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読書記録「魔性の子」

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回読んだのは、小野不由美さんの「魔性の子」新潮社 (1991) です!

小野不由美「魔性の子」新潮社

・あらすじ
雪が降っている日だった。祖母の躾けで中庭に締め出されてから、一時間は過ぎていた。

祖母は「洗面所の水滴を拭かなかった」と言って私を叱った。犯人は私ではないが、祖母から「嘘をつくな」とも言われているため、黙るしかなかった。

ふと顔を上げると、倉と土塀の狭い隙間から、白い二の腕のようなものが手招きしているのが見えた。

呼ばれるがままに足を踏み出すと、どこかここではない場所にたどり着いた。

そして気がつくと、祖母の葬式であった。

聞けば1年もの長い間、私は「神隠し」にあったのらしい。


広瀬は教育実習生として母校に戻ってきた。やんちゃしていた頃にお世話になった後藤先生のもとで、2週間の教育実習を行う。

出席を取ると、明らかに他の生徒とは違う雰囲気の生徒がいた。名を「高里」と言い、クラスからも孤立していた。

そんな高里に、広瀬はシンパシーを感じた。かつて死の淵を彷徨った広瀬にとって、故国を失ったかのような高里は、同胞のように思えたのだ。

と言っても、いじめがあったわけではない。ただ高里をいじめた者は、「祟り」によって不慮の事故を遂げるという噂から、クラスメイトからは恐れられていた。

実際、高里に「神隠し」や「祟り」を言及した生徒たちは、謎の事故に巻き込まれた。謎の白い手に、身体を掴まれたのだという。

事故が起こるたびに、高里の祟りだと恐れられ、糾弾した人々は謎の死を遂げる。それは高里の意思とは関係なしに、次から次へと被害は大きくなっていた。

一体、高里は何者なのか。またこの街に蔓延る白い手は何なのか。十二国記シリーズのプロローグとも言える作品。

先月 京都は下鴨納涼古本まつりにて見つけ、十二国記シリーズは「図南の翼」だけは読了済みだったことを思い出し、せっかくならと購入した次第。

探せばあるだろうけれども、山田章博さんのイラストが古いバージョンだったので、思わずね(逆に収集しにくくなるけれども)。

「図南の翼」では、十二国を舞台に齢12歳の珠晶が、自ら王にならんと蓬山を目指す物語であり、あくまでも「向こうの世界」の話であった。

しかし、「魔性の子」は太平洋に面した日本を舞台に、台風の目として事件を引き起こす高校生 高里と、彼を匿う教育実習生 広瀬の物語であり、「こちらの世界」の話である。

物語の要になるのが、二人の故国について。

高里は幼少期に「神隠し」にあった場所に帰りたいと願い、広瀬もかつて死の淵を彷徨った際に見た風景にすがって生きてきた。

なぜなら、人間が住む社会は、醜いエゴにまみれているからだ。

人が人を大切に思う情愛は貴いもののはずなのに、その裏側にはこれほど醜いエゴが存在する。人が人として生きていくことは、それ自体がこんなにも汚い。

同著 228頁より抜粋

それ故に、彼らにとって人間が住むこちらの世界には、自分の居場所がなくて当然のように思えた。馴染めなくて当たり前だと。

いずれ帰る場所があるのだから、この世界の人間を恨む理由がない。だからこそ、お互いに信頼しあい、そして周囲からの糾弾を他人事にできた。

しかし、それは表裏の考え方である。

帰りたい、ここは自分の世界じゃない。その思考はな、ひっくり返せば消えてしまえということだ。この世もこの世の人間も、全部消えてなくなれ。自分の夢でない世界は消えてしまえ。――そういうことじゃねぇのか。

同著 322頁より部分抜粋

次々と起こる事件が、高里のエゴ、人に対する恨みが「祟り」となって現れたとしても、何ら不思議なことではない。

人間として生まれた限り、自我を持たない人間はいない。誰だって自分が可愛いものであるし、他者と比べてしまう生き物である(それが良いか悪いかは置いておいて)。

つまり、エゴを持っているか否が、人間かそうでないかを分ける。

そして人間は、、、こちらの世界で生きねばならないのだ。

それは当たり前ではあるのだが、その事実は非常に悲しいことでもある。

捉えようによっては、自分は何者にも「選ばれなかった」のだから。


読書会で聞いた話ではあるが、当初「魔性の子」は読み切りのホラー作品として刊行されたのだが、著者の小野不由美さんが「あちら側(十二国)で書く話がもっとある」からと続いたらしい。

やはりまだまだ紐解かねばならぬ世界がありますね。それではまた次回!

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