舞台『宝飾時計』 -私はまだ、他人(ひと)のためには生きれない-
「30代は坂道から転げ落ちるくらいあっという間だよ」
20代の頃、40代の先輩から言われた言葉だ。
さすが人生の先輩。的を得まくった表現に、感動すら覚える。
言葉の通りどんどん転がるもんだから、そのスピードは年々勢いを増していて、いよいよ坂道の終わりがチラチラしてきた今日この頃。
30代が坂道なら、40代は何だろう。
2023年も残り3ヶ月を切ったところで、今年鑑賞したアート、音楽、建築、映画、舞台を振り返り、まだ記憶が(もう微温いけど)あるうちに綴っていこうと思う。
[ 個人的な日記に近いので、作品説明は省略 ]
2023年1月、私にとっての鑑賞杮落としは、高畑充希さんが主演した舞台『宝飾時計』だった。
舞台は数えるほどしか行ったことがなく、自発的に行ったのは今回が初めて。
東京芸術劇場へ行ったのも初めて。
音楽とは違う「ライブ」の緊張感に、ソワソワしてワクワクした。
『宝飾時計』 を観て感じたこと
鑑賞中、泣きそうになった場面がいくつかあった。
けれどこの日は、なんだか涙を落としたくない気分で、とにかく堪えた。
高畑充希さんの「青春の続き」の歌唱力には、鳥肌が立つほど感動しながらも、短い下まつ毛でなんとか溢さずに聴ききった。(一人で聴いていたら、号泣必至。)
・・・なのに、まさか・・・
作品の98%は、主人公である「ゆりか」の視点で観ていたが、最後の最後、ハッとした途端に涙が溢れた。
自分は「ゆりか」じゃなく、「大小路」なんじゃないかって。
この作品は、自分と重なる部分が沢山あるわけじゃないし、ましてや恋愛で生き方を変える…(変えたことになるのか…?だから苦しくなって、自由になりたくて今こういう生き方をしているのか…?)なんて縁遠いと思って観ていた。
共感部分は少ないけれど、心があるゆえの人間の生きにくさ、不器用さ、ストレートに気持ちを伝える大切さ、愛情や幸せの多様性、そういうものを感じた。
ゆりか視点で観ると、「大小路は酷いやつだ!」ってなるのかもしれないけど、私は終始、大小路に対してそうは思えなかった。
ゆりかは長いこと、大小路と共に生きることを望んでいた。
大小路だってきっと、ゆりかの隣にいたい気持ちはあっただろう。
でも、たぶん、頭では分かっていても、心の底からその行動を取れる、取りたいと思える心情ではなかったんじゃないかと思う。
幼い頃から女優として活躍を続け、自分のために(勇大を消さないための行動も含めて)十分頑張ってきたゆりかに対して、心を閉ざし気味で自分と向き合うことから逃げてきた大小路は、たぶん、まだ自分の時間を生きれていない。
自分で自分を確立出来ていないのに、ここで流れに身を任せてゆりかの隣にいることを選んでしまったら、“自分”が見えないまま時間が過ぎてしまう、そんな恐怖もあったんじゃないかと。
ゆりかのことは大切だし側にいたい、そうあれる人間になりたい、けれど、心からそう思えるようになるまでは、一緒にいちゃいけない。
それは、心を閉ざしてきた自分のため。
今向き合わないと、きっとずっと変われない。
結局大小路は、ゆりかの元へ行くまで何十年もかかった様子。
(30〜40年くらい経ったのだろうか)ゆりかはもう、だいぶ歳を取っていた。
けれどそれは、仕方がないことだ。
最短ルートなんて、誰も知らない。
自分で足掻き、もがいて、嘘偽りのない、確かな気持ちになるまで、向き合い、探し続けるしか方法は無いし、それらを経ずに本心からの納得は出来ないと思う。
そんなことをぎゅっと感じたラストだった。
性格が似ていても、思考が似ていても、全く同じ人間はいない。
だからぶつかるし、すれ違うし、苦悩する。
痛いし、辛いし、逃げたくなる。
それも人間。
そう感じた。
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私はまだ、他人(ひと)のために生きたいと思えるほど、自分に納得出来ていない。
だから、自分のための生き方をしている。
誰かのために何かをしたくなったら、すればいい。
それもつまりは、自分のため。
自分がそうしたくて、しているのだから。
それでいい。
全くもって、問題ない。
♪ 高畑充希「青春の続き」
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