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『新・動物の解放』と和食文化とフレキシタリアン
明治時代のグルメ小説、『食道楽』にこんな一節がある。
「(…)豚の饅頭だって? おおいや、東京の人は豚なんか食うのかね。こっちのは牛の舌だって? まあ気味が悪い」
このくだりに編訳者である村井米子氏はこんな註釈を付している。
明治三十年頃は、まだ一般に肉食を好まなかった。肉食のときは、神棚に白紙をはり、縁側に出て食べたという家も知っている。最近は栄養的にはすすんだが、一方また肉類を過食すると、気が荒くなる。野菜果物を同時に多く摂り、中和させることが肝要。
神棚に白紙を貼るのは、神に穢れを見せないためだと言われている。縁側に出たのは神棚から少しでも離れる(隠れる)ためか。
『食道楽』が新聞に連載されていたのは明治三六年。いまより120ほど前の話だ。そんな昔の話、いまの時代に関係ないと思う人もいるかもしれない。ただ、日本には肉食忌避の文化があったのは事実である。
かく古くは日本でも肉食が行われていたが、天武天皇四(六七五)年に殺生禁断の詔が出された。この詔は前段で野生動物の効率的な捕獲方法を禁じ、猟期を定め、後段でウシ、ウマ、イヌ、ニワトリ、サルの摂食を禁じている。この時点では禁令は農耕に必要な家畜や日常生活に密着した動物の保護の色彩が強い。しかし聖武天皇の天平一七(七四五)年には仏教の殺生戒によって、魚鳥を含む一切の動物食が禁止された。以後再々禁令が出され、肉食に対する罪悪感が貴族から漸次庶民に広がっていった。肉食を忌む感覚は室町時代に最も広まったが、魚介類と鳥類は除外された。一方武士は戦闘訓練を兼ねて巻狩と称する狩猟を行い、獲物の野生動物を食べた。肉食に対する禁忌は江戸時代後期になると少しずつゆるみ、文化、文政期(一九世紀初期)になると江戸に「ももんじや」と呼ばれる獣肉料理店が現れ、イノシシ、シカ、クマ、タヌキなどの料理を薬喰いと称して提供した。これらの店では社会の風潮に配慮して、イノシシをやまくじらと呼んだ。
明治に入ると肉料理をメインとした西洋料理が登場するが、小俣日出郎氏による『日本食文化の原点』には「儀礼・社交・取引などの宴席では相変わらず会席料理の形式による日本料が多く」とあり、小菅桂子氏の『近代日本食文化年表』に書かれている明治四十年の箇所にはこんな言葉が記載されている。
『年中惣菜料理』刊行。肉料理が惣菜献立に登場。
一年間でざっと一、〇〇〇回余りの献立が出てくる中で、肉料理は鶏肉六〇回、牛肉七回、豚肉一回、ただ肉とあるもの二六回。これにハム七回を合わせると合計一〇二回になる。つまり一年間の献立中肉料理は全体の一割弱、その半分以上は鶏肉が占めている。
さらに同書の大正十一年のページには「陸軍糧秣本廠の調査によると、国民一人平均鮮魚二五・五グラム、塩乾魚一六・九グラムに対して、食肉はわずか三・七五グラムに過ぎなかったという。」とある。
話を日本人の食における大きな転換期となった明治に戻そう。
明治時代はまだ国民の半数近くが農業従事者だった。農業と肉食については、原田信男氏による『歴史のなかの米と肉』内において稲作を掌る御歳神にまつわる話が書かれている。
農耕神である御歳神が、田植の日に農民が水田で牛の肉を食したことを怒って、蝗を放ち苗を枯らしてしまったというのである。そこで占いの教えるままに、白猪・白馬・白鶏を捧げる儀式を行ない、さらに牛肉と男茎形を田の溝口に置いて、これを忌み、特殊な植物や塩で清めを払ったところ、御歳神の怒りが解けて、稲が豊かに実ったという話になっている。すなわち牛肉を食すると、農耕に支障をきたすという信仰が、すでに九世紀初頭には神話として定着していたことになる。
ここに書かれている御歳神の話は『古語拾遺』内の神話だ。本書は九世紀に編纂された神話の話ではあるが、現在も続く各地の祭りの起源は豊穣を願うものが多く、肉食、神(あるいは仏)、農業の繋がりは無視できない。そもそも天武天皇の時代(六七三〜八六年)に殺生禁断令が発令され、その後も仏教や神道の影響もあり肉食忌避の文化は続き、明治四年ついに宮中における肉食禁止令が解かれ、翌年明治天皇が牛肉を試食されたことが大きなニュースとなったほどだ。過去の出来事の影響は無縁ではない。
とはいえ、肉食禁止としながらも例外を設けたり、猪を山鯨と称したり肉食が続けられていたこともまた事実である。そして戦後に入ると、「米中心の食事から副食物を多くとる食事に変わって」※いった。
※『日本食文化の原点』より
今日の食卓に並ぶ料理は、ハンバーグ、カレー、餃子など材料に肉は欠かせいものとなっている。
肉だけではない。現在日本は世界トップクラスの卵消費国である。
『ニワトリの動物学』(東京大学出版会)には、「ニワトリの卵や肉が一般の食材として広く用いられはじめ、重要な動物性タンパク質源として注目せれるようになったのは、比較的新しく明治以降のことである。」と書かれている。明治21年に実施された農事調査によると飼養されたニワトリは全国に約910万羽とある。家禽調査によると採卵数約3億8,000万だった。明治21年の人口は約3,900万人なので、一人あたり年間約10個の消費となる。その後飼養数は増え続け、第二次世界大戦時は激減したが、1951年以後再び増加の道を進んでいく。
キューピーのホームページによると2023年の日本人による年間卵消費数は339個だそうだ。
さて、これまで日本では肉、そして卵ですらあまり口にされていなかったことをあげてきた。これは肉食を否定する意味であげたのではなく、人の食への思想は社会の風潮で変われるものだ、ということを言いたかった。
さて、導入が長くなってしまった。これらを踏まえてまずは自己紹介をさせてもらいたい。
私はフレキシタリアンである。
フレキシタリアンとは、植物由来食品をメインとしつつ、動物性食品も摂取するフレキシブルな菜食主義者のことである。
と自己紹介をすると
「宗教上の理由ですか?」
「ああ、オーガニックとかが好きな人ね」
「意識高い系アピール?」
「うわ、面倒くさい」
などという言葉が返ってくる。
待て待て、違う、そうじゃない。最後の面倒くさい以外は(小声)。
私は信仰している宗教はなく、有機農業だけでは管理や収穫の安定化が難しく食糧不足の問題が起きる可能性が高くなるので有機栽培のみを支持するつもりはない。意識については高いとか低いとか正直興味がない。
面倒くさいに関しては、確かにそうかもしれない。すまん。一緒に食事をする際、私に気を遣ってくださっている方には申し訳なく思っている。わざわざ野菜中心のお店を予約してくださる方もいた。だが、私としては相手が食べたいものを食べてくれるのが一番嬉しい。
誰かと食事をする、それはとても貴重で親密な体験だ。美味しいものを食べたとき、「美味しいね」と相手が笑った顔は幸福感を与えてくれる。家に遊びに行くと必ず手料理を振るまってくれる友人の料理はもちろんその心にも、私は思い出す度感謝の気持ちでいっぱいになる。そしていま、私が日々味わっている孤食ほど食への興味が薄れていくものはない。ただ腹に詰め込むだけの作業となることを避けるために、冷凍食品もファーストフードも惣菜も買わず、自炊し皿に盛りつけているが、それでも食事の時間が楽しみと思える気持ちが年々失せている。自分が好きなものを作って食べるより、知人とレンタルスペースを借りて食べる周囲の好みに合わせた惣菜や菓子類の方が遥かに美味しいし、記憶にも残っている。
そんな体と心に非常に重要な「食べる」ことについて、そしてフレキシタリアンについて、語らせてほしい。
フレキシタリアンは知らなくても「ミートフリーマンデー」という言葉なら知っている人も多いのではないだろうか。これは月曜日(あるいは週のどこか一日)だけ動物由来食品を控えようという活動である。これもフレキシタリアンの枠に入るだろう。私は動物由来食品を控えるのは月曜日だけではないが、肉を食べることもある。そもそも肉は好きだ。
ではなぜ肉を食べることを控えるのか。
答えは、工場式畜産の映像を見たとき、思わず目を逸らしてしまったからだ。目を逸らし、不快感を抱いたのにもかかわらず、それを無視して食べることに疑問をもってしまった。そして、肉になる以前の劣悪な環境に抵抗感があり、状況が改善されることを望んだ。
なんて話をすると「そんなのバカじゃん。食べるものがどうやってできているか調べるからそうなるんだ。自分はおいしければ何でも良いし、逆にどうやって作られてるかを公表してくるやつの性格が悪いと思う」と言われたことがある。実際にある。
知らなければ何でも良い。なるほど、そういうい考えの人もいるだろう。
しかし──
例えば、あなたが住む地域の市政に決定権を持つ人物が原発汚染水(処理水ではない)を引き取り、上水に混ぜたとしよう。その件を知った人物が告発する。しかし、「知りたくないという方もいるので住人には相談せずに混ぜました。これは配慮です」と言われたら、納得するのだろうか。
いや、これは極端な例だったかもしれない。ただ、自分に健康的被害が及ぶ可能性がある場合は許せないが、自分に被害がなければどうでもよいという意見もあるだろう。
ここが問題なのだ。
自分さえ良ければいい。自分に被害が及ばなければ何でもいいという人もいる。
私はそう思えなかった。そして思えないのは私だけではなく、多くの人ができることなら自分が口にするものは劣悪な環境でないことを願いっていると信じている。
そこで、自分さえよければ良いとは思えない人にぜひ読んでほしい本がある。
それがピーター・シンガー『新・動物の解放』だ。
基本的な平等原則は、平等もしくは同一の扱いを求めるのではなく、平等な配慮を求める。異なる存在への平等な配慮は、違う扱いや違う権利に帰結しうる。
この平等原則から、他者への廃量や他者の利益を考慮する意欲は、当の他者らがどんな者であるか、どんな能力を持つかに左右されてはならないという結論が導かれる。
シンガーは「当の存在の利益を、その種類を問わす考慮に入れることであり、その考慮は平等原則のもと、人種や性、あるいは生物種の違いによらず、全存在に平等におよばなければならない。」としている。ここで思い出すのは、犬を食べるのは許せないが牛や豚は食べても良いし、酷い扱いを受けても良いという思想を持った人たちは少なくないということだ。この問題に『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか──カーニズムとはなにか』(青土社)は、豚は知性が高く、綺麗好きであるにもかかわらず、私たちは人間が作りあげた檻の中の豚を見て汚いと思い込み、なぜ食用になったのかはそういうことになっているからと思考停止してしまうことを指摘する。
はたして、檻に閉じ込められるような豚が悪いのだろうか。人間なら賢いから檻に閉じ込められることはないだろうか。いや、そんなことはない。歴史を学んだ私たちはナチスによる収容所を知っている。さらに我々は原爆を二度も投下されている。日本人は能力が低いから投下されて当然だったのだろうか。原爆投下のシーンで拍手喝采が起きる会場にて、あなたも一緒に素晴らしいと拍手するだろうか。
ある人や動物が劣悪な環境にいるとき、相手に責任を押しつけるのはとても簡単だ。そのような状況に疑問を抱き、理由を追求せずに何も考えなくて済むからだ。ただ、私たちは考え、行動を起こすことができる。
「《私たち》は◯◯(自分が属する集団の名を入れよう)で、《かれら》は違う」という主張──は、従来、他者の利益に対する平等な配慮を拒む言い分として使われてきた。人種差別主義者は自身の人種に属する者の利益をひいきに衡量することで平等の原則を侵し、性差別主義者は自身の性に属する者の利益をひいきにすることで同じ原則を侵す。
今日の目で見れば、そのような人種差別や性差別の正当化根拠なるものは、支配集団の利益に資するがゆえに受け入れられてきたにすぎないと分かる。
人種差別が決してなくなってはいないが、差別意識はなくしていくべきだと私たちは知っている。そもそも、白人至上主義の人たちからすると、私たち日本人は差別される対象だ。
少なくとも一部の人間ではない動物が痛みを感じ、その他、正負の意識状態を経験できることについては、もはや科学者のあいだで真剣な論争はない。現在、より活発に科学界で争われているのは、どの動物が意識経験を持つか、あるいは持っている可能性があるか、である。
人種差別の話からいきなり動物の話をされてもいまいちピンとこないかもしれない。もう少しシンガーの言葉を引いてみよう。
異なる種の苦しみの比較が困難なのは間違いなく、ゆえに動物と人間の利益が衝突する場面で平等の原則が正確な行動指針を示すことはないが、この原則のもとに私たちが現在の行動を改めるうえでは、正確さが不可欠というわけでもない。
動物の苦しみを考えるうえで平等の原則が必ずしも正確である必要はないとシンガーは言う。そもそも彼らは私たちに正確にこの部分を改善してほしいと訴えることができない。では判断すべきか。この部分をもう少し追求した言葉が『動物倫理入門』にある。
人間と同様、動物にとって善き生には、運動、愛情、健康、共同体、尊厳、身体的不可侵性、苦痛の回避など多くの側面がある。動物の生の価値がある側面の中には、抑制されても苦痛とならないものがあるかもしれない。人間と同様、動物は自分が知らないことを残念がることはあまりない。一生を小さな檻に閉じ込められた動物が、許されていない中で自由に動き回ることを夢見るとは考えにくい。それにもかかわらず、自由な運動は繁栄の一側面として価値がある。
確かに檻の中しか知らない動物が自由に走り回り、遊ぶ行為を望むだろうか。
じつは、望むのである。
金網の檻に収容された雌鶏たちが羽に含ませる砂がないのにもかかわらず、砂場で飼われる鳥たちよりも高頻度で(ただし短時間ではあるが)砂浴びのような行動をとることを明らかにした。砂浴びの欲求は極めて強いため、雌鶏たちは金網の床でもそれをしようとして腹部の羽をこすり落としてしまう。
家畜は広い世界を知らないのだから不満もないだろうという考えはこれらの話で否定できる。
さて、ここで疑問がわく方がいるかもしれない。そもそも私自身、ぶつけられたことがある疑問だ。動物の痛みへの配慮の話をすると、「なぜ植物は食べるんだ」と批判されることがある。確かに動物の権利ばかりヴィーガンは訴えるのだと疑問を持つ気持ちはわかる。そこで私が共感した『動物意識の誕生』にある思想をあげておきたい。
生体[living entity]の多くに意識感覚や意識を認めない理由のひとつは、意識、無意識[unconscious]、非意識[nonconscious]の状態の区別を意味あるものとするには意識の意味を広くとってはならないからだ。深い麻酔で無意識であるヒトの(ニューロンを含む)細胞は申し分なく生きている。しかし、細胞は生きていて動的な状態にあるが、それでも無意識であると言えるのは[細胞ではなく]そのヒトなのだ。細胞は意識を備えているのでも無意識なのでもなく、非意識にある。同じように、ヒトなどの動物から取り出した生細胞は培養下で成長し、ニューロンに分化し、興味をそそる神経ネットワークを形成するかもしれない。しかしながら、神経ネットワークに意識や主観的経験があると言うなら、裏を返せば無意識にもなりうる[意識を失いうる]ということでもある。これは[いかようにも解釈できる]まったく中身のない言明のように思える。われわれの興味は意識を失いうる生物にあるので、意識感覚や意識を運動性細菌や熟れたトマトに帰すことはできない。意識と無意識の区別は細菌やトマトに対して意味をなさない。
上記にある通り、意識があり、意識を失いうるものへの配慮は必要だ。しかし、培養細胞など非意識なものは除外する。これが私にとっての食への配慮の線引だ。
ではなぜ肉を食べることを完全にやめないのか。これは完全菜食主義者の人たちからすると見過ごせない由々しき問題だろう。
例えば私がモンゴルの遊牧民のように動物性食品に頼らなければ飢える状況にあるのなら、彼らも人への配慮として納得するかもしれない。だが私は日本で暮らしている。和食には出汁が必要なことが多く動物性食品を完全に避けるのは難しいとはいえ、不可能ではない。椎茸とネギと昆布で十分美味しい出汁はとれる。最近ではおいしい大豆ミートも、プラントベースチーズもある。
だが私は、今後も肉も食べようと思っている。
それには大きな理由がある。
動物倫理を学び始めたとき、私はヴィーガンになろうと思っていた。その決意を確固たるものにするため、品川にあるお肉の情報館へ足を運んだ。いままで肉を食べてきた者として、どのように処理がされているのかこの目でしっかり見て、学ぼうと思ったからだ。だが、私はここで衝撃を受ける。動物への差別どころかと場で働く人たちへの差別があったのだ。お肉の情報館ではと場で働く人たちが受けた悪質で不条理で執拗な差別の数々が書かれていた。恥ずかしながら、私はいままであの様な酷い差別があることを知らなかった。と場で働く人たちの手捌きはヴィーガンになろうと思っていた私でさえ素晴らしい技術だと思った。肉を食べているのに、あるいは食べてきたのに、その肉を提供してくれる相手を差別するとはどういうことだろう。あの日以来、私はヴィーガンになることは諦めた。工場式畜産をできるだけ避け、極力回数を減らすという道を選んだ。
ちなみに、シンガー自身も完全なる菜食主義者ではない。彼は牡蠣を食べている。
カキを食べることに反対する手堅い議論は、カキに有利な推測をすべきだという指摘である。「我々はカキを食べるべきではないし、カキが痛みを感じないとは断言できない」とビーガンの友人は言った。こうした考えから、私は本書の一九九〇年版で、カキを避けたほうがよいと述べた。本書のために再び証拠を探していた私は、ピーター・ゴッドフリー=スミスが最新の研究を検証し、小エビとカキのあいだにはやはり線が引けそうだと結論したことを知って喜んだ。
シンガーほどの人でも植物だけではなく他のものも食べたいと思うのだ。つまり自身の欲求を抑えている。おそらくそれは大なり小なり苦痛はあるだろう。苦しいが、それでも自身よりも多くの動物へ配慮ができる。この精神は見習う価値のある崇高なるものだと私は思う。そしてその配慮の精神を、動植物を提供してくれる人たちにも示してほしいと思う。
よって、私はカーニズムを否定する気はない。なぜなら、私は人が好きだからだ。そして、人より動物が好きと言いながら工場式畜産を口にする人よりは、自分は肉食への欲求を抑えるのが非常に苦痛であると言い肉食を続ける人の方が信用できると思っている。ただ、そんな肉食主義の人でも週に一度、いや月に一度くらいはミートフリーを体験してみるのはどうだろうとは伝えたい。みんながヴィーガンになるのは決して容易ではないし、かなりの長期的な目標になるうえ、急に動物性食品を取りあげるのは精神的な負荷がある。食を急に、しかも強制的に変えるのは相手への配慮に欠けることになるだろう。ただ、カーニズムを主張する彼らもヴィーガンがフレキシタリアンがいることを受け入れること、そして週や月に一度菜食にすることはややハードルが低くなるのではないだろうか。お互いに理解し、許容し合うところから始めていけたら嬉しいと私は思う。
私たちのほとんどは自分の食べているものが動物の死体だと理解できるようになる遥か以前に、動物の肉を食べ慣れてしまった。(…)長年肉を食べてきたあとでは、自分が食べる動物たちについて全く違う考え方をするのはたやすくない。
シンガーもやはり肉食に慣れた人が考えを変えるのは容易ではないと配慮をしている。そう、人間は配慮ができる。配慮ができるからこそ、人間なのだ。
普段は他の動物たちよりも遥か上に自身らを位置づける人間が、食の好みを擁護するに当たっては、他の動物たちに目を向けて道徳的な発想や手本を求めるのは奇妙というよりない。無論、人間でない動物たちは別の行動を検討できず、食べるために殺すことの善意も道徳的に内省できない。
私たちは、考え、訴え、そして行動を起こすだけのゆとりがある。現在の日本は戦火の最中にあるわけでも、劣悪な支配的環境にあるわけでも、壊滅的な災害のもとにあるわけでもない。考え、行動する余地がある。ただ、今後日本に壊滅的な災害、つまり大地震が起きないなんて確信している人はまずいないだろう。人として考えられる余裕があるときに、せめて人として生まれてきた自分にできること、他者や多種への配慮を考えても良いのではないだろうか。
ちなみに、ほとんど肉を食べないと健康状態はどうなのかと聞かれることがある。私は健康診断でBMIの数値を除けばオールAである。もちろんAが一番良い評価だ。健診の数値が良くても病気になる人がいるだろうが、数値が良いことを避けて悪化したい人はかなりの少数派だろう。血圧が重症なほど高くなって歓喜する人は、少なくとも私は知らない。
ただそこでみなさん『新・動物の解放』をいますぐ読了してとは言い難い。本書はかなり読むには辛い箇所がいくつもある。動物実験、工場畜産などの話は正直読んでいて私も苦しかった。序論と、レシピ集、そして訳者解題からまずは読んでみるもの良いかもしれない。訳者である井上さはヴィーガンであり、多くの動物倫理の本を翻訳されている。私からするとかなり厳格なヴィーガンだと思う(詳しくは『現代思想2022、6号肉食主義を考える』をお読みいただきたい。井上さんは代替ミートである培養肉にも懐疑的だ)。にもかかわらず訳者解題では、遥かにシンガーよりはヴィーガンでない人への配慮が感じられる。また、無条件にシンガーを称賛するのではなく、かなりはっきりと彼の思想を否定している部分もある。
もし、私のこの駄文を読んで、いや私の駄文はさておき、『新・動物の解放』を読んで他者や多種への配慮について少し考えてみてみようかなと思ってくださった方。
私はそんな方を心から尊敬する。