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痛note往復書簡 二通目

 内澤 崇仁さま

 灼熱の八月、いかがお過ごしですか? 喉を痛めないためにエアコンは使用しないとおっしゃっていましたが、この酷暑。どうかご無理はなさらないように。

 さらに三徹は当たり前の楽曲制作、時間節約のために食事は手が塞がれずに済む点滴が良い、などと超人的で驚異的なことも以前おっしゃっていらっしましたが、お体がかなり心配です。

 エアコンを使用し(愛猫のためです。九……いや五割くらい)、一日も欠かすことなくアイスクリームをかぶ飲みしている私は怠惰するぎる己の生活に忸怩たる思いでございます。

 とはいえ、エアコンを消すと暑すぎて倒れそう(激弱)なので、こんなときは京料理研究家で冷房嫌いな大村しげさんのエッセイでも読んでみましょうか。

わたしは冬よりも夏のほうが元気である。その理由の一つには、祇園祭でお祭り好きのわたしがカッカと燃えることにもよるけれど、それよりも、まず、きゅうりやらおなす、トマトがふんだんにいただけることが、うれしい。(…)
 きゅうりとあえるのは、水にもどしたわかめ、さっと焼いて刻んだお揚げ、ちりめんじゃこ、揚げ麩、それにたこやらはも焼きである。二杯酢か三杯酢でいただくと、口あたりがさっぱりとする。

『ふるさと文学館第三一巻』(ぎょうせい)「旬の味」大村しげ著

 ここまで具材を贅沢にしなくとも、きゅうりとわかめ、そして刻んだお揚げの三杯酢だけでもかなりおいしいです。あとなすとキャベツとピーマンの味噌だれの素炒め、ナッツスパイスをまぶした冷やしトマトでも作ったら、もう暑さ万歳。夏を満喫状態です。

 ぜひ内澤さんに食べてもらいたいのですが、私の手料理をふるまえる機会がございませんので、このトド助が責任をもって完食させていただきますね!

 はい! ごっつあんです。

 わっしゃわしゃ食して元気になったところで、デーリー東北さんに連載されている『音は空から言葉は身から』にある「エッセーとは何か」というお言葉について再度考えてみましょう。

 前回はフランス編だったので、今回は日本編です。

 まずは英文学者の竹友藻風による『エッセイとエッセイスト』(北文館)から。

エッセイとは何ぞやという問に對する最も手短な、また正當な答は「食前の祈禱」Grace Before Meat、「夢の幼児」Dream Children、「煙突掃除人の賛」The Praises of Chimney Sweepers、「古渡陶器」Old Chinaなどであると言ふことであらう。それ故に『エリヤ小品集』Essays of Eliaを研究するのは、やがてエッセイそのものを研究することになる。ラムの特質はエッセイストの特質である。

『エッセイとエッセイスト』(北文館)竹友藻風著

 すっげえピンポイントに一冊だけやな。ええんやんめっちゃ偏愛やん、竹友せんせ。

 などと、もじょもじょ言いましたが、とりあえず一冊だけなので私の脳でも記憶できました。

 てなことで、素直に『エリア随筆抄』(岩波文庫)、『エリア随筆抄』(みすず書房)を読んでみました。

 そうそう、そもそもチャールズ・ラムの著書なのになぜ『エリア随筆抄』なのか。ラム随筆抄ちゃうんかい、エリアって誰やねん、となったかもしれません。

 エリアとは、架空の人物です。

 えっ!?

 と、驚いてくれましたか?

 知っとるわと言われても、流しそうめんのごとくその言葉通過しておきますね(言葉がそうめんでなく、川勢がそうめん本体としてザザッと流れ去ります)。

 内澤さん、そうめんお好きって言ってましたよね! ね!

 そうめん、戻りました。

 さて。

 ラムはこの著書を書くにあたり友人にこんな手紙を書いています。

「君のところにまもなく、虚実綯い交ぜの織物を届ける。そこに綴じ込まれた紙は大層微妙なもので、虚実の仕切りが全く見えないため、君は帰国するまでに頭を悩ませ続けるだろうが、[帰国しても]説明なんかしてやらないよ。」

『エリア随筆抄』(岩波文庫)チャールズ・ラム著 南條竹則編訳

 おもろいな、ラムさん。さらに、

ラムは「自分が嘘ばかりつく人間(a matter-of-life man)であることを評価して」いると公言し

同上

 とあります。

 ほう。ラムさん、ええで、ええで。笑いのセンスあるやん。ちょっと嫉妬しちゃうやん。

 とはさすがに浅学な私でも言えません。

 なぜならラムは、母親による長男偏愛(ラムには兄と姉がいますが、母親は兄ばかり贔屓し、姉とは特に不仲でした)、失恋の傷心による六ヶ月もの入院生活、姉が母を刺殺し(母を刺した件に関してはほとんど事故だったのですが、ラムが姉への献身的な態度を貫いたのは、やはりそれだけ姉であるメアリイの苦労を理解してのことだと思われます)法廷で姉を一生看病すると宣言し何とか姉が精神病院に閉じ込められることを防いだものの、そのことにより自身の生活を大きな犠牲とすることとなった、苦悩に満ちた人生を歩んだ人です。

 これらを踏まえて『エリア随筆抄』にある「食前感謝の祈り」を読んでみましょう。

さて、食事の祝福の形式は、貧しい人の食卓か、さもなければ、簡素でさして食欲をそそらない子供たちの食事の場合に、その美しさがある。

『エリア随筆抄』(みすず書房)チャールズ・ラム著 山内義雄訳

私はいつも彼ら(クエイカー教徒)の沈黙の感謝の祈りに敬服し、その後の食事や飲み物に向かう態度が、私どもよりずっと冷静で淡白なのを見て、いっそう敬服の度を深めるのである。

同上※()は川勢によるもの。クエイカー教はプロテスタントの一派で、平等主義であり禁欲的な思想を持っていた。粗食を重んじ、砂糖など奴隷労働者を使用する食品を拒む者もいた。

 なんて語った数行後にラムは

食物にかけては、私は断じてクエイカー教徒ではない。食物の種類に無関心でないことを告白する。(…)バターの溶けぐあいの悪いのは──ごくありふれた台所の失敗だが──気分の調子を壊す。

同上

 と言い放っている。

 ええええ、と言いたくなるところだが、二十代前半で家族を養い、その後(姉によって)家族を失うが献身的に過ごしてきたラムのこと。それでもこういった──解説にある言葉を借りるなら──パラドクシカルな筆を、ユーモアを忘れなかったことに、ほっと安堵の微笑みがうまれてはきませんか?

 エッセイとは矛盾がなく、嘘偽りもなく、エンターテイメントを追求したりするもの、ではなく、こんな風にぐらぐらと矛盾した心を吐露するのもまたエッセイなのです。

 とはいえ、竹友氏によるエッセイ論も、素敵なラムのエッセイも、やはり日本のエッセイではありません。

 なので、次に講談社エッセイ賞の選考委員を務められた酒井順子さん『日本エッセイ小史』を読みました。本書によると

ざっくりとした区別をつけると、昔の人や偉い人が書いた高尚な作品が「随筆」であり、現代の作品や軽い作品は「エッセイ」と言われる傾向にある、ということになりましょう。昔と今との間のどこかで、というよりも昭和のどこかで、随筆はエッセイと言われるようになったのです。

『日本エッセイ小史』(講談社)酒井順子 著

モンテーニュの『エセー』から時代からは遠く離れて、エッセイという言葉に独特の軽みが感じられるようになっていた一九八〇年代の日本は、軽さが文化となっていった時代でした。

同上

 ここだけ読むと、「何だ、推しとかいっておきながら僕の文章を軽いと言うのか」、と心優しい内澤さんでも思われるかもしれません。いやきっと思いませんけど、でも大丈夫! 軽いとは決してマイナスな意味ではありません(そうめん、強引に話を進めましたご了承ください)。

彼(パルメニデース)は全世界が二つの極に二分されていると見た。光──闇、細かさ──粗さ、暖かさ──寒さ、存在──非存在。この対立の一方はパルメニデースにとって肯定的なものであり(光、細かさ、暖かさ、存在)、一方は否定的なものである。(…)軽さと重さでは、どちらが肯定的なのであろうか。
 パルメニデースは答えた。軽さが肯定的で、重さが否定的だと。
 正しいかどうか? それが問題だ。確かなことはただ一つ、重さ──軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。

『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫)ミラン・クンデラ 著 千野栄一 訳

 すでに読まれたかもしれませんが『存在の耐えられない軽さ』を読めば、軽さと重さについてどちらが肯定的で否定的だなんて考えは消え去ることでしょう。

 ところで、内澤さんはご自身のプロフィールにエッセイストとは書かれていない。控え目な内澤さんのこと、音楽家なのだからエッセイストとは自称しづらいとお思いかもしれません。しかしながら、内澤さんはandropのほぼすべて(ただしアルバム『Blue』を除く)の作詞を担当されています。

 じつは詩とはエッセイでもあるのです。

伊藤(比呂美)氏の作品をエッセイだと思って読んでいたら、それはエッセイではなく詩のつもりで書いているのだ、とあって「!」と思ったのです。確かに、自由詩の書き方は「自由」なわけで、詩はエッセイに擬態することができるのかも。

『日本エッセイ小史』(講談社)酒井順子 著

 そんなわけで、そろそろ自己紹介でエッセイストを名乗っていただくのも、いかがでしょうか。

 随分と長くなりました。

 エッセイ論の最後には『エッセイの書き方』(岩波書店)で見つけたこんな言葉を置いておきます。

エッセーの条件として欠かせないのは「自由な形式で、気軽に」自分の意見や心境・感想などを述べたもの(新明解国語辞典)で、何の制約もないことだ。

『エッセイの書き方』(岩波書店)日本エッセイスト・クラブ[編]

 では、二通目もここらにしておきましょうか(おっしゃー缶ビール500mlあけましたー)。

 今日も熱した針のような日差しですが、『音は空から言葉は身から』vol.1の掲載は四月。桜の話をされていましたね。

 今年は日本中が新型コロナウイルスの影響で桜を見る機会が少ない。お花見などそんなに熱心な方ではなかったのに、毎年当たり前のように見ていたものが見られなくなり、初めて愛しさを感じました。

『音は空から言葉は身から』vol.1(デーリー東北)内澤崇仁著

「当たり前を当たり前と思わず、日々を大切にする心を持つことが大事」とよくライブのMCで内澤さんはおっしゃっていますよね。

 そんなごく当たり前の日々に感謝の手紙を書くような『Tayori』で今回は締めくくるとしましょうか。

 では、また次回。どうかご自愛くださいね。


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