪」と「法の道」に、「蕎麦」を「側」に掛けた修辞に無理がない。ちなみに、東作の剃髪は前述したごとく安永八年、五十四歳のときだった)
    井蛙ゐのかはづ
   身を守るかくれどころはこゝこそと知恵を古井に蛙なくなり
(諺の「井の中の蛙大海を知らず」を取る。「知恵を振るう」を「古井」に掛ける。身を守る安全な場所はここよりほかにはないと、知恵をしぼって、蛙が古井戸で鳴いている。広い世の中を知らぬ哀れなやつよ。これも、作者の意欲の反映か)
    物へまかりけるに、赤羽橋にて
   剃髪せしことを飛びありく身は赤羽の橋の板そつて浮世のわたり安さよ
(「反って」に「剃って」を掛ける。諸所方々いつも飛び歩いている身にあっては、この赤羽橋の橋板が反っているので渡りやすいように、髪を剃っているほうが、浮世を渡りやすいのだ。後世を願うのではない。隠逸者として自由に振る舞うための法体であることを、表明している)

スパイ活動の真相
 さて、それでは最初に述べた平秩東作のスパイ活動とはいかなるもので、なぜそのようなことをしたのだろうか。
 御蔵門徒の偵察と公儀への訴えについては、東作自らが最晩年に息子に口述した『庫裡訪問記』が詳しい。たとえば、こんな具合である。 

 日本橋南上槇町ニ小細工次郎兵衛生トイフモノ有。公儀鍛冶方ヲツトムルモノナリ。家モスコシハユタカニテ文字ナドモ少ハ取扱モノナリケルガ、本所中ノ郷原庭町トイフ所ニ別業ヲカマヘ、月に七八度ノ会合ヲナシテ、愚昧ノ輩ヲ集テ人ヲ度ス。……本尊ノ御面容善兵衛殿ニソノマ丶ナリトシルシアリケルニゾ。仏告ナレバ今更ソムクベキ道理ナシトテ、善兵衛ヲ善知識ト称シテ、其徒専ラ敬ヒオモンジケル。
 渠等ガ人ヲ度スル様キハメテ奇怪ナリ。済度蔵とて二間ニ三間ホドノ土蔵ヲ立テ丶、正面ニカクル所ノ仏像ハ例ノ知識即弥陀トタツル所ノ影像ヲカケ、燈一盞花一瓶香ヲ焚キ、仏前ニ純子ニ縁サシタル藺ムシロヲ敷キ、ソノ度スベキ人ヲコノ席上ニ坐セシメ、知識ソノ人ノ左仏ノ右ニ座ス。仏ノ左ニ高弟ノモノ座ス。爰ニテタスケタマヘトイフ事ヲ呼吸ノ間ヲセハシク唱サス。気脈マサニ絶ヘントシ人事ヲシラズ忙然タル時、知識引倒シテ御助アリツルゾト呼ハリテ、始メテ六字具足ノ称名ヲ許ス…… 

 類焼後の心労から信仰の道に入った東作だが、門徒の狂信的な行動に疑問を持ち、何くわぬ顔をして偵察を続け、その闇の儀式を逐一旧知の石谷勘定奉行に言上しては、ついに密訴に及ぶ。純然たる正義感からとも思われない。『嬉遊笑覧』の著者、喜多村筠庭(信節)が、「小文才あれ共、性よからぬものとみゆ」と評したのも、わからぬではないのである。
 伊豆天城山で炭焼きのことにかかわり、その後本所で材木商となり、さらに鉄砲洲に移り住んでいるのも、後年への伏線と解釈できる。鉄砲洲は「海ばた。まき問屋すみ問屋多し」と『続江戸砂子』にあって、中津藩の中屋敷には蘭医前野良沢がいて、『蘭学事始』の舞台になったところ。
 とりわけ、東作が蝦夷地で活躍中の材木商(栖原屋北村角兵衛、飛騨屋武川久兵衛、新宮屋久右衛門)と、回船方御用達苫屋久兵衛の手先、堺屋市左衛門と昵懇だったことは見逃せない。堺屋市左衛門は、天明五年(一七八五)の幕府蝦夷地探検事業で、苫屋久兵衛とともに資金、造船及び案内を勤めた人物だからである。
 この頃、にわかに東作の眼前に煌めき出した蝦夷地は、長崎以上に海外へ開けた地だった。すでに松前藩では十七世紀初めの寛永年間に厚岸に、元禄年間に霧多布(根室地方)に、アイヌとの取引所を開設し、安永四年(一七七五)には場所請負人と呼ぶ独占商人を指名、交易所を設けて運上金を徴収していた。飛騨屋は、北端宗谷場所の請負人だった。
 十八世紀の大航海時代、東からはアメリカが鯨と薬草を追って日本列島に迫っており、ロシアや清国は、カラフトや蝦夷地の高価な黒貂やラッコの毛皮を欲しがり、カラフトや蝦夷地のアイヌは、満州産の蝦夷錦、黒竜江産の青玉を欲しがって、貿易商は松前を拠点に江戸・大坂へ売りさばいていた。
 安永二年六月、源内が北国秋田へ向かったのも、鉱山精錬の指導のためとばかりは言い切れない。蝦夷地の情報を求めていたのかもしれず、こうしたことも東作に影響を及ぼした可能性を否定できない。
 東作が土山宗次郎に近づくのは、安永七年頃からと思われる。土山は関東各地の河川普請や東海道河川工事で功があり、松本秀持勘定奉行に接近、文芸の趣味もあってか交遊が広く、蝦夷通として知られていた。勘定組頭になったのは、安永五年十一月からで、東作が土山と面識を得るのは、同七年頃からと推定される。
 土山の邸内の酔月楼では、連日連夜大尽遊びだった。前掲の大田南畝『三春行楽記』の正月は、こんな具合である。

(天明二年)正月五日、晴。土山沾之及ビ流霞夫人に陪シテ勾欄ニ遊ビ、傀儡戯ヲ観ル。世ニ謂フ所の中戯場ナリ。演本は鏡山旧錦画ナリ。一場畢リテ、中戸楼ニ登ル。曲ヲ唄ヒシ者ハ竹本住太夫ナリ。歓飲シテ夜蘭ニ至ル。是ノ日、菅江・内海・嘉十(東作)・伴七モ亦タコレシタガフ。

 勘定組頭は定員十五名。役高は三十石から百五十石ほど。分を過ぎる豪遊で、幕府が緊縮財政の折、政商からの資金流入を疑えない。田沼の重商主義政策に参画している土山のなかで、着々秘策が進行していただろう。
 この年の四月末、唐突に東作は上方への旅に出る。『東遊記』自序は、「天明壬寅(二年)の夏、木曽路を経て尾張に遊び、水無月のはじめ、祇のそののみまつりみまほしくて都にのぼり……」とあるが、これが偽装であるのは、伊勢山田で長逗留していることからも明らかだ。これは土山の指図で、伊勢大湊での造船事情を下検分するのが目的ではなかったか。
 ロシアとの通商の国営化を主張した工藤平助の『赤蝦夷風説考』が成ったのは、天明三年正月。田沼老中と松本勘定奉行が、蝦夷地抜け荷調査船の造船を苫屋久兵衛に発注するのが四年十月で、舟はこの伊勢大湊で造られたからである。一年に及ぶ旅費は、土山が用意したはずである。
 上方からの旅から帰ってさして時を置かずに、東作がみちのくを経て、蝦夷地へ渡り、松前の城下に着いたのは、天明三年九月十九日午後。同地では早速、蝦夷(アイヌ)や赤蝦夷(ロシア)の話を聞いている。月末、馬で江差港に向かう。同地の名主村上弥惣兵衛は、よく江戸に上っていて、東作とは懇意だった。通詞を伴っての旅だから、その目的はアイヌの動向を探ることにあったと見て大過あるまい。日本人シヤモの横暴、弱い者いじめの話は、『東遊記』にも出ている。

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