続・「美しさ」が分かるとは?
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今年掲げたも目標の一つ。「月に1度は美術館・博物館を訪れる」を達成すべく、上野は国立西洋美術館へ。
企画展「Does the Future Sleep Here? (ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?)」というタイトルで、現代美術家たちが我々に問いかける。
以前、何の本だったか忘れてしまったが、環境活動家が美術館の絵画に対してトマトスープを掛ける行為に対して、どことなく共感してしまう的なことが書いてあった。
と言うのも、この世界に存在する全てのものは、いずれ衰退して亡きものになる運命にある。人間もモノも同様である。
それにも関わらず、美術館という場は、過去の遺産を半永久的に存在し続けようしており、自然の摂理に反する施設なのだという。
そう主張されれば、なるほど、美術館にはそういう側面もあるのかとも考えられるト(マトスープなど掛けなくてもね!)。
その点についてはどうこう書く気はないが、美術館にはそのような問いがいくつもあって、現代美術家たちの作品を通じて対話するかのように観ていく。
先月は東京都美術館の「印象派 モネからアメリカへ」を観に行った際は、テーマがわかりやすかった。
西洋美術館に展示されている宗教画や風景画なども、観ただけで私は何を観ているのかが分かりやすい。
しかし、現代美術は捉えるのが難しい。浅学で大変恐縮ですが、私は一体何を観ているのだろうかと思ってしまう。
特に抽象画などを見ると、画家はなぜこの状態を完成と見なしたのだろうかと考えてしまう。
それと同時に、なぜ完成されたものが、美しいものになるのだろうか(語彙力の欠如)。
そう思ったのは、小田原のどかさんの作品郡における、ロダンの「考える人」のブロンズ像が横たわっている(だけ)の作品。
なんというかこれを見たときに、この状態であってもこの像は作品として正しい(という解釈が正しいかも疑問だが)とも思った。身体を丸め込む姿が、胎内の赤子のようだと。
そう解釈できたのは、それだけロダンの「考える人」が素晴らしい作品だからであるとも捉えられるが、私が思ったのは、洗練されたもの、完成されたものと言うのは、やはり人間の都合何だなということ。
この考え自体は、以前読んだ橋本治さんの「人はなぜ『美しい』がわかるのか」筑摩書房 (2002) にある。
美しいものは合理的ではあるが、それこそ、所詮人間の都合に過ぎないともだと。
単純な話、風景画などは、自分が今何を観ているのかが認識しやすい。認識できるからこそ、美しいとも思える。
しかし、今回の現代美術家の作品を通じて、どうしてこの作品に美しさを感じるのだろうかと、どうしてこんなにも魅入られるのだろうかと、考えていた。
その答えは、、残念ながらわからない。だけど、思わず絵の世界に吸い込まれそうな、酔ったような感覚を覚えたとき、私はその絵画が美しいと考えている。
恐らく、その感覚を言語化するには、まだ経験値が足りない。定期的に美術館には訪れるべきだなと、改めて思った次第。
そんな、まだ芸術という海の浅瀬にも入っていない男の感想。それではまた次回!
今日もお読みいただきありがとうございました。いただいたサポートは、東京読書倶楽部の運営費に使わせていただきます。