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読書記録「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」文藝春秋 (2015)です!
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・あらすじ
ある日を境に、多崎つくるは半年間、死ぬことばかり考えていた。そしてある意味、その時点で彼は一度死んだと言っても過言ではなかった。
高校時代、つくるには非常に仲の良い友だちが4人いた。地元は名古屋のボランティアでたまたま同じ班になっただけだが、当時の彼らにとって「正しい場所で、正しい仲間と結び合っている」と感じさえした。
その友だちというのは赤松と青海という男子と、白根と黒埜という女子。多崎つくる以外、色を持っていた。それが彼にとって微妙な疎外感と、「色彩を持たない」という意識が根付いたといえる。
つくるにとって、このグループの中に自分がいる事自体、どこか不思議な感じであった。だが、この正五角形に組み込まれていることに、誇りを感じることもあった。
それが突如として、何の前触れもなく、失われてしまった。
それが今から16年前の話。多崎つくるは、電鉄会社の建築課としてせっせと駅をつくっていた。父から名付けられたように、ものをつくる仕事についていた。
彼の高校時代の話を聞いた沙羅は、彼女はつくると付き合っているし一度肌を重ねている、どうしてその理由を聞かなかったのか言及する。
そして、彼女に勧められるがままに、かつての高校時代の友だちに会いにいく。ただ一人を除いて。
以前、上池袋で開催された村上作品を語る読書会に参加した時に、改めて読みたくなり紐解いた次第。当時、夜更しするほど熱中したのだが、ほとんど内容を覚えてなかった。
多崎つくるほどの悲しみを感じたことはないが、所々で彼の考え方に共感することがある。
彼が突然友だちを失った経験から、彼自身なにか人をがっかりさせてしまうものがあるに違いないと。それがいわゆる、色彩を持たないことが関係しているからだと。
色彩を欠いた多崎つくる、と彼は声に出して言った。結局のところ、人に向けて差し出せるものを、おれは何ひとつ持ち合わせていないのだろう。
自分も時折、自分には何も差し出せるものがないと感じる時がある。
読書会を主催しているのに、こんなにもNoteを書いているのに、これ以上何を望んでるのかと言われかねないが、私自身、大したことではないと思ってしまう。
周りを見渡せば、色彩を持っている人達で溢れている。時折コメントを頂く方々は、ビビッドな色を持っている方が沢山いらっしゃる。
けれども、それは誰しもが考えることなのかもしれない。
私を含めて、誰しもが色を持っているけれども、その色は自分には見えない。もっとも、自分の色を最大限に生かしている人ももちろんいるが。
または、透明という色を持っているのかもしれない。
透明は無色ではなく、ガラスのように澄み渡り、思わず色を入れたくなるような人もいるのかもしれない。
結果として多崎つくるは、かつての友だちに巡礼することで、少しづつ自分というものを取り戻していく。色を持つ友だちに出会うことによって。
改めて読み返しても、感慨深い思いになった作品でした。それではまた次回!
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