「地獄変」芥川龍之介著(新潮文庫『地獄変・偸盗』所収):図書館司書の短編小説紹介
地獄とはさもこのようであろうかと、そこに堕とされた罪人たちの責め苦と彼らを苛む奈落の獄卒たちの残忍さ、そして何よりも牛車ごと紅蓮の業火に包まれる女房の悶え苦しみを写し取った一隻の屏風。
本作は、絵師良秀がその屏風「地獄変」を完成させるまでの経緯を描いている。
見せ場は、良秀が屏風のあらましは出来上がったものの、「唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする」と、絵の注文者である大殿に上申したために起こる、この世における地獄の再現場面だろう。
大殿は、「見たものでなければ描けませぬ」と言う良秀に、彼が望んだ「檳榔毛《びろうげ》の車」の中で「あでやかな上臈《じょうろう》(=身分の高い女官)が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦し」む様を見せるため、洛外の山荘で実際に一人の女房が乗った牛車を焼いて見せたのだ。
その女房というのが、実は良秀が可愛がっていた彼の一人娘だった。
大殿の、「火をかけい」との号令により火に包まれる牛車。そちらへ駆け寄ろうとした良秀だったが、「火が燃え上ると同時に、足を止めて」、「食い入るばかりの眼つきをして、車をつつむ焔煙を吸いつけられたように眺めて」いたという。
もちろんのこと、良秀の娘はこれによって死ぬ。
そして、良秀自身も地獄変屏風を描き上げた後、娘がはかなくなったというのに「安閑として生きながらえるのに堪えなかった」ためか、「自分の部屋の梁へ縄をかけて、縊《くび》れ死んだ」。
一読して、芸術のために娘を犠牲にし、自らの命をも捨てた絵師の、凄まじい執念を描いた小説のように思われた。
けれど改めて読み返してみると、不可解に感じる点がいくつか出て来る。
まず、良秀の娘を焼き殺すように命じた大殿の罪についてだ。
彼は、「大腹中の御器量(=大きな度量)」が備わっており、その威光は権者の再来、つまり神仏の化身のようであったとされている。
その大殿が、良秀の娘を牛車の中で鎖にかけ焼き殺した。
それは、「全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描こうとする絵師根性の曲《よこしま》なのを懲らす御心算」だったと物語の語り手は言うが、果たして本当にそうだったのか。
確かに理由の大半はそうかもしれない。
だが語り手は、世上の噂の第一として、大殿の「かなわぬ恋の恨みからなすった」ことを挙げている。
そして当の語り手は、大殿と思われる人物が良秀の娘にちょっかいを出そうとし、逃げられた現場に偶然居合わせていた。
だから、娘を火にかけた理由が「かなわぬ恋の恨み」のためである可能性もあり得ると知っているはずなのだ。
それなのに語り手は、「頬も赤く燃え」、「しどけなく乱れた袴や袿が、何時もの幼さと打って変った艶《なまめか》しささえ添えて」いる娘を前にして、「性得愚な私には、分りすぎている程分っている事の外は、生憎何一つ呑みこめません」と、わざわざ言わずもがなのことを述べ、素知らぬ振りをする。
だがその事件の直前に、良秀の娘が「気鬱になって、私どもにさえ涙を堪えている容子が、眼に立って」きており、「あれは大殿様が御意に従わせようとしていらっしゃるのだと云う評判が立ち始めて」いたと、自ら語っているのである。
それゆえに、「生憎何一つ呑みこめません」と、全く予想外だったと述べるのは、理屈に合わない。
ここに、語り手の悪意のようなものが漏れ見えてはいないだろうか。悪意という語が強いのであれば、作為のようなものと言うべきか。
語り手は、大殿や良秀、良秀の娘について、自身の知り得ることをできるだけ明らかにしているように見せかけて、実は都合のいいところばかりを読み手にお披露目しているに過ぎない。
その意図はどこにあるのか。
彼は、良秀が地獄変を描くために、弟子たちを鎖で縛ったり、凶暴な耳木兎《みみずく》に襲わせたりし、それを絵の素材として写し取っているのを知っていた。
また竜蓋寺の五趣生死の図を描く時に、往来に捨て置かれている死骸の前へ腰を下ろし、「半ば腐れかかった顔や手足を、髪の毛一すじも違えずに写し」たとも述べている。
そういった例が数多あるため、良秀が大殿に申し出たように、「見たものでなければ描け」ないならば、地獄をこの世において現出させたいと望むようになるのは、語り手にもある程度予知できていたと思われる。
いや、むしろ彼がそこへと導いたのでは、と考えられはしないか。
何もかも、地獄変の屏風を完成させるために。
語り手は、大殿が良秀の娘を手に掛けようとして未遂に終わったのを知っていた。
だが、そのことを彼は大殿にはもちろんのこと、同僚や当の良秀にも告げなかった。
「あの娘へ悪く云い寄るものでもございましたら、反って辻冠者ばらでも駆り集めて、暗打《やみうち》位は喰わせ兼ねない量見」を持つほどの子煩悩である良秀なので、大殿の所業を知ったならば何を仕出かすかわかったものではないとの理由もあったろう。
けれど、語り手が口をつぐんだ主な目的は、そのためではない。
彼は、娘が火にかけられたのは、彼女が大殿になびかなかったことにも起因していることを、良秀に伏せておきたかったのだ。
あくまでも大殿は、地獄変の完成のためだけに良秀の娘を焼き殺し、その芸術への混じりけのない意に応えて、良秀をも一途に絵に邁進させる。
それが語り手の構想だったのだろう。
だが、火をかけるよう命じた大殿は、最初こそ「緊く脣を御噛みになりながら、時々気味悪く御笑いにな」りながら、燃える牛車を見ていたけれど、空一面に炎が渡るようになると、「御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら」、「喉の渇いた獣のように喘ぎつづけ」るようになった。
それは、語り手を含む家臣たちが「身の内も震えるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて」、良秀を見つめていたのと対照的な態度だ。
ここで、大殿の苦悩が浮かび上がって来る。世間で噂されたように、良秀の歪んだ絵師根性をただすため、あるいは地獄絵の完成度を極めるためであったならば、「大腹中の器量が」ある大殿が、ここまで苦悶するとは考えられない。
彼を苦しめたのは、自らになびかなかった娘を私怨から殺してしまったとの自責の念ではなかったか。
良秀の地獄変屏風を完成させるのにかこつけて、自らの遺恨を晴らそうとしたが、最終的には罪悪感に打ちのめされてしまったのだ。
ではこの時、語り手はどういった感情を抱いていたか。
──何と云う荘厳、何と云う歓喜でございましょうか。
そう述べている。
良秀は、地獄変という芸術を完成させるために、それこそあらゆる行動をし、最愛の娘を、また自らをも犠牲にして滅びていった。
一方で語り手は、地獄変完成までの経緯をつぶさに見据えながらも、その障害になるだろうことには沈黙し、行動は最低限にとどめた。
はじめに述べたように、一読した時は、良秀の芸術家としての、それこそ業火のような執念に圧倒されるばかりだった。
だが、実は語り手こそがこの物語で一番の芸術至上主義者だったのではなかろうか。
曲解とも映るかもしれない。けれど、良秀の娘が大殿と思われる人物に襲われ、危うく難を逃れた時に居合わせた語り手を、「何か恐ろしいものでも見るように、戦き戦き見上げてい」た姿が、どうしても脳裏にちらついてしまうのだ。
窮地を脱し、助けてくれたともいえる語り手に、娘はどうしてそのような視線を投げ掛けたのか。
彼女は、相手の冷徹な心根を一瞬で見通してしまったのではないか。
いずれにしろ、叙述に疑義が散見される語り手を、手放しに信用することはできない。
そのことを心に留めた上で読み直してみると、真に悪意を持つ者の姿が浮かび上がってくるように思われる。