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「異人伝ーはぐれ者の系譜」第5回 前田速夫

その五 木村荘平 明治の牛鍋チェーン店「いろは」の主人。東京市内二十二支店に妾を配し、生まれた子供は三十人。

 一八四一年(天保十二)―一九〇六年(明治三十九)。「牛肉大王」の異名で知られた、牛鍋チェーン店「いろは」の主人。民営の火葬場東京博善社も起業。東京市内二十二支店に妾を配し、生まれた子供は三十人。その多くが文芸関係の著名人となる。曙―作家。荘太―作家・翻訳家。荘五―編集者。荘七―奇術師。荘八―洋画家。荘十―直木賞作家。荘十二―映画監督。

有力な支援者に裏切られて頓挫した「新しき村」の再生運動
 大正七年(一九一八)十一月、白樺派の闘将、作家の武者小路実篤は、宮崎県日向に「新しき村」を創設した。自他共生、人類共生を旗印にしたユートピア共同体である。実篤の呼びかけに応じて全国から集まった同志は二十名(うち子供二名)。国策により三分の一がダムの底に沈むと、主力は埼玉県毛呂山の雑木林を新たに開拓して、四十年後、ようやく自活できるまでになる。養鶏の導入が成功して、一時は六十名を越える老若男女で賑わうも、バブルの崩壊にともなって赤字に転落、急速な人口減少と極度の高齢化が進んで、創立百周年(二〇一七年)を目前に、このままでは消滅するほかない事態に追い込まれてしまった。
 両親が戦前からの「新しき村」の村外会員で、新潮社に入社当時、実篤が「新潮」に連載中の「一人の男」を担当したことのある筆者は、かくてはならじと、村が百周年を迎える一年前に『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』(新潮新書)を著して、その存在意義を訴え、再生のための運動を始めた。たまたま同著を読んで資金調達の先頭に立つと申し出てくれた有力者が現れ、その人の協力もあって組織固めもできた(賛同者三百名)。会報も三号、発行した。
 ところが、いまや五名に減少した肝心の村内会員は、余計なことをしてくれるなと言わんばかりに、にわかに貝が蓋を閉じたようになってしまい、その取り巻きの一部村外会員も妨害に出る始末。村の機関誌「新しき村」に、囲みで以下の告知が出たのである。

 前田速夫さんを中心として活動されている「日々新しき村の会」が「新しき村百周年記念事業実行委員会」を立ち上げ、色々な事業を計画しておられますが、この活動は私たち「新しき村創立百周年記念行事実行委員会」の活動とは一切の接点を持たない別の活動であることをご理解下さるようお願い申し上げます。(委員一同)

 まるで、私たちを犯罪者集団であると言わんばかりであった。
 ユートピア共同体の殆どは短命だった。けれども、新しき村はそうではない。世界的にも稀な長寿で、実篤の精神が脈々と受け継がれている。ところが、マスコミの注目を集める絶好の機会だった創立一〇〇周年も、ごくうちうちの祝いに留まり、不発に終わってしまった。その後は、茶畑の雑草取りなど幾度となく村へ通い、年二回の村内・村外会員合同の定期的な会合(評議員会・会員大会)はもとより、あらゆる機会を通じて、村再建のための具体的な方策とそのスケジュールを、何度説明したことだろう。
 退職後の私は、民俗学関係の著作を執筆する以外は、そのほとんどをこの新しき村再生の運動に捧げたといっていい。その詳しい経緯は、前著の続篇『未完のユートピア 新生・新しき村のために』(冨山房インターナショナル)に書いたので、ここでは割愛するけれど、決裂寸前となったところで、前述の有力者が公益財団法人化を提案(現一般財団法人)、これを起死回生のラストチャンスと見た私は、その人が動きやすいように、その認定が得られるまでは一時身を引くと申し出たとたん、なんとその有力者はここぞとばかりに私たちを排除、私利私欲をむきだしにして、事実上、村を乗っ取ってしまったのである。
 新しき村の実質は、埼玉の毛呂山と創設地日向の両村の村内会員とその土地、そして全国の村外会員に存する。財団法人一般は、その構成者である役員の一存で、ペーパー上の運営が可能な組織だから、そこが最も大きな、そして最重要な違いである。仲間の一人は、重態をおして、車椅子で村での会合に参加、口がきけないので、書面でそのことを訴えてくれたが、それも虚しく、ひと月もたたないうちに亡くなった。
 結局、その有力者の息のかかった人たちだけで構成された新役員会は、法律上の建前を振りかざして、日向の村や全国の村外会員の存在を無視し、私たち平の村外会員は、発言する機会すら奪われてしまった。
「この道より我を生かす道なし この道を歩く」――「新しき村」の象徴だった実篤自筆の木標は腐りかけているとして倒され、その跡地にまるで墓石のような味も素っ気もない石碑が建ち、裏面には、「新しき村村外会員一同」と刻むのならまだしも、その人の個人名のみが記されていた。
 機関誌「新しき村」の編集権も、その人の手に移り、今後どのような村にしていこうとするのか、その説明もヴィジョンもプランもなく、ただ法律的な手続きだけが事後報告として載るのみ。村外会員の不安、不満を解消するため、主要な新役員の出席と、関係者のみならず、マスコミほか第三者の参加も促すシンポジウムの開催を計画、参加を呼び掛けたところが、これも拒否されてしまった。
 公益財団法人化を申請してから二年、いまだに認定が得られないのは、申請先の埼玉県が疑問視しているからだろう。当座の生活の保障はすると言われて、その人の意のままになってしまった村内会員(現在はわずか三名)も情けないが、筆者に人を見る目がなかったのである。新しき村の現状は、今日の衰微劣化した社会の縮図で、新しき村が消滅すれば、日本が消滅する。世界が消滅する。そうした強い思いで始めた運動がこのザマで、私は憤懣やるかたなかった。
 この上は、週刊誌にでも訴えるほかないのかと、心底絶望した。しかし、そんなことをしても、世間はよくある組織上の内紛で、あの「新しき村」がそこまで堕落したかと嘲笑うだけだろう。訴訟に及び、たとえ勝利したところで、新生・新しき村への道が開かれるわけではない。
『未完のユートピア』を刊行した際、記事にして世論を喚起するよう新聞各社を説得して廻ったときのことが思い出された。どこも、及び腰で、公益法人化が正式に認可されたあとでならという返答ばかり、こうしてもがいている今こそ不可欠なのに、殺人事件の犯行が目前にして、事件が起きてからでないと動かない警察と同じで、自身の無力を思い知らされただけだった。
 もはやこれまでと、さっさと諦めた気の短い筆者と違って、それでも私を支えてくれようとする仲間がいた。けれど、老い先短い私である。ここは見限り時と判断し、きれいさっぱりおさらばしたのであった。
 話を戻すと、武者小路実篤が「新しき村」を立ち上げた大正七年の六月、第一回の同志会が画家の木村荘八方で開かれ、以後毎月例会となり、七月には雑誌《新しき村》が創刊された。表紙は岸田劉生で、目次は左の通り。

発刊の辞            同人
新しき村に就ての雑感      武者小路実篤
吾々の社会的義務        メーテルリンク・木村荘太訳
詩二篇――田舎にて/晴れた日  千家元麿
真実の生活           永島直昭
之は深い仕事の一つだ      柳宗悦
石の地蔵様           川島伝吉
自分は彼を信用して居る     志賀直哉
新しき村の小問答        無車
雑稿              木村荘太
土地の選択について       川島伝吉
会員諸兄に           武者小路実篤
堺枯川氏の評を見て一寸     無車
編輯室にて           実篤/荘太

 無車は武者小路の武者の言い換え。同年八月、新潮社から村についての感想集『新しき村の生活』が出版されると、各地から続々賛同者、支援者の声が届いた。その数、数百人。同月、東京に本部を設立。九月十四日、本郷のキリスト教青年会館で最初の演説会を開いたその翌日、千葉県我孫子の実篤宅に本部・支部の会員はもとより、長与善郎、柳宗悦、児島喜久雄、犬養健、岸田劉生、木村荘八、椿貞雄、恩地孝四郎ら、多くの応援者が集まって(志賀直哉は病気欠席)、壮行会が催された。
 二十日、我孫子の家を引き揚げ、二十三日、出立。浜松、長野、松本、京都、大阪、神戸、福岡で講演会を開いて、各地の同志を糾合、中村亮平、木村荘太、加藤勘助らと合流して、十月九日に日向の地に入ったのであった。


牛肉大王

 思わず前ぶれが長くなってしまった。ここに出てくる初期の「新しき村」村外会員、木村荘太しようた荘八しようはち兄弟の父親が、じつは本篇の主人公木村荘平しようへいである。明治年間、「牛肉大王」の異名で知られた牛鍋チェーン店「いろは」のあるじ。ゆくゆくは「いろは」四十八店舗を開業するもくろみだったことからの命名で、今で言えば、吉野家や松屋の創業者といったところか。明治四十一年(一九〇八)には、東京市内に以下の支店があった。

いろは本店……………芝区三田四国町二番地(明治十一年開店)
いろは第二支店………日本橋区一丁目十二番地(日本橋南詰)
いろは第三支店………京橋区采女町一番地(歌舞伎座前)
いろは第六支店………神田区連雀町十八番地(明治二十年開店)
いろは第七支店………深川区東森下町四番地(高橋)
いろは第八支店………日本橋区吉川町一番地(両国広小路)
いろは第九支店………浅草区地方今戸町九十三番地(吉原)
いろは第十支店………浅草区東仲町二番地
いろは第十二支店……本郷区本郷四丁目一番地
いろは第十三支店……麹町区隼町二十九番地
いろは第十六支店……麻布区六本木町一番地
いろは第十七支店……赤坂区青山南町二丁目六十三番地
いろは第十八支店……牛込区通寺町一番地(神楽坂)
いろは第十九支店……芝区三田四国町一番地(旅館)
いろは第二十支店……四谷区伝馬町二丁目五番地

 第四支店は「死」を忌んで欠番。第五支店は火事で焼失、本所、下谷、小石川の第十一、十四、十五支店は、販売したか転業したかで、「いろは」の傘下から消えた店である。
 牛鍋といえば、明治の開化以来、「士農工商老若男女、賢愚貧福おしなべて、うし鍋食わねば開化不通ひらけぬ奴」(仮名垣魯文『安愚楽鍋』)という流行ぶりで、主人の荘平は二十貫を超える巨体をフロック・コートに包み、シルクハットをかぶって、朱塗り四つ目紋入り人力車を前後三人の車夫に曳かせて、日夜景気よく東京市中を走りまわった。
 しかも、驚くべきことに、それぞれの店の管理者には、自分が扶養する女性(つまり大半は妾)を置き、彼女たちに生ませた子供が、合わせて三十人いたというのである。

男子              女子
(長男・早死)         栄子(曙、明治三年生まれ)
(次男・早死)         信子(明治二十二年生まれ)
荘蔵(明治十二年生まれ)    林子りんこ(同)
荘太(明治二十三年生まれ)   清子せいこ(明治二十三年生まれ)
荘五(明治二十三年生まれ)   (五女・早死)
荘六              六
荘七              七(早死)
荘八(明治二十六年生まれ)   八(早死)
荘九              九女くめ
荘十そうじゆう(明治三十三年生まれ)   十女とめ(早死)
荘士そうじ              士女しめ
荘十二そとじ(明治三十六年生まれ)  十二とじ
荘十三そとぞう             十三とみ(早死)
十四とよ(早死)
十五とい(早死)
十六とむ
十七とな(明治三十八年生まれ)

 長女栄子は、木村曙のペンネームで知られる、樋口一葉より早い、明治最初期の女性作家。長男の荘蔵は、荘平没後、後継者となるが、贅沢三昧をして倒産、ハイヤーの運転手となる。四男の荘太はロマン・ロランの翻訳家・作家。「新しき村」の支援者で、荘五、荘八、荘十二も、荘太に誘われて、「新しき村」の村外会員になった。第二次「新思潮」を創刊して、谷崎潤一郎に「誕生」を書かせ、作家に育てあげたことでも有名。荘五は慶大理財科卒。銀行に勤めたあと、「新しき村」の出版部門、曠野あれの社の責任者となり、のち東京市の資料室では市史の編纂にあたった。
 四女の清子は女優。荘六は相撲の梅が谷部屋に入門、四股名を木村山と称したが、その後浅草大勝館の弁士、奇術師木村マリニーとなって現れた(昭和の奇術師・アダチ龍光は弟子)。荘七は女方の新派役者。八男の荘八は荘太の同母弟。永井荷風『濹東綺譚』の挿絵で知られる洋画家。岸田劉生らと「ヒュウザン会」を立ち上げ、『東京の風俗』『東京繁盛記』などの著書もある。十男の荘十は直木賞作家(受賞作は『雲南守備兵』)。十二男の荘十二は映画監督(『兄いもうと』『森は生きている』など)。十女の十七子は、新橋の歌舞伎汁粉店「華」の経営者。
 生来、内向的な上、庶子であることを恥じた荘太は文学一途で、武者小路や谷崎のほかに小山内薫、島崎藤村、和辻哲郎、福士幸次郎、長与善郎、千家元麿、志賀直哉、柳宗悦ら、多くの文学者と交遊したが、関東大震災後は千葉県遠山村で帰農生活を送り、『農に生きる』などの田園エッセイを著した。昭和三十五年(一九五〇)四月、自伝『魔の宴』を刊行、その直前、成田山新勝寺内の公園で縊死している。
 荘八は、両国広小路にあるいろは第八支店の生まれ。父の死後、浅草の第十支店、京橋の第三支店に移って、帳場の担当をしながら、兄荘太の影響のもと、文学や洋書に興味を持ち、やがて洋画家を目指した。ヒュウザン会や草土社の同僚である岸田劉生は、明治の新聞記者、実業家(目薬販売)、岸田吟香の四男で、家が近くだったこともあって、急速に親しくなった。二科展、院展洋画部、春陽会に出品を重ね、「パンの会」「新宿駅」「猫の銭湯」などのほか、生家の帳場に座っている自身を描いた「牛肉店帳場」という油絵もある。晩年は挿絵の仕事が増し、朝日新聞に連載された永井荷風『濹東綺譚』のそれは、読者の人気を博した。戦後は文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作『東京の風俗』『現代風俗帖』『東京繁盛記』等を多数出版、『木村荘八全集』全八巻(講談社)がある。
 荘八は荘太と違って、庶子であることを恥じていない。左は「父・木村荘平」の一節である。

 僕は庶子である。只「庶子」というは屡々日陰ものであったり侘しいものだったりするに反して、僕の場合は公然としたものだったので、そこに今にして思えば一つの「滑稽さ」というか、或いは「ヘンてこさ」というか、そういう明るいものは有っても、庶子的暗い影は無いのを取り柄とも云おうか、それは「母」がそうしたものか、又は元来「父」が僕の母や僕達コドモをそう明るくあらしめたものか――よくわからないけれども、恐らく後者だろう。「父」はそんな「芸」の出来るニンゲンだったようである。


上京する以前と以後

 さてここからが、ようやく木村荘平についてである。生まれは、天保十二年(一八四一)七月。山城国伏見の農家の第二子。子供の頃から手のつけられない暴れん坊で、七歳で寺小屋に預けられるが、三年後も自分の姓名しか書けなかったという(松永敏太郎『木村荘平君伝』)。十歳で製茶売り捌き業を見習い、十三歳で独立するが、遊蕩が止まず、父の実家に引き取られた。十六歳のとき、力士を志して家出、大坂の小野川部屋に入門。ほどなく生家に連れ戻され、十八歳のとき、伏見で青物屋を開いた。
 荘平の運命が開けるのは、ここからだ(以下は、主に小沢信夫著『悲願千人斬の女』所収「いろは大王」による)。文久元年(一八六一)には青物問屋二十三軒の組合を作って取締役となり、幕末に勤皇佐幕諸藩の賄いを請け負ううち、慶応四年(一八六八)の鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の御用達を務め、売掛金を踏み倒されるが、この縁がのちの東京での成功につながる。
 明治に入ると、薩州物産会社の払い下げを引き受け、神戸栄町に資本金三十万円の製茶貿易商店を設立。回船問屋も開いた。だが、これらは大欠損を作ってすぐに解散となる。
 明治十一年(一八七八)、三十九歳の荘平は、内務卿大久保利通としみちの懐刀と呼ばれた薩摩藩出身の東京警視庁大警視(今日の警視総監)川路利良としよしの招きに応じて上京した。当時、食肉の流行にともない、民営の屠場が乱立、衛生面などの問題もあって、警視庁は直轄の屠場を一個所に限ることにした。その運営にと見込まれたのが、図抜けて太っ腹の荘平だったという次第。
 これに乗った荘平は、三田四国町に居を構えた。牛鍋チェーン店「いろは」第一号店の開店は、この年である。薩摩、蜂須賀、内藤、池田など四大名の家臣の住いがあったから、四国町。御一新後は新政府に没収されて、四辺藪だらけの原っぱとなり、わずかに慶応義塾とマッチ工場があるだけだった。
 明治新政府は、あれこれ新事業を興しては、民間に払い下げた。昔の借りを返したり、新しい貸しを作ったりの政商結託。同十三年、荘平は手始めに興農競馬会社を設立、三田の育種場で競馬を始めた(馬券は無し)。馬匹改良を表看板に、春秋二期のうち一度は天皇の行幸を仰いでみせたのである。
 十六年、浅草千束にあった屠場を芝浜に移転し、食用牛の屠殺場「豊盛社共同屠場」とする。二十年には東京家畜市場会社の理事に就任。だが、荘平の事業欲はこれに留まらない。
 同年、日暮里村に新式の火葬場が出来、その運営を請け負う「東京博善社」を設立。日本麦酒醸造会社も設立。二十一年、甜菜てんさいの製糖会社を興す。二十三年、蛹から機械油をつくる事業プランに参与。
 二十六年、東京博善社は町屋にも新式の火葬場を設けた。赤レンガの炉に高い煙突をつけた近代設備で、これにより従来の野焼き同然の焼場の臭気を一掃した。
 さらに同年、「東京本芝浦鉱泉株式会社」を設立。地元の漁民が掘りあてた鉱泉を引いて、温泉つき旅館「芝浜館」(元は後藤象二郎の別邸)と料亭「芝浦館」を開き、芝浦埋めたて以前のリゾート施設として成功した(両方を合わせると、間口が約百メートルあった)。
 羽田飛行場に近い穴守稲荷の発展にも尽している。もともと羽田浦の土手の狐の穴を、地元の農漁民が信仰の対象にしていたのを、なかなか御利益があると聞いて、故郷の伏見稲荷に渡りをつけて「穴守稲荷」の額を掲げて祠に祀った。
 ちなみに、荘平の肩書をざっと書き出してみると、こうなる。

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