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感じるままに本を読む

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

先日、他の読書会に参加した際に、やたらと感動した点について言語化を求められた。

何が良かったの?
どこが良かったの?
どうして良かったの?
(口調は柔らかですが)

読書感想文は言語化の訓練であり、自分がその本を読んでどう感じたのか、原稿用紙に文字起こししなければならない。

私は昔から読書感想文が苦手である。今ではこんなにも読書記録を書いているにも関わらず、その感想が心の底から涌き出たものなのか、余計なことを考えてしまう。

以前他の記事でも書いたが、私は本を読むとすぐ感情が動く。面白いシーンで笑うし、感動する場面では泣く。電車の中でも。

それを文字に起こそうとすると、感じていることと、書いていることで、どこか乖離が生じてしまう。考えすぎかもしれないが。

何で感動したの?とか、どこが良かったの?とか具体性を求められると、いや何でと言われましてもそう感じたので、としか答えられない。その件は一旦持ち帰らせて下さいと言いたくなる。

それに、今思った感想よりも、少し間を開けてから書く方が、思考が練られる気がする (私の読書記録も、読了後すぐに書くと大したことが書けず、ちょっと日にちを空けた方が、良い記事が書けると思い込んでいる)。

実家にあるドミニック・ローホー「『限りなく少なく』豊かに生きる」講談社 (2013)を再読したときに、こんなことが記されていた。

何ごとも、自分の理解がおよぶ範囲内でとりあえず満足してみる。…どうしても理解できないことがあるということを受け入れることも、知的な「謙遜」なのです。

同著 146-147頁より抜粋

少し意味合いが異なるかもしれないが、自分が感じたものを言語化できなくても、感動したことには代わり無い。

例え自分が思ったことを、自分自身が理解できなくとも、そんな自分を受け入れることが大切なのだと思う。

むしろ、本を読んで感動できることは、とても凄いことだと自分でも思う。

プロの読書家を目指すのならば、著者の言いたいことを読み取るのが大切だろう。

だが、著者の言葉に、例えそれが表面的な言葉であっても、心奮わせることは、読書が好きな人ならば誰にとっても大事なことではなかろうか。

例え著者の真意が読み取れなかったとしても、まともな感想を言えなかったとしても、一冊でも多くの本から感動できる人でありたい。そんな知的な「謙遜」をしたい。

結局私は、プロの読書家になりたいのか、自称読書家で良いのか。軸がぶれぶれである。それではまた次回!

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