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対岸の空海 第2回 摩耶山と女人守護
川瀬流水です。空海さんの聖地、高野山から、大阪湾をはさんだ対岸に、六甲山が位置しています。この山並みにも、空海さんの足跡が数多く残されています。
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前回は、再度山(ふたたびさん)を取り上げましたが、今回は、摩耶山(まやさん)について、みていきたいと思います。
摩耶山は、再度山と同じく市街地の近くに位置していますが、標高702メートルと再度山よりひとまわり高く、急傾斜でせり上がります。
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摩耶山は、祖先の霊(祖霊)が宿る聖なる山として、六甲山系の信仰の中心的な役割を果たしてきました。
忌明けに祖霊を山中に送り届ける「高山参り」(たかやま・まいり)の風習が長く残されていた、と言われています。
こうした信仰の上に立って、大阪湾を囲むエリアの修験道の拠点のひとつである「摩耶修験」が、誕生しています。
信仰の山である摩耶山には、かつての参詣客と同じく、徒歩で登りたかったのですが、先日の再度山登山で体力を消耗していたため、ケーブルカーとロープウェイを活用させていただきました。楽をして、すみません!
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市営地下鉄三宮駅前から、18系統の市バスに乗って20分くらいで摩耶ケーブル駅に着きます。ケーブルカーは、毎時20分間隔で運行しており、5分で終点の虹の駅に着きます。(片道)大人450円、小人230円
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虹の駅で下車し、駅の大阪側のデッキに立つと、眼下の森のなかに「旧摩耶観光ホテル」(廃墟)の屋上を見ることができます。
ケーブルカーの運航は、1925(大正14)年、当時の摩耶鋼索鉄道によってスタートしましたが、この建物は、その5年後に同社によって建てられました。その後、紆余曲折をへて、1990年代に廃墟となりました。
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廃墟になってもなお、往時の優美さを偲ばせる佇まいは、国の登録有形文化財になっており、しばしば映画・ドラマのロケ地として使われるようです。施設内の立入は、禁止されています。
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虹の駅からは、ロープウェイに乗らず、左手に進んで上野道を上ります。階段が続く道を10分ほど進むと「摩耶花壇跡」に出ます。
ケーブルカーが開通した1年後、摩耶鋼索鉄道の関連会社によって建てられた洋館で、ケーブルカーとタイアップした宿泊施設として利用されました。
1960年頃に廃業・解体され、跡地にバンガローと茶店が建てられましたが、これもやがて廃業となり、忘れ去られていきました。
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2017(平成29)年、有志の皆さんによって再生の会が結成され、国立公園(特別保護地区)内という制約のなかで、残されていた小屋の修復、体験キャンプの開催など、様々な取組みが行われています。
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摩耶山は、信仰の山であると同時に、近代的なミナト神戸の背後を飾る六甲の顔でもあります。激動の時代を見つめてきたその姿は、魅力に満ち溢れています。
再生の会の取組みは、懐かしい摩耶の再生にとどまらず、これからの新たな魅力を創造する力を持っているように思います。会の活動が実り多きものとなるよう、願っております。
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上野道から青谷道に入り、さらに北に20分ほど進むと「摩耶史跡公園」の入口に「仁王門」が見えてきます。
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今回の旅の目的地「摩耶山忉利天上寺(とうり・てんじょうじ)」は、長らく現在の史跡公園の地にありましたが、1976(昭和51)年1月30日未明、不慮の火災により、仁王門ほか一部の建物を除いて全焼しました。
そして、同寺創建の地とされる北方約1キロメートルの場所に、再建されました。
私は、天上寺が燃える様子を覚えています。1月の寒い夜中、六甲の中腹から赤い火柱が立ち上がるのを目にしたとき、その生々しさに思わず見入ってしまったことを思い出します。
あのような強い炎を、19年後の同じ1月の未明に発生した阪神淡路大震災で、再び目にすることになります。
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仁王門をくぐって、長い石段を上ると、公園の中心部分、かつて伽藍のあった広いスペースに出ます。
金堂をはじめ主な建物はその姿をとどめていませんが、木々の切れ間から神戸の街並みを望むことができます。
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史跡公園を抜けて、左に進み、巨木の間を縫うように続く道を20分ほど登り詰めると、摩耶山頂の巨岩が鎮座する空間に出ます。
このあたりは、人気の登山ルートが少し外れているため、私が訪れたときも、ひっそりと静まり返っていました。
木々に囲まれた薄暗い空間のなかで、巨岩を「磐座」(いわくら)として祀る古い信仰が息づいているのを感じました。
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山頂から、まやロープウェイ「星の駅」の展望スペース「掬星台」(きくせいだい)を経由して、北に下っていくと、10分くらいで天上寺の「西山門」に着きます。
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西山門から境内に入り、美しい庭園に囲まれた長い石段を上がると、今年のNHK大河ドラマで本郷奏多さんが演じている「花山(かざん)天皇」、戦国時代末期の「正親町(おうぎまち)天皇」、両天皇の勅願所の石碑がある処まで出ます。
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そして、これらの石碑を囲むように、お釈迦さまの入滅を見守ったとされる「沙羅」(さら)が植えられており、私が訪れたときも、新緑がそよ風に揺れていました。
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伽藍の集まるエリアに入ると、正面に「金堂」が見えます。ご本尊は「十一面観世音菩薩」(秘仏)です。幸いにも、先の火災で焼失を免れました。
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金堂の西隣に、小さな「カエル像」があります。ナデナデすると、家族に幸せがもたらされるという有難いカエルです。
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天上寺には、ご本尊が二体おられます。一体は「十一面観世音菩薩」(金堂)、そしてもう一体は「摩耶夫人」(まや・ぶにん)、金堂東隣の「摩耶夫人堂」におられます。
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天上寺は、646(大化2)年、インドの高僧「法道仙人」(ほうどう・せんにん)によって、開かれました。
ご本尊の十一面観世音菩薩は、お釈迦さまが生母摩耶夫人の恩に報いるため自ら作られ、法道仙人が我が国にもたらした、と伝えられる尊像です。
もう一体のご本尊、摩耶夫人は、後年、空海さんが入唐求法の際に請来され、十一面観世音菩薩が摩耶夫人と深い縁をもつことから、当寺に安置されることになったものです。
かくて、山の名を「仏母摩耶山」とし、寺号を、摩耶夫人の昇天された忉利天(とうりてん)の名を採って「忉利天上寺」とされました。
真言密教の聖地、高野山は、他の多くの霊山と同様、長らく女人禁制の地であり、これらが全廃されるのは1906(明治39)年になってからです。その間、女性の祈りを受け止めてくれていたのは「女人高野」と呼ばれるお寺でした。
奈良の「室生寺」(むろうじ)、空海さんの母「玉依御前」(たまより・ごぜん)にちなむ九度山の「慈尊院」(じそんいん)は有名ですが、天上寺もまた女人高野として知られています。
天上寺(摩耶夫人堂)は、摩耶夫人をご本尊とする我が国唯一のお寺です。摩耶夫人は、「女人守護」の誓いを立てたとされる女身仏ですが、とくに子授け・安産・子育ての守り仏として、信仰を集めてきました。
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しかしながら、 摩耶夫人の本誓(ほんぜい)は「女人の諸難をあまねく救済したい」という一点にあることから、子授け・安産・子育てにとどまらず、女性のあらゆる悩みや願いを受け止めてくれる「女人守護」なのではないか、と思っています。
今年は、NHK大河ドラマ『光る君へ』の紫式部、朝ドラ『虎に翼』の猪爪寅子(モデル:三淵嘉子)と、自らの力で新しい世界を切り開いていく女性の物語が脚光を浴びています。
世の中の女性が、どのような生き方を選択するにせよ、悩み立ち止まるとき、摩耶夫人は、それらを受け止め、前に踏み出す勇気を与えてくれる存在である、と確信しています。
摩耶夫人堂では、今年5月8日(水)に「仏母会・花会式」が行われましたが、5月15日(水)には「仏母忌・花供養」が行われます。
摩耶夫人堂の夫人像は、先の火災で焼失したため、新たに作り直されましたが、これとは別に、関西在住のインドの方々が夫人像の奉納を発願、資金を募るとともに、インド政府に働きかけて、インドの彫刻家の手による像の寄贈が実現しました。
火災から3年後、1979(昭和5)年に、西山門近くの場所に「天竺堂」(てんじくどう)が完成、寄贈された夫人像が安置されました。
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女神の国ともいわれるインドから送られた摩耶夫人像は、日印の絆とともに、女人守護への世界共通の願いを感じさせてくれるものでした。
天上寺を出て、まやロープウェイ「星の駅」に戻り、今回の旅の終わりに、駅舎内のレストラン「カフェ702」で、遅めの昼食をとりました。
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10種類のスパイスとココナッツミルクで、じっくり煮込んだ一番人気の「チキンカレー」を、いただきました。
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ロープウェイに乗って「虹の駅」まで行き、ケーブルカーに乗り換えて帰宅の途に着きました。ロープウェイは、毎時20分間隔で運行しており、5分で虹の駅に着きます。(片道)大人450円、小人230円
今回は摩耶山を取り上げました。中腹にある旧摩耶観光ホテル・摩耶花壇跡は、ともに廃墟ながら、どこか女性的な妖艶さを感じさせてくれるものでした。そして、天上寺には、女人守護の誓いを立てた摩耶夫人が、優しく衆生を見つめておられました。
空海さんゆかりの、険しくも優しいこの山は、魅力に満ち溢れていました。