はじめに
ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされ、ペンを武器に昭和の動乱期にて言論戦を闘い抜いた、昭和期の思想家・葦津 珍彦氏について、神道史視点から卒業論文に基づいて述べているお話です。
今は、昭和20(1945)年・敗戦直後のお話。
葦津氏が神社本廰の設立に向かって携わって行かれるお話。
各月ごとに分けて神社本廰が設立される2月までのお話をいたします。
前回のお話
初見の方へ
葦津 珍彦氏は
(明治42(1909)年7月17日~平成4(1992)年6月10日)
福岡市に鎮座する八幡宮に代々奉仕する神職の一家系(社家)出身。
神職を務めた後に事業家として活動していた
葦津 耕次郎氏の長男として福岡で生まれ、10歳の時に東京へ転居。
読書家で中学生時に独創的な思想家になる事を志して独学。
種々の主義思想を比較研究をしている最中、社会主義思想と出会い興味をもったことから約8年間社会主義思想研究に没頭するなど経て、
自身の思想の方向性を固めたのち、昭和7(1932)年より父君の言論活動に助手として協力。父君が経営する社寺工務所を引き継ぎながら、独自の考えを踏まえて政策に関する言論活動をしておりました。
戦前・戦中と政府の政策に対して、物申す活動をされておられた中で、
「ポツダム宣言」に記されている一内容を独自に解釈した結果、連合国軍によって、神道・神社が抹殺されていくことを先読みされ、神社を護るための活動に専念する決意をされました。
昭和20(1945)年8月15日正午、天皇陛下による停戦の大号令の玉音の御放送がなされたあと、神社の鳥居だけでも残したいとの目標を設定して、単独行動を開始。
葦津氏は以前より親交があり、再入閣された
緒方 竹虎 国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁大臣のもとを
8月17日に訪ねて
「ポツダム宣言」受諾後でも、条件について交渉の余地はまだあることを踏まえ、「ポツダム宣言」にある「宗教・思想の自由」は、神社を自由の障害としていると理解することができるので、この宣言に条件をつけずに承諾すれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろう。」というような、自身の解釈による危惧を伝えます。
同意した緒方大臣は動いてくれますが、諮問した憲法学者や内務省サイドは「そんなことはない」と緒方大臣の意見を受け入れることはなかったことを聞き、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断され、即刻、親戚と祖父・父君の代より交際のある、神社関係・民間三団体の基柱人物のもとを訪ねて協力を得たのち、1カ月程は占領軍の様子を伺いながら、葦津氏をはじめ、ごく少数の三団体神社関係者のみで対策協議がなされました。
GHQは、10月4日に自由を抑圧する制度を廃止するように命じた指令
(通称:「自由または人権の指令」)を出し、翌5日に東久邇宮内閣は解散。
米国政府は10月6日に「神道の特権廃止」の決定を公表するなどの占領政策がなされていくようになり
GHQからの圧力によって無力化していく政府の状況をみて、
神社関係三団体(以後三団体)で今後の打ち合せを行う決定がなされ、
10月25日、都内におられる約30名の神社関係者が出席して、
初回の三団体合同懇談会が行なわれました。
今回は、このお話の続きからとなります。
葦津 珍彦 氏の話
新団体設立事務局の設置と神社教の設立案
初回三団体合同懇談会から10日後、
11月4日には、皇典講究所(現在:國學院大學) にて、
当時の神宮祭主様でございました、
梨本宮 守正 王 殿下を総裁に推戴(すいたい)する式がおこなわれました。
皇典講究所の吉田 専務理事は、式後の「講究所理事会」にて
神社は、今後民間の新団体によって維持されなければならないことを初公表されました。
そして、懇談会で取り決められた予定通り
同月7・8日の両日、渋谷にある「大日本神祇会館※」(以後 神祇会館)にて、三団体関係者の相談会がおこなわれます。
この時の相談は「民間団体の運営方法をどうするか。」
という内容で進められまして、その結果
などが決定されました。
このとき、神祇会館内に設けられた「準備事務局」では、
10月4日にGHQにより発せられた「政治的、社会的及宗教的自由ニ対スル制限除去ノ件」の覚書(資料元『国立公文書館デジタルアーカイブ』ウェブサイト)により、治安維持法等とともに宗教団体法も廃止されたこともあって、
当時は準拠する法律がなかったため、他の教団教派の資料を収集。
大日本神祇会が中心となって「結成案」についての研究をはじめます。
そして11月8日には、当時内務省・神社制度調査会の委員をつとめていた
長谷外余男当時熱田神宮 宮司が上京され、この研究に参画されました。
この頃、準備事務局で考えられていた案は
という内容となっていて、一定の教義を持つ、一宗教団体として、
新団体を設立する方向で案が練られておりました。
このことは、民間団体として運営していくとなると、
他の宗教団体と同様に宗教団体法に則った
一宗教団体として運営していかなければと考えられてのことなので、
全国神職会が考える結成案としては当然な流れであると思います。
ですが、この「神社教案」は、葦津氏が提唱した、
「各神社は独立民間法人として全国神社連盟を組織し運営する」という
「連盟案」とは相違している内容となっているため、のちにこの両案をめぐって対立していくこととなります。
吉田 専務理事によるGHQ偵察と会談
こうしたなかで、政治家としての経験が豊富な
皇典講究所・吉田 茂 専務理事(元首相とは別人)は、
10月中旬頃には、当時外務大臣だった、もう1人の吉田 茂 氏のもとを個人的に訪ねていました。
この時に、吉田 専務理事は事情を話して
「個人的にGHQへ行って偵察しようと思う」旨の説明をされます。
この話を聞いた吉田外務大臣は「宗教のことは、よくわからないのでよろしく頼む。」と言われたとのことで、同時に堀切 善次郎 内務大臣のもとも訪ねられて、内務省の外局である神祇院では、現時点で神社防衛対策を立てていないことを確認します。
そして後日、10月某日にGHQ・民間情報教育局(CIE※) の
宗教課に所属するウィリアム・バンス 課長のもとを一私人として訪問されました。
【参照 組織図】
吉田 専務理事は自己紹介をして、誰かに依頼されて訪問している訳ではない旨を述べてから、神社神道の問題について、バンス課長と約2時間会談されました。
この時にバンス課長より、
「神社神道については日本政府の出方を待っている。GHQとしては、
国と神道との分離は必ず断行せねばならないが、信教の自由を声明している手前、侵害している印象を与えたくないため、それ以外の問題については、日本政府から話があれば喜んで受ける」旨の返答があったとのことで、
この会談によってGHQ側の現時点の見解を理解することができたので、
葦津氏と三団体関係者は、10月下旬頃には本格的な対策に向けての研究に取り掛かられておりました。
以上の経緯を踏まえて、吉田 専務理事は、
「三団体関係者相談会」中の11月8日の14時に、
再度GHQのバンス宗教課長のもとを訪問して会談が行なわれました。
このときに吉田 専務理事は、
「神社と国との関係は切り離されるので、国がおこなっていた神社行政を民間に移して、全国の神社関係事項を取り扱う本部を設けるため、全国的な民間団体を設立して法人として運営にあたること、伊勢神宮と皇室の関係は今後も継続させたいこと、進行中の第59回神宮式年遷宮は国費で完成したい」旨等の希望を述べられます。
この希望に対してバンス課長は、
「我々は神道を弾圧迫害する意図はなく、神道も民衆の宗教として盛んとなることは結構なことである」と回答されたとのことで、このときの会談の要旨は、神社新報社編『神道指令と戦後の神道』に掲載されているので、以下に引用いたします。
【以下会談要旨】
引用文献は 旧仮名遣い・送り仮名カタカナで書かれていますが、
読みやすさを考慮して現代文でお書きしました。
文章は引用文のままになっております。
この会談で、GHQの現段階での神社神道に関する意向と、今後の神社は民間の団体として存続していくことが可能であることを確認することができたので、神社界にとって大きな成果を得る結果となりました。
発起人代表者 宮内大臣、内務大臣、
終戦連絡事務局の第一部長に陳情・打診
そして翌9日には、7・8日に行われた三団体関係者相談会にて決定された
予定通り、吉田・宮川 両専務理事を含む三団体の代表者たちは、
内務省の次官と神祇院 副総裁、外務省の終戦連絡中央事務局の第一課長、
宮内大臣のもとを順次歴訪。
前日に行われたバンス課長との会談にて確認したGHQの意向と、
今後の神社は民間の手によって維持していくという民間団体側の意向、
それについての対策と趣旨を陳情します。
そしてこのときに、当時神社局※の考証課長を務めた経験をもつ、
神道学者の宮地直一博士が起草した「神社教(仮称)設立趣意書」を手渡しました。
三団体会合
そして、9日夜には三団体は会合して
「予想される神祇院の廃止に伴う神社と神職との今後の措置」についての協議をおこない、準備事務局では急速に「新団体(仮称神社教)大綱」を立案するため、連日協議することとなりました。
教義に関する事項については、宮地 博士が担当。
11・12日には「神社教の祭神及び教義の立て方」についての案を練り、
「神社教(仮称)教規大綱」という仮案が作成されていきました。
こうしたなかで、神宮奉斎会の宮川 専務理事を通して「神社教」の立案側と「神社連盟」の立案側は、
互いの審議経過について情報交流をしておりました。
この辺りで宮川氏は、葦津氏に「神社教案」が立案されていることを伝えます。
その一方で、「初回の合同懇談会」直後につくられた
高山 昇 長老※が委員長をつとめる「研究小委員会」では、
葦津私案である「神社連盟案」を中心とする対策案の討議が進んでおりました。
新団体設立準備へ
11月13日 天皇陛下は終戦の御奉告のため、
伊勢の神宮へ御親謁(しんえつ) されました。
この同日、神祇会館にて「新団体設立準備協議会」が開かれました。
このときに、準備事務局案の「神社教(仮称)教規大綱案」が提出され、
この案についての説明と討論がおこなわれました。
この大綱案は
というような、教派宗教団体として中央集権的な組織制度とする内容となっていて、議会ではこの原案の各条を順に追って詳細に審議されました。
そして、この審議が終わると宮川 専務理事は立ちあがって、
「新団体は管長制の教派とするべきではなく、連盟組織でいくべきである」と述べられ、吉田 専務理事も「公益法人組織でいくべきである」との見解を述べられます。
このことにより、準備事務局による「神社教案」を中心とする審議が一変して、賛成者と反対者が互いに反論し合ったため、議論がまとまらなくなり、議会は収拾できない状態に陥ります。
そのため、最終的には吉田 専務理事がまとめ役として裁定することとなり、新団体は教団ではなく公益法人とする線に沿って進むこととするが、
この場合の名称は「神祇廰(仮称)」とすること、また、「神社教案」のよいところは採用し、16・17日におこなう予定の「世話人会」までにその案を作成するとして議会を終えました。
そして翌14日、吉田 専務理事は、神祇院、宮内省、終戦連絡事務局を訪問して、前日の議会でまとまった意見の報告をした後、内務省にて新聞記者団を通じて新団体結成のことを公表しました。
この発表は翌日の新聞紙にて報道され、一般の国民はこのときに初めて、
「今後の神社は国の管理下ではなく、民間の氏子崇敬者の手によって維持されていく」ことを知らされました。
このときの葦津氏の行動
このときの葦津氏は、
中央集権的な宗教教団組織を設立しようという「神社教案」に対して、
自身が主宰する「神道青年懇談会※」の有志たちと共に
「全国的な連盟組織であるべきだ」と主張する反対活動を展開。
葦津氏が作文した「神社教案に反対す」という
辛辣な文書を青年神道人有志の名で三団体関係者に配布しました。
その主文は、「神社教の設立は、神社の本質に相反する案であるので、神社の永遠の将来のために断固反対せざるを得ない」として
といった内容となっています。
【以下 全文】
(日本の古社…)の個所を除く
( )内は筆者註
このことにより、葦津氏が主宰する神道青年懇談会の意見と、
三団体側の神社教案とが対立するに至ります。
このため、宮川 専務理事は、打開策の研究を進めて、
11月14日に神宮奉賛会本院でおこなわれた有志懇談会にて、
「新事態に処する神社要項案」を発表しました。
その主文は「伊勢神宮は宮内省の所管とし、全国の神社は財団法人として氏子崇敬者の代表を含む役員会が推薦する神職を中心として経営をおこない、全国神社を統制するための財団法人全国神社連盟を設立すること」というような内容で、宮川 専務理事はこの私案を「神宮奉賛会本院 有志懇談会」の名で準備事務局に提出しました。
【以下 全文】
こちらも文章そのままの現代文でお書きしました。
この結果、準備事務局は、宮川・葦津 両氏が提唱した
「神社連盟案」を勘案して改めて「神社教案」を立案することとなりました。
このころの政府側の対応
民間の神社関係三団体は、11月に入り本格的な神社制度に関する審議がはじまり、1ヶ月という短期間で神社界の今後の方針がほぼ決定していくなか、
政府側では、11月に入ってからGHQと交渉するための手続きがはじまりました。内務省の外局である神祇院内部では、11月16日に神祇院にて「参与会」が行なわれまして、翌17日には、内務省にて「神社制度調査会」の会議が行なわれ、神社界の今後の新方針についての協議がなされ、
このときに「神社神道の国家の宗祀とする制度は廃止して、宗教として今後の維持・発展を図る」という方針が決まりました。
18日には、当時の堀切 善次郎 内務大臣が「神祇会館」を訪問。
神祇会・会長に「今後の神社の処置は、三団体に一任する」という旨が伝えられます。
そして、20日におこなわれた内閣閣議によって
「神祇院を廃止」することが決定されました。
そしてこのあと、GHQより12月15日に発令された、
通称「神道指令」と呼ばれる指令によって「神祇院の廃止」が命令されますので、このときの16・17日に行われた会議が「神祇院として最後の会議」となります。
【註】
神祇院に関するお話で、葦津氏をはじめ関係者についても述べられている論文がございましたので、ご紹介いたします。
鈴木 紀彦「神祇院の成立過程の研究 (PDF)」
(機関誌『明治聖徳記念学会紀要』復刊第51号、平成26年11月3日)
このときの様子について『神道指令と戦後の神社』にて述べられている個所がありますので、以下は所々引用しながらお話いたします。
そして、11月20日には最終的な方針を決定するための内閣閣議がおこなわれて「神社制度刷新要綱」が決められ、神社を国の管理下から分離する方針が決定しました。
そして、この閣議決定をもとにして「神社問題対策」という、神社を国民の自由な信仰の対象とする趣旨の提案書をGHQに提出するために、27日には「提案書」を作成して、GHQとの交渉会談をはじめました。
11月28日にGHQとの交渉会談の第1回目が行われ、
政府側からは、神祇院・飯沼 一省(かずみ)副総裁と
終戦連絡事務局・曽禰 益(そね えき) 第一部長が出向き、
GHQ側は、ウィリアム・バンス宗教課長が対応。
このときに、上掲の「神社問題対策」を手渡して会談が行なわれました。
「神祇廰(仮称)」 発起人・世話人会 行われる
その一方で、神祇院で最後の会議が行なわれた同日の
16・17日の両日、神祇会館にて
「神祇廰(仮称)発起人・世話人会」がおこなわれました。
このとき、三団体関係者の外に、世話人と神祇院・考証課長が出席。
「神祇廰(仮称)庁規大綱案」を中心にして議論されたましたが、
この案は「民法による社団法人組織」として設立する案となっていました。
内容としては、先の「神社教(仮称)教規大綱案」とあまり変わりがなかったため、宮川・吉田 両専務理事は、この案に反対。
「葦津案」と「宮川案」の両案が会場に配布され、更に案を練り直すこととなりました。
そして19日に「第2回 神祇廰(仮称)設立準備の世話人会」がおこなわれ、この会合から、全国各地から集まった世話人が参加しました。
このときに先日の「神祇廰(仮称)庁規大綱案」を訂正した案を中心に議論がなされましたが、新たに参加した世話人たちの多数が「神社教案」を主張したこともあって、再度、「管長制の教団組織」とするか、「連盟とする法人組織」とするかで議論されるに至ります。
このとき出席していた、葦津氏は「神社教非なり」という上掲「神社教案に反対す」とほぼ同じ内容のリーフレットを配布して、神社教ではうまくいかないので法人の連盟組織でいくべきだと強調します。
その結果、事務局は「神祇廰案」を成案させるべく、
更に研究を続けることとなりました。
設立に向けて本格的な会議が行なわれる
そして8日後の27・28日の両日
神祇会館にて「第1回 神祇廰設立準備委員会」がおこなわれ、
このときには、全国各都道府県から92名の代表者が交通難を乗り越えて参加されました。
三団体側からは、神宮奉斎会・会長、大日本神祇会・会長、
皇典講究所・所長 以下全理事が出席して、本格的な会議がおこなわれました。
最初に皇典講究所・吉田 専務理事が、これまでの経過報告と
「神祇廰(仮称)設立案」の趣旨説明をおこない、神祇廰は公益法人として、翌年の1月1日に開設することや、その他の組織の内容について説明がなされた後、各都道府県の代表者との質疑応答がおこなわれました。
その結果、神祇廰の機構・名称・目的・事業等の問題については
「第1委員会」
神社の組織と階位、氏子崇敬者等の件については、
「第2委員会」に任せることとなりました。
こうして第1委員会は、27日の会議後、18時から22時まで、庁規の内容について審議して、名称を「神祇廰」から「神祇本廰」とすることにしました。
第2委員会では、28日午前中に、
神社・職員階位・氏子崇敬者・総代・財務等についての議論がなされました。
そして、28日13時に「総会」がおこなわれ、
第1・第2委員会の審議の結果報告が可決され、
12月22・23日に「創立総会」をおこない、それまでに「庁規案」を完成させるということで会議を終えました。
今回の葦津氏のお話は以上となります。
11月の国内の情勢の話
より深刻な物資・食糧不足
当時の国内は配給制で、各町内会毎に各一定量の物資の配分されておりましたが不足状態が続いていたなか、敗戦直後は、より深刻な物資・食糧不足状態となっていました。
【参照資料】
また、治安も悪くなり諸犯罪も増加していきます。
紙不足も深刻で、当時の新聞は表裏の2ページで1枚。
朝刊のみが発行されておりました。当時はテレビもスマホもない時代で、
新聞は主要な情報源であったため、街頭に貼られたりもしていました。
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』によると、
昭和24(1949)年11月末になってから、ようやく夕刊が発行されたと述べられています。
【資料】昭和20(1945)年当時の都内街頭
このような状況ではありましたが、
11月1日には、総合雑誌「新生」が創刊され、即日に13万部売れたとのことでした。
また、こうしたなか、11月1日に
渋谷・日比谷公園にて「餓死対策国民大会」が開かれました。
各党各派が結成される
また、社会主義者たちの活動も盛んになっていき、
2日には「日本社会党」が結成されました。
【参照資料】
8日には、日本共産党による「第1回全国協議会」が開催され
「新憲法の骨子」の決定がなされたのち、11日には「新憲法の骨子」を発表します。
こうしたなか、9日には「日本自由党」(鳩山 一郎 総裁)が結成。
16日には、保守政党の「日本進歩党」(町田 忠治 総裁)が結成されるなど、
この頃には33党派が結成されるまでに至りました。
【参照資料】
マッカーサー元帥「近衛 元国務大臣の憲法改正作業に関知せず」声明発表
政府側では、10月13日に臨時閣議がおこなわれて憲法改正のための研究開始が決定された後、内大臣府による憲法調査がなされ、
近衛文麿 元国務大臣は、当時内大臣府御用掛として憲法改正案作成に当たっておりましたが、内大臣府によるこの調査への疑義などがおこったことから、内外世論の反発をまねいたとのことで、このことを受けてマッカーサー元帥は、11月1日に「近衛 元国務大臣の憲法改正作業に関知せず」との声明を発表。近衛 内大臣府御用掛 等は、そのまま調査を続けられました。
【参照資料】
明治節祭 斎行
こうしたなか3日には
宮中・明治神宮をはじめ全国神社にて、
「明治節祭」が執り行われました。
同日、マッカーサー元帥は、米統合参謀本部より11月1日に決定された
「日本占領および管理のための連合国軍最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」の伝達がなされます。
(資料元『国立国会図書館』ウェブサイトより)
天皇制や神道などに関する改革
このころには、天皇制や神道に関することにも触れられていくようになり、
1日には、連合国賠償委員団により、皇室資産も賠償支払いに使用しようとする動きがあり、18日には「皇室財産に関する覚書」(皇室財産取引禁止など)を発表して、生活費を除く皇室財産のすべてを凍結するとの指令を出し、
また、華族制度の改革にも着手されていくようになります。
こうした背景もあり、5日には閣議がおこなわれ、
陛下の戦争責任の否定を確認した「戦争責任に関する件」の決定がなされ、大原社会問題研究所・高野岩三郎 所長等による「憲法研究会」が発足しました。
【参照資料集】
財閥解体へ
また、三菱、住友などの15財閥の証券凍結の命令がなされて、
6日には「持株会社の解体に関する覚書」を発表し 、財閥の解体の決定が伝えられます。
【参照資料】
天皇陛下 終戦御奉告のため伊勢の神宮ならびに畝傍、桃山両御陵へ行幸
こうしたなか天皇陛下におかせられましては、
伊勢の神宮ならびに畝傍(神武天皇陵)、桃山(明治天皇陵)両御陵に終戦御奉告のため、12日より行幸あそばされました。
天皇陛下 靖國神社 御親拜
20日に靖國神社にて「臨時大招魂祭」の斎行により
天皇陛下は靖國神社へ行幸あらせられました。
時代劇等映画上映の禁止
16日にGHQは「非民主主義映画の排除方に関する覚書」を発表。
忠臣蔵など多くの時代劇等を対象として約230本の映画上映を禁止するなどの政策がなされ、19日には、チャンバラ映画を軍国主義的として上映禁止になりました。
また、同日には、戦後初の大相撲本場所が天井の焼け落ちた両国国技館にておこなわれ、ラジオ放送にて実況中継がなされました(優勝は横綱 羽黒山)
18日には、神宮球場で全早慶野球試合が行われました。
11名が戦犯容疑で逮捕命令
19日には、荒木貞夫元陸軍大将、松岡洋右 南満州鉄道元総裁、
小磯国昭大将ら11名が戦犯容疑で逮捕命令が出されます。
【参照資料】
21日以降の主な出来事
21日には「治安警察法廃止の件」が公布。
同日、NHKラジオ放送にて、天皇制についてのテーマでの
「第一回ラジオ座談会」の放送が開始されます。
【参照資料】
22日には、近衛 内大臣府御用掛は「帝国憲法改正要綱」を陛下に奉答なされ、
24日には、佐々木 惣一 内大臣府御用掛は
陛下に「帝国憲法改正の必要」(資料元『国立国会図書館』ウェブサイト)を
奉答されました。
26日には、臨時の「第89回 帝国議会」の召集がなされ
27日午前11時より貴族院にて行われました。
(11/27 開院式。12/18 衆議院解散)
28日、GHQは日本政府に対し
「GHQの承認なしにいかなる種類の新通貨の図案・印刷・発行をも禁止する」覚書を発します。
30日には、内大臣府の廃止、参謀本部の廃止。
帝国陸軍の解散がなされました。
今回のお話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。拜
【参考文献】
(発行年の書き方は書籍による)
岡田米夫編『神社本庁五年史』(神社本庁、昭和26年5月)
神社本庁編『神社本庁十年史』(神社本庁、昭和31年5月)
神社新報企画・葦津事務所編『神社新報五十年史(上)』(神社新報社、平成8年7月)
神社新報創刊六十周年記念出版委員会編『戦後の神社・神道-歴史と課題-』(神社新報社、平成22年2月}
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』(神社新報社、昭和46年7月)
神社新報政教研究室編『近代神社神道史』(神社新報社、平成元年7月)
神社本庁研修所編『わかりやすい神道の歴史』(神社新報社、平成19年6月)
葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集 第三巻』(神社新報社、平成8年11月)
宮川宗徳大人伝記刊行会編『宮川宗徳』(非売品、昭和39年1月)
吉田茂伝記刊行編集委員会編『吉田茂』(明好社、昭和44年、12月)
【写真等参考文献】
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』(月刊沖縄社、昭和54年9月)
【参考新聞関連】
「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」