マルジナリア書店さんの「じゅうに読む会」に参加しました!
アンダー29.5人文書大賞が盛況のまま終わりましたが、この賞を主宰した分倍河原駅前にあるマルジナリア書店(byよはく舎)さんが開催した読書会に参加しました!
課題本は多和田葉子『犬婿入り』。僕は以前にこの作品で書評を書いているのですが、それをもとにしたものの僕の話はとりとめもなく長くなってしまいそうなので、発言内容を下記にまとめました。基本は以前に書いた書評に沿った内容になっていますが、話すことを前提にしているためこちらの方が少しわかりやすくなっているかもしれません。読書会で僕の話に興味をもっていただいた方、読書会に参加はできなかったけれど様子が気になるという方、よければこの記事の本編をお読みください。
本編
フロイトの『ユーモア』
いきなり話しがそれますが、精神分析や無意識を開拓したことで有名なフロイトに『ユーモア』という論文があります。このなかで、月曜日に絞首台に引かれていく罪人が、「ふん、今週も幸先がいいぞ」と言ったという話が紹介されるのですが、フロイトによれば、この罪人はこの科白を言うことによって、自分が置かれている現実から逃れており、悲壮な現実とは別の現実をつくり出しているのだそうです。つまり、ユーモアを口にすることでもうすぐ死刑になるという現実を、別の角度から眺め、死が迫っているという悲壮な感情を浄化することができるということです。フロイトによればこのようなユーモアは、心理的アクセントを自我から引き上げ、それを超自我の方に移転する力があるそうです。大人から見た子供の悩みがそうであるように、自我の怯えや悩みは超自我にとって取るに足らないような小さなものに映ります。そもそも超自我とは、自我の両親への同一化によって形成されたものであり、自我にとっては強大な力を持った親として君臨します。この超自我は、自己の形成過程で独自の位置を占め、破壊的で残忍で口やかましい、内的な法として働くようになるそうです。しかし、自分の立ち位置を自我から超自我の方に移すという方法——これがユーモアなのですが——この態度によって、自我にあった視点を超自我の方に移動させることで、子供の目からではなく、怯えた子供を見る大人の目から現実に対峙することが可能になるのです。死刑囚でなくても人はいずれ死を迎えるわけですが、フロイトのいうユーモアによって、現実を別の角度から眺めることができたとき、私たちはいずれ死に至るという人間であることの運命を、威厳を持って乗り越えていくことができるのです。
このようなユーモアの方法は、精神分析に限らずとも可能なのではないか、というのが今回の僕の話の趣旨になります。ユーモアの例の一つとして多和田葉子の『犬婿入り』を読んでみたいのです。
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