「異人伝ーはぐれ者の系譜」第3回 前田速夫
その三 平秩東作 天明の狂歌師。密命を帯びて江戸人として初めて蝦夷地に入り、アイヌの動向を偵察する
此人山師也
筆者は以前、『古典遊歴 見失われた異空間を尋ねて』(平凡社)という本の中で、江戸天明年間の文人として、平賀源内や大田南畝(蜀山人)を取り上げたことがあった。すなわち、「狂――増殖する狂言綺語」「連――江戸文人のサロン」という二章がそれで、源内が南畝の出世作『寐惚先生文集』に序文を寄せたのは、狂歌師としては先輩にあたる平秩東作の紹介によるとし、加えて天明二年(一七八二)三月の日記(『三春行楽記』)には、以下の記述があることも指摘した。
ここで土山宗次郎とあるのは、老中田沼意次のもとで辣腕をふるった勘定組頭。のち松平定信は寛政の改革の際に土山を「行状よろしからず」として死罪にしているが、こうした剣呑な人物と平気で交際しているあたりが、いかにも当代の狂歌師連中ならでは。ついでに言えば、文中の蔦屋重三郎(狂名・蔦唐丸)は、さまざまな狂歌絵本のみならず、喜三二、春町、京伝らの黄表紙、歌麿、写楽、北斎らの浮世絵、馬琴、一九らの読本をヒットさせた江戸出版界の風雲児だった。
問題は、平秩東作である。一般には、大田南畝の「東作翁六十の賀歌並序」(天明五年)が、以下のように賛辞を呈していることで知られている。
ところが、私は後日、井上隆明著『平秩東作の戯作的歳月』(角川書店)という研究書を読んで、東作が著した『莘野茗談』の後注朱書に、以下のことが記されていたのを知って仰天した。記入したのは、南畝の詩友で御書物奉行だった鈴木恭記である。
つまり、何かと評判の悪い勘定組頭の土山宗次郎の密命を帯びて、江戸の町人としては初めて蝦夷地に足を踏み入れただけでなく、それ以前に、御蔵門徒(隠れ念仏)の集会を偵察して公儀に訴え出たのも、東作だったというのであった。
太平の世に狂歌をひねり、連日気のおけない仲間と痛飲しては登楼を繰り返す表の顔の平秩と、悪辣な勘定組頭の意を体してスパイ行為に走る裏の顔の平秩、この二重性はいったい何なのか。だが、そのことを考える前に、その生い立ちと略歴とを見ておこう。
武家・町民ないまぜの遊民・逸民たち
平秩東作は享保十一年(一七二六)三月、江戸内藤新宿の馬宿生まれ(現新宿三丁目交差点の追分交番に近接)で、生家は煙草販売業。十歳のとき父親と死別して、生活は貧しかった。この頃すでに狂歌を詠んでいて、のちに宿屋飯盛の編んだ『萬代狂歌集』に採られている。
この菓子のさとう兵衛はのぞみなし西行ほしい西行ほしい
湯島に行ったとき、土で作った西行像があるのを見て欲しいと言ったところが、あれは看板で売り物ではないからとすかされて、菓子を買って与えられた、その時の作という。
四谷大木戸―太宗寺―追分の間に、二階建ての飯盛り旅籠が二十九軒。馬宿から宿場町へ、さらに女郎町への転換が、東作を育んだ。
両頬は太鼓の皮とはれにけり 何その罰のあたるなるらん
宝暦九年(一七五九)、三十四歳。喉の腫れ(扁桃腺肥大)で九死に一生を得、箱根塔ノ沢で療養中に商家の娘とせを知り結婚、彼女は糟糠の妻となった。
同十二年ないし十三年、牛込加賀屋敷の内に住んでいた内山賀邸(田安家家臣)の家で、初めて大田南畝を識る。東作三十七、八歳、南畝十四、五歳。朱楽菅江(与力)、唐衣橘洲、四方赤良(=大田南畝。御徒士から支配勘定にのぼる)のいわゆる狂歌三大人は、この賀邸の門下(牛込にちなみ牛門と称した)であった。
翌年、戯作『水の往方』、一名『近代隠逸伝』を刊行。親友の風来山人平賀源内が序を寄せた。
のち、源内は発狂して門人を殺害、獄中で没する(安永八年〈一七八〇〉十二月)が、東作が亡友の遺文を編んで『飛花落葉』と題し、その序で源内の文業を「憤激と自棄ないまぜの文章」と評したことは名高い。
源内は高松藩出身の浪人、号の風来山人は風の流れに身を卜する意だし、幕臣とはいえ、賀邸の別号椿軒の椿には武家にとって吉凶両義がある。両者とも武家とは言い難く、逆に東作は、純粋の町人とは言い難い。「大隠は市中にあり……世界の人情を知りたる上にて、世を滑稽のあいだにさけよ」(源内『風流志道軒伝』中の風来山人の言)で、彼らはいずれも江戸の管理社会におさまらぬ遊民、逸民たちだった。
明和二年(一七六五)、近隣から火を出して東作の家も類焼、二階に置いた書物を悉く焼いてしまい、この厄災が彼を仏の道に向かわせる。同年、隣家の男に進められて御蔵門徒(浄土真宗の一派)となるが、のちそれが邪宗であることを知って公儀に訴えて、褒美に銀三枚をもらい、誕生した娘を銀と名付ける。このあたりのことは、後述する。
同六年、四谷の唐衣橘洲邸に、東作、大屋裏住、大根太記、南畝らが集まる。いよいよ本格的な狂歌会の始まりである。
安永二年(一七七三)、東作四十八歳。この年、伊豆天城山炭焼廻しということを願い出て、許可を得、伊豆に至る。いつまでいたか不明だが、その後数年間、炭焼きのことに関わっていた。源内が秩父の鉄山に入れ込んで失敗したのと、何がしか通じよう。
翌々年、家督を長男に譲って、本人は本所相生町に材木問屋を開く。炭から同類の材木への転換は、不自然ではないが、その変わり身の早さは、源内の事業と無縁ではあるまい。ところが、これも借財が嵩んで、三年後鉄砲洲に移り住んだ。
同七年、剃髪。天明二年夏から翌年にかけて上方に遊び、八月からは、蝦夷地への大旅行の途に上った。このことも後述参照。
天明年間、狂歌は一気に頂点を迎えた。五年秋に上梓された『狂歌評判俳優風』は、人気の菅江、赤良、橘洲、東作、(浜辺)黒人(書肆主人)のことを、わざと逆に書いているのが面白い。
菅江、赤良、橘洲、東作、黒人(本屋)以外の天明の狂歌師は、大根太木(辻番請負)、元木網・智恵内子夫妻(湯屋)、大屋裏住(裏長屋の大家)、宿屋飯盛(石川雅望。小伝馬町の旅宿主人)、鹿都部真顔(汁粉屋)、加保茶元成(吉原の妓楼大文字屋主人)、花道つらね(五世市川団十郎)、手柄岡持(御城役)、山手白人(評定所留役)と多士済々、そのほか頭の光(日本橋の町代)、大曾礼長良、節松嫁々(朱楽菅江の妻)、土師掻安、寝小便垂高、普栗釣方、馬場金埒(銭両替商)、竹杖為軽(蘭学者。源内の友人)など。名乗りを聞くだけで、思わず頬がゆるむ。
東作の狂歌
ここからは、平秩東作の狂歌の実作について一首ずつ、その代表的なものを見ていく(主には四方赤良撰『万載狂歌集』所載。括弧内の鑑賞は、水野稔氏による評釈を参考にした)。
スパイ活動の真相
さて、それでは最初に述べた平秩東作のスパイ活動とはいかなるもので、なぜそのようなことをしたのだろうか。
御蔵門徒の偵察と公儀への訴えについては、東作自らが最晩年に息子に口述した『庫裡訪問記』が詳しい。たとえば、こんな具合である。
類焼後の心労から信仰の道に入った東作だが、門徒の狂信的な行動に疑問を持ち、何くわぬ顔をして偵察を続け、その闇の儀式を逐一旧知の石谷勘定奉行に言上しては、ついに密訴に及ぶ。純然たる正義感からとも思われない。『嬉遊笑覧』の著者、喜多村筠庭(信節)が、「小文才あれ共、性よからぬものとみゆ」と評したのも、わからぬではないのである。
伊豆天城山で炭焼きのことにかかわり、その後本所で材木商となり、さらに鉄砲洲に移り住んでいるのも、後年への伏線と解釈できる。鉄砲洲は「海ばた。まき問屋すみ問屋多し」と『続江戸砂子』にあって、中津藩の中屋敷には蘭医前野良沢がいて、『蘭学事始』の舞台になったところ。
とりわけ、東作が蝦夷地で活躍中の材木商(栖原屋北村角兵衛、飛騨屋武川久兵衛、新宮屋久右衛門)と、回船方御用達苫屋久兵衛の手先、堺屋市左衛門と昵懇だったことは見逃せない。堺屋市左衛門は、天明五年(一七八五)の幕府蝦夷地探検事業で、苫屋久兵衛とともに資金、造船及び案内を勤めた人物だからである。
この頃、にわかに東作の眼前に煌めき出した蝦夷地は、長崎以上に海外へ開けた地だった。すでに松前藩では十七世紀初めの寛永年間に厚岸に、元禄年間に霧多布(根室地方)に、アイヌとの取引所を開設し、安永四年(一七七五)には場所請負人と呼ぶ独占商人を指名、交易所を設けて運上金を徴収していた。飛騨屋は、北端宗谷場所の請負人だった。
十八世紀の大航海時代、東からはアメリカが鯨と薬草を追って日本列島に迫っており、ロシアや清国は、カラフトや蝦夷地の高価な黒貂やラッコの毛皮を欲しがり、カラフトや蝦夷地のアイヌは、満州産の蝦夷錦、黒竜江産の青玉を欲しがって、貿易商は松前を拠点に江戸・大坂へ売りさばいていた。
安永二年六月、源内が北国秋田へ向かったのも、鉱山精錬の指導のためとばかりは言い切れない。蝦夷地の情報を求めていたのかもしれず、こうしたことも東作に影響を及ぼした可能性を否定できない。
東作が土山宗次郎に近づくのは、安永七年頃からと思われる。土山は関東各地の河川普請や東海道河川工事で功があり、松本秀持勘定奉行に接近、文芸の趣味もあってか交遊が広く、蝦夷通として知られていた。勘定組頭になったのは、安永五年十一月からで、東作が土山と面識を得るのは、同七年頃からと推定される。
土山の邸内の酔月楼では、連日連夜大尽遊びだった。前掲の大田南畝『三春行楽記』の正月は、こんな具合である。
勘定組頭は定員十五名。役高は三十石から百五十石ほど。分を過ぎる豪遊で、幕府が緊縮財政の折、政商からの資金流入を疑えない。田沼の重商主義政策に参画している土山のなかで、着々秘策が進行していただろう。
この年の四月末、唐突に東作は上方への旅に出る。『東遊記』自序は、「天明壬寅(二年)の夏、木曽路を経て尾張に遊び、水無月のはじめ、祇のそののみまつりみまほしくて都にのぼり……」とあるが、これが偽装であるのは、伊勢山田で長逗留していることからも明らかだ。これは土山の指図で、伊勢大湊での造船事情を下検分するのが目的ではなかったか。
ロシアとの通商の国営化を主張した工藤平助の『赤蝦夷風説考』が成ったのは、天明三年正月。田沼老中と松本勘定奉行が、蝦夷地抜け荷調査船の造船を苫屋久兵衛に発注するのが四年十月で、舟はこの伊勢大湊で造られたからである。一年に及ぶ旅費は、土山が用意したはずである。
上方からの旅から帰ってさして時を置かずに、東作がみちのくを経て、蝦夷地へ渡り、松前の城下に着いたのは、天明三年九月十九日午後。同地では早速、蝦夷(アイヌ)や赤蝦夷(ロシア)の話を聞いている。月末、馬で江差港に向かう。同地の名主村上弥惣兵衛は、よく江戸に上っていて、東作とは懇意だった。通詞を伴っての旅だから、その目的はアイヌの動向を探ることにあったと見て大過あるまい。日本人の横暴、弱い者いじめの話は、『東遊記』にも出ている。
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