「名人伝」(新潮文庫『李陵・山月記』)中島敦著 :図書館司書の短編小説紹介
天下第一の弓の名人を志した紀昌。
彼は、当時の弓の名手・飛衛に弟子入りし、まず瞬きしないよう、目を鍛えることを命じられる。
一瞬かつ絶好の瞬間を見逃さないためかと思われるが、紀昌が選んだ修行場所というのは、妻の機織台の下。
そこに潜り込み、機織りの用具が激しく上下に往き来する所を至近距離で見つめ続け、それに怯まずにいられるようにしようと考えたのだ。
目を下ろすと、機織りの糸の下に瞬きのない夫の顔。
妻にとっては、かなりの恐怖だったに違いない。
けれど、嫌がると紀昌が怒るので仕方ない。彼女は、二年後に機織りの用具が夫の睫毛を掠めても、彼が瞬きをしなくなるまで付き合った。
そのような、常人から見れば常軌を逸したかに見える修行がなお数年続き、紀昌の弓矢の腕はずば抜けたものになっていた。
ある時、彼は百本の矢の速射を試みる。一本目の弓を的に当てた後、二本目の弓は、その一本目の弓の「括」と呼ばれる後尾部、つまり矢を射る時に弓の弦が当たる所に突き刺さったという。
次の一射も、また二本目の「括」に食い込む。
そして次も、と続いて行き、最後を射た時には、百本の矢が一本の如くに繋がっていたという。
ここまで極めると、次に紀昌が思うのは、天下第一の名人は一人で十分。だから、師である飛衛は邪魔だということ。
自分こそが名人の中の名人だと考えていた彼は、外出した先で飛衛を見掛けた途端、弓矢を射た。
けれど、そこは師も流石で、同じ軌道に弓矢を走らせ、二人の矢は空中で相打ちとなって地面に落ちたのだった。
ここら辺はもう、少年漫画の王道のような展開で、きっと中学生男子の大好物の読み物だと思う。
中島敦というと、とある官吏が山野において虎になってしまい、かつての友人がやって来た時に、自身がそのように変化してしまった来歴を語る「山月記」が有名だと思う。
でも、この「名人伝」の出来過ぎたお話も、少年の心にはよく響くと思う。教科書に載せてもいいくらいに。
ただ面白いだけでなく、この先がなかなか考えさせられる展開でもあった。
師を打ち倒せなかったこと、弟子に勝ちを譲らなかったことで、両者の心に師弟愛が蘇り、二人は野原の真中で抱き合った。
そして飛衛は、自分たちの弓矢の技など子供のお遊びと同類だと見えてしまうような、この道を極みに極めた名人の存在を紀昌に伝える。
甘蠅師という、齢百歳を超えたような老人は、なんと弓を射ることなく空を渡る鳶を撃ち落とすのだ。
これを、不射之射という。
弓を射ることなしに、対象を射落とす。
その先に、更なる深奥があると、誰が想像しようか。だが、あった。
九年の間、甘蠅師の下で修業した紀昌は、不射之射の奥義も極めた後に、自分の家へ帰って来た。
人は、彼の妙技を見ようと集まるが、紀昌はそれを見せようとしない。
それどころか、弓矢を持つことも絶えてなくなってしまった。
そして結ばれる物語なのだけれど、何かの道を果てまで極めるとこうなるのかという、不思議な感動が身を包んだ。
少年漫画的な面白さを越えた先に、哲学の問題を突きつけられているようで、どうして紀昌がそうなったのかを考えずにはいられない。
道を極めることの困難さと共に、道を極めるというのはどういうことか、それ自体をも考え込まされる。
間違いなくあるのは、道を極めた人への敬意。それがあまりに大きいと、人は噂などでも軽々と口に出せないようになるのかもしれない。