感じるままに本を読む
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
先日、他の読書会に参加した際に、やたらと感動した点について言語化を求められた。
何が良かったの?
どこが良かったの?
どうして良かったの?
(口調は柔らかですが)
読書感想文は言語化の訓練であり、自分がその本を読んでどう感じたのか、原稿用紙に文字起こししなければならない。
私は昔から読書感想文が苦手である。今ではこんなにも読書記録を書いているにも関わらず、その感想が心の底から涌き出たものなのか、余計なことを考えてしまう。
以前他の記事でも書いたが、私は本を読むとすぐ感情が動く。面白いシーンで笑うし、感動する場面では泣く。電車の中でも。
それを文字に起こそうとすると、感じていることと、書いていることで、どこか乖離が生じてしまう。考えすぎかもしれないが。
何で感動したの?とか、どこが良かったの?とか具体性を求められると、いや何でと言われましてもそう感じたので、としか答えられない。その件は一旦持ち帰らせて下さいと言いたくなる。
それに、今思った感想よりも、少し間を開けてから書く方が、思考が練られる気がする (私の読書記録も、読了後すぐに書くと大したことが書けず、ちょっと日にちを空けた方が、良い記事が書けると思い込んでいる)。
実家にあるドミニック・ローホー「『限りなく少なく』豊かに生きる」講談社 (2013)を再読したときに、こんなことが記されていた。
少し意味合いが異なるかもしれないが、自分が感じたものを言語化できなくても、感動したことには代わり無い。
例え自分が思ったことを、自分自身が理解できなくとも、そんな自分を受け入れることが大切なのだと思う。
むしろ、本を読んで感動できることは、とても凄いことだと自分でも思う。
プロの読書家を目指すのならば、著者の言いたいことを読み取るのが大切だろう。
だが、著者の言葉に、例えそれが表面的な言葉であっても、心奮わせることは、読書が好きな人ならば誰にとっても大事なことではなかろうか。
例え著者の真意が読み取れなかったとしても、まともな感想を言えなかったとしても、一冊でも多くの本から感動できる人でありたい。そんな知的な「謙遜」をしたい。
結局私は、プロの読書家になりたいのか、自称読書家で良いのか。軸がぶれぶれである。それではまた次回!
この記事が参加している募集
今日もお読みいただきありがとうございました。いただいたサポートは、東京読書倶楽部の運営費に使わせていただきます。