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「自分らしさ」を見つけたいと思った話#003

文章を書く上での「自分らしさ」について、また、そもそもの「書くこと」について、最近ちょっと考えていました。「書くこと」を仕事にしたい、と思ってからの葛藤のようなものを、今回文章にしてまとめてみました。
少し長くなったので、何回かに分けて投稿しています。

▽001、002はコチラ


「書くこと」を仕事にしたい、とライター講座を受講し始めたのはいいが、「書く」ベクトルの違いを感じて急にしんどくなってしまった。

そんなときに心に響いてきた言葉があった。

"自分が消えるまで、基礎を習得し、それでも消せないものが自分の個性なのだと思う。“

本にあった文章で、私はそれを書評で読んだ。

言葉を削って、研ぎ澄まして、自分が消えるまで書く。そこまで書いても消せない、消えないものが「自分らしさ」。そのことが、ストンと腑に落ちる文章だった。

そして、表現する方法全てにおいて、「自分らしさ」とはそういうものなのかもしれない、とも思った。

そもそも「自分らしさ」「個性」「自分の文章」なんて、そんなことを言える程に、まだ自分は書いてもいなかった。「今までの自分への否定」どころか、それ以前の問題だった。

今の自分は、言葉を覚えたての子どもが「見て!見て!これ見て!」と自己主張してるくらいのもんで、何と無邪気なことだろうか。
そう思って昔の自分の文章を読んでみたら、めっちゃ恥ずかしかった
(この文章も時間が経って読んだら恥ずかしいと思う)。

それから、改めて思った。それでも自分は「書きたい」と思っているんだと。過去の、現在の、恥ずかしさを盛大にまき散らかしてでも、書いていきたいと思っているんだと。そうして、自分を消していった先にある「自分らしさ」を見てみたい、と思ってしまったんだと。

その気持ちがわかったことで、ようやく「書くことに」対して、きちんと向き合う準備ができたような気がした。

感じていたしんどさは、すっかり身をひそめてしまった。なんにせよ書くしかないんだ、という事実を突きつけられてしまったから。ただひたすらに書くことでしか、得るものができないことを望んでしまったから。

それは他人のためでなく、自分のためなのだけれど。
文章を書く「ベクトル」は他人を向いていても、書くという「行為」は自分をも向いているということなんだろう。書き続けていれば、もしかしたらその行為は他人のためにもなるのかもしれない。

そう思ったら、もう一生「書くこと」と向き合っていくしかないんだな、と諦めがついた。見たいものしか見たくなくて、自分の主観でしか今までは書いてこなかった。だけど、見たくないものもようやく見る決意をしたんだと、それくらいに「書く」ことを望んでるんだと納得できたから。

苦しいけれど、愉しい。そんな風に思ってしまう私は、まあまあ変態なのだと思う。だってそれでこそ、人生やりがいありません?




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