テクノロジーと人間

指導教官でもある、おがっちが取り上げていたテーマに、

自称愛弟子の僕なりの考えをリプってみます。


まだまだ、テクノロジーの進歩は加速し続けると思っています。スマホ、タブレットなどICT機器も、やがてはあれだけ(一瞬)隆盛したMDのようにディスコン化されるかもしれない。

あるいは、テレビやPCのように、形態は少しずつ変えつつも安定感をもって、進化を続けるかもしれない。

それを牽引するのも、GoogleやMicrosoft、もちろんAppleかもしれないし、さらに今は生まれてもいないメーカーかもしれない。 なーんにも分かんない。

一つ分かっているのは、「今のまま、は、そう長く続かないだろう」ということ。


そして、曲がりなりにもテクノロジーについて考えていくと、どこまでいっても、結局扱うのは人間だよな、というところに落ち着きます。

さらに言えば、テクノロジーは人間の能力を拡大するものです。
本質的、というとやや凡庸かな、「その人自身に備わっているエネルギー」も、そのまま拡大されると思っています。

人は歴史から学べますから、今から四半世紀ほど前、管理職が新人平社員にパソコンを習う、といった風刺表現がそこらじゅうで見受けられたのを思い出してみましょう。「どうせ使うのゲームだけ」と揶揄された頃です。


親戚のおじさんが、白髪頭をかきむしりながら、一回り以上年下の叔母、どころか、小学生の僕たちにまで聞いてきた姿が思い出されます。

それまで、経験や地道に積み重ねた業績、そして人徳をもって、管理職をしていた人と、残念ながらそうではなく今よりもうんと年功序列の流れで管理職をしていた人と。

おそらく双方おられたことでしょう。

後者であっても、PCの導入がたまたま得意な分野で「ボーナスステージ」的に自身の職場の地位を向上させた人もおられるでしょうが、

自然な流れで考えると、やはり前者の方が割合で言えば圧倒的に多く、それを使いこなした、あるいは、自分ではなくとも部下や同僚との仕事の中に取り入れていったのではないでしょうか。

 

おがっちが述べておられる通り、教育に携わっていると、

「ま、今はこんな方法だけど、ね。君たちが大人になる頃には、わかんないよね。」

と実際子供達に話すことも多々ありますし、

例え今提示している手段・方法が過去のもの、つまり、ディスコン化されたとしても、なお、何かの足しになるものをもっと伝えられないか、普遍性のあるものを伝えられているのだろうか、という感覚は、年々増していきます。

 

縁あって、高校の先輩とお話しする機会がありました。

僕たちの卒業した高校は、いわゆる地域の進学校でした。

その当時はそれなりに誇らしげなもんでしたが、それはたまたま、その時代の多数派の方法で、たまたま僕たちがうまくいった、だけであって、今の時代、さらに先の時代、だったら僕たちはまったく、合わなかったかもしれない。

まさに、「ボーナスステージ」的に偏差値をかせぐことが出来ただけかもしれません。

「普遍性の高い」「その人の潜在能力」を数値化したら、時代時代の学力偏差値がそれをそのまま反映しているとは思えない。

そんな話を先輩としていて、さらにこのおがっちのブログを読んでいて、僕にそれらテクノロジーの可能性を象徴付けたのが、僕が先日たまたま街で見受けた

「電話で会話する聴覚障害者」

だったのだと気づきます。なにかが頭の中で繋がっていく感じ。


 

聴覚支援学校がある地域なので、以前からそこの生徒さんがケータイの画面をみせたり、メールをしたりしながら聴覚障害のある方がケータイ「電話」を活用されているのは知っていましたが、

先日見受けた方は、スマホのビデオ通話で、手話で会話をされていました。衝撃でした。衝撃を受けたということは、つまり、

それまで僕は無意識でありながら、「聴覚障害者は歩きながら電話しない」と、思いこんでいたということ。

 

電話やスマホをそれらの「現存する機能」のみで扱っていればなかなか気づきませんが、

「コミニュケーションツールである」

と捉えていれば、ビデオ通話で手話を、という流れはごく自然です。僕はこんだけ一日中スマホを傍らに暮らしていながら、なお、そこに気づけていなかった訳ですね。

 

どんどん冗長的で散漫な文になりますが、書きながら思い出したこと。

祖母は農家なのですが、今や農家の必需品といえる軽トラックなどがまだ普及する直前の農家にとって、それに代わるものは「耕運機」だったと言います。

耕運機といっても、座席のあるいわゆる「トラクター型」ではなく「手押し車型」のもの。手押し車型の耕運機に、トレーラーのような取り外し式のけん引できる荷台をつけて、三輪車のようにする事で多くの荷物を積んで、さらに自分もそれに乗って、畑を行き来していた、という話をしていました。

そしてもちろん、必要な時はその荷台を取り外して、耕うんに使用していた、とのこと。

なので未だに畑を耕すことを「耕耘(こううん)」と書くのに対し、その機械のことは「耕耘機」よりも「耕運機」と書くことの方が一般的なのも面白い。(これは誤字が普及したものでしょう。)

さらに耕うんのみならず、今度はエンジン部分をポンプにつないで散水や農薬の散布にも使う、など、実に多様な使い方をされていたそうです。

農家にとって、耕運機は「耕うん」のためだけではなく、「動力」として重宝されていた。そしてメーカーもそのニーズに応える形で派生ツールを展開して行く。


これらの例からも、そこに「ニーズ」があれば、「ツール」さらには、「テクノロジー」はいかようにも派生して進化していくし、使い方も多様化する。

 電話にしても、耕運機にしても、最初からそんな多様な使い方を目指して進化してきたものではないでしょう。

目の前の「ニーズ」を、「テクノロジー」が叶えるという構図があってはじめて、「ツール」という形でそれらは多様化し、進化していく。どれか1つだけが先行する、というのは、あり得ないんですね。

 

その過程で「人力から動力に」や、あるいは「据え置き型から持ち運び可能に」「電話にカメラを搭載する」などといった、テクノロジー側の飛躍があった時、いわば「パラダイムシフト」が起こり、それまでの常識が覆る。

今まで誰も疑わなかった常識が崩れることで、それまでの「ニーズ」のみならず、気づきもされなかった潜在的な「ニーズ」もどんどん発掘されるようになった。

 そして今はその「パラダイムシフト」がものすごいペースで起こり続けている時代なのだと感じます。おそらく人類史上、産業革命期にも匹敵するかそれ以上の時代ではないでしょうか。

管理職がPCを新人平社員から教わっていた例の「前者」と「後者」のその後の明暗を分けたのは、そこに明確な「ニーズ」を把握していたかどうか、に他ならないと思います。

そしてさらに面白くさせるのは、逆に「ニーズ」に合ってさえいれば、いくらそれが最新だろうと革命的だろうと、旧来の方法が勝ることだっていくらでもあるということです。

紙とペン、印刷というのもその典型例でしょう。

「これからは紙に印刷される媒体はどんどんなくなる」

と言われ続けていますが、果たして。この先はもちろんわかりませんが、現段階では、多くの人にとって紙媒体の方が勝る場面がまだまだ多い。そしてさらに、「旧来の方法」と思っている紙とペンもなお、進化・深化を続けている。

けれど、紙媒体の利用に困難さがある人にとっては、ICT機器というのは強力なサポートツールとなる。

そこに優劣はないんですね。だってそれぞれのニーズが異なっているわけですから。適材適所、とはよく言ったもの。「情報を残す」「情報を伝える」という目的を達成するための「ツール」だからこそです。

「ニーズ」を見出して始めて、「テクノロジー」は強力な「ツール」となる。


「こうだったらいいのにな」に気づく能力。

 

「何に困っているのか」「何が困らせているのか」「それを解決するとどのように展開するのか」そして何より、「何がしたいのか」

そこを見失わないこと⇒きっと20年後も50年後も、我々に求められる能力の1つのような気がします。

冒頭で述べた「その人自身に備わっているエネルギー」のひとつだと思います。

 教育の場で、あるいは子供達の暮らしの中にそういったものに触れる、身につける場面を提供していけるといいですね。



って、それさえも分からないけれどね。

分からないから、面白い。

血湧き肉躍る気持ちです。


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