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あおり運転が本当に煽ったもの_DQNと臆病と…
ここ10年で人々の行儀が良くなった。
チンピラがすっかり表舞台から姿を消した。
この原動力となったのが「煽り運転報道」だ。
デジタル記録が裁判の証拠資料になる。
このことが「末端」にまで知れ渡り人々がすっかり大人しくなった。
あおり運転が具体的に煽ったものは、
チンピラたちの心の中にあった臆病さだ。
知らぬがDQN
デジタル記録が裁判の証拠資料になる。
これは最近始まったことではない。
決定的な証拠とまではいえないが、それに類するものとしてデジタル記録は用いられてきた。
だが、それを知らない人々がいた。
いわゆるDQN層。
無知であり無学であり何よりも無倫理な人々を指すネットスラングだ。
彼ら彼女らは「自分が良ければそれでいい」という行動原理を持つことで知られている。
したがって、高速道路でも前の車を執拗に挑発したり恫喝したりした。
昭和においては、名神高速の右車線をずっとクラクション鳴らして「走破」する強者もいた。
あれは怖かった。
本当に怖かった。
170キロぐらいで駆けるヘンテコな車からヘンテコクラクションの爆音が追いかけてくる。
吉本新喜劇より遥かにコミカルでありながら最恐のホラーだった。
自分が良ければそれでいい。
なにびとたりともオレの前は走らせない。
現代DQNのベースとなった先達たちだ。
DQNはなぜ煽ったのか?
DQNはなぜ前の車を煽ったのだろうか?
煽ると相手の運転が乱れて余計に時間のロスが生まれる。
結果として自分も到着が遅れてしまう。
この論理がわからないからだ。
自分だけが得をしようとした結果、自分も相手も得をしない。
彼ら彼女らはそうなっていることに気づけない。
DQNはなぜ前の車を煽ったのだろうか?
自分が偉いと思っていたからだ。
自分は治外法権だと思っていたからだ。
不可侵領域の男だと勘違いしていたからだ。
ただ単に、皆が「むっちゃめんどくさそう」と思って近づいてこないだけなのに、「皆がオレ様を畏怖している」と勘違いしてしまっていたからだ。
なぜDQN運転は滅亡したのか?
発明 可視化対象
文字 思考
数字 価値
IT 倫理
人類の歴史とは「可視化」の歴史だ。
古代、
文字の普及によって思考が可視化された。
中世、、
数字の普及によって価値が可視化された。
そして近現代、、、
デジタル技術の普及によって倫理が可視化されつつある。
今や、主要道路には隅々まで監視カメラが設置され、運転状況が鮮明に録画され可視化されている、
DQN運転手の歪んだ表情まで解像度高く記録されている、、
車を運転するものの倫理が可視化されたのだ、、、
という神話が誕生した。
5年前に熾烈を極めた煽り運転報道は、
DQN運転手の歪んだ顔を可視化させ、DQN運転手のガマガエルのような醜い声も可聴化させた。
だが、原則としてあんなものが外部に出てくることはない。
あれは一罰百戒のアドバルーンだ。
統治機構とメディアが一枚岩となった宣伝広告だ。
メディアリテラシーのある人々ならば、あんなものには引っかからない。
だがしかし、DQN層に恐怖を植え付けるには十分だった。
無知蒙昧なDQNの「臆病」を煽るには、あれくらいの茶番劇で十分だったのだ。
倫理観の可視化_DQNの献身
だがしかし、倫理観の可視化現象は確実に進行している。
情報デジタル化によって、人間の様々な情報がオンラインを経由してクラウドに収集されている。
DQN運転手の運転動画自体は長らくは残らない。
だが、その人物が非倫理であり社会的非合理であるという情報は永遠に記録される。
どんな顔で、どんな声紋で、どんな売買をして・・・、SNSでどんな書き込みをする人物がおあり運転をする傾向が強いのか。
それがビッグデータ分析により次々と把握されてきた。
こうした流れより、倫理観はクラウドでしっかりと把握されている。
特に4Gから5Gに規格が刷新され、
超ビッグデータ分析が可能となり、人間のパターンは細部に至るまで峻別されている。
DQNが底辺倫理を最後の最後まで見せつけてくれたおかげで、AIは「底辺の倫理観」を定義できたのだ。
目下世界では、
彼ら彼女らの屍に上乗せする形で、人間倫理の可視化が現在進行形にて進んでいる。
「愚者の自画像」_本当に可視化されたもの
煽り運転をするのはお互いのためによくない。
これは理屈で思考すればわかることだ。
だが、愚者はそこに思い至ることが出来なかった。
だから、「煽り運転報道」によって「愚者」が可視化されてはじめて「ヤバい」と気づいた。
「可視化」は愚者すらも覚醒させることができるのだ。
文字然り、数字然り、
そしてITデジタル化然り、
何かしらの「可視化」によって末端の人々までも変えることが出来る。
「見える」ということは、考えさせる手間を省いて怯えさせることが可能だからだ。
煽り運転報道は、
愚者の自画像を可視化することで愚者を駆逐した。
ITデジタル化は、
デジタル動画として愚者の自画像を「見える化」させ、愚者の臆病を煽り、愚者本体は世の中から「見えない化」させた。
デジタル化によって本当に可視化されたものは「愚者の自画像」であり、
デジタル化によって本当に不可視化されたものは「愚者そのもの」である。
このように、
「可視化」には世の中を変えるとても強い力があるのだ。