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ハインラインは小説が下手なのか?


タイトルはハインラインの『獣の数字』全3巻の解説から拝借しました。
そこから一部抜粋して引用します。


ハインラインは、小説が下手か?
……という設問には意味がない。
〜中略〜

本国での発売当時、批評屋連中の集中攻撃を受けながら、長い間、ベストセラー・チャートの上位に居座り続けた。
誰が、どう文句をつけようと……面白かったからに他ならない。
すなわちーー
サービス精神と言っても、読者に媚びることではないのだ。
むしろ、ハインラインは、読者の都合など徹底的に無視して、ただ、ひたすら、自らの遊び心と楽しみのためだけに、本書を執筆したのではないか。その傲慢な態度が、SF界のオピニオン・リーダーを自任する連中の神経を逆撫でしたからこそ、本書は袋叩きに遭ったのかもしれない。

©️ R・A・ハインライン著『獣の数字』川又千秋氏の解説より一部抜粋して引用


〜中略〜としてカットした部分には、『獣の数字』と同じアイデアを他の作家ならどう書くか?という氏の予想があって、ルーディ・ラッカーやアシモフの名前が挙がっていました。

でも、そんな仮定をしたって、別人が書けば別の物語になるだけだし、本作品が他ではまずお目にかかれないような相当に実験的な書かれ方をした小説であることは、読み始めればすぐにわかります。

特筆すべきは、ここに出てくるようなアプローチでジェンダー問題を取り上げたSF作品は、40年前も今も、まず他にはないだろうと思わせる点です。

わたし個人の意見としては、そうした部分をどのように解釈するかについて語るほうが、べつの作家と比較するよりもよほど有意義かつ建設的だと思うのですが。


視点①

この『獣の数字』は、物語の視点が独特なんですよね。
おそらくそのせいで「小説が下手」だと感じたり、わかりにくいと思うひとがいるのではないでしょうか。


小説の視点には一人称、二人称、三人称(一視点、多視点)があります。

一人称が“ぼく”や“わたし”に限定されたひとつの視点だけで進んでゆくのに対し、三人称はアニメや映画のように、いろんな登場人物の視点をいくつも使って描かれている物語です。

映像のない小説の三人称には、三人称だけど主人公の視点に固定した三人称一視点と、色んな場面を同時進行で把握できる三人称多視点があります。

二人称については、ややこしくなるだけなのでここでは省略します。

この視点とは、読み手が混乱しないように主人公を明確にしたり、視点を統一することで物語の状況を理解させやすくさせるための決まりなので、わかりやすい一人称か三人称が多く用いられるようです。

が、『獣の数字』は、複数の登場人物たちが交互にそれぞれ一人称で語るというかなり変則的な構成で書かれた作品なのです。


視点②

『獣の数字』は、「三人称多視点」で書くような物語を、なぜか「一人称の多視点」を用いて書いたらしい…という印象です。

なぜそんな構成にして、どういう効果を狙ったのか、最初に読んだ時には正直わけがわかりませんでした。

一人称や三人称などの視点の違いが物語にどう影響するのかは、以前に書いた【読み方を変えると、同じ本なのに違う印象になる不思議】という記事の中で解説したのでここでは詳細は省きます。

簡単にいうと、一人称の視点とは、この記事みたいに「わたしはこう思う」という目線で書くものなので、客観的な三人称と比べて偏った見方になりがちです。

なので登場人物全員がこれをやると、情報量が多すぎるし、まとまりがなくて読み手が混乱してしまったり、何よりそれぞれの思考の自己主張が強すぎてうるさく感じたりするんですよね。


これをワンピースで例えると、麦わらの一味が部外者も混じえて楽しくやってるときに、本来であればセリフにはならないはずのバルトロメオやハンコックの「心の声」までもがみんなにダダ漏れしてるみたいな感じでしょうか。

心の声までダダ漏れの2人を「おもしろいやつらだなぁ」なんて笑って眺めていられるのはルフィとゾロぐらいのもので、もう少し常識的な残りの仲間は密かにドン引きするのでは?

視聴者目線でも、あれはあれでおもしろい反面、自分の世界に入っちゃった彼らの心の声は、時にはちょっとうるさいこともありますよね。

マンガやアニメだとそれでもOKかもしれませんが、文字だけで書かれている小説のなかで一人称の多視点を用いるとそのくらいわけがわからなくなるのに、『獣の数字』では敢えてそうしているんですよね。


獣の数字

『獣の数字』の主人公は4人いて、それぞれ「あたし、わたし、ぼく、わし」という異なる一人称で語るのですが、年齢も性別もみんな違うので当然それぞれの考え方も感じ方も違います。

というか、日本語だと一人称のバリエーションのおかげで、誰の視点なのか容易に見分けがつくのですが、原作はもちろん英語です。

全員が「I」や「me」の一人称を使うとすると、その人物がどういう単語を使い、どのように考えるか、女性なら女性らしく考え、若者は若者らしい単語を使うといった部分から違いを見分けることになるので、原作は日本語版よりもはるかにわけがわからなかったのではないかと思うのです。

つまり、視点が別の人物に交代すると、当然ものの見方も感じ方も変わることになります。
年齢や性別、その人物の個性によって、同じ出来事や言葉でも受け取り方が異なるのは当たり前ですが、それが頻繁に、くり返し起こるわけですから。

そうしたなかでの些細な食い違いや、誤解や思いこみやすれ違いは、三人称よりも一人称を用いて書かれたもののほうがよくわかるのですが、むしろそのせいで英語版は、実際には日本語版の4倍はカオスになっているような気がします。

普通に三人称多視点にしておけば、こんなややこしいことにはならないだろうと思われるのに、なんだってこんなやり方をするのかと頭をかかえるひとが続出したとしても不思議ではありません。


が、なるほど「この書き方」だからこそ、作中で相当に突っ込んだところまで書いている男女のジェンダー意識の違いや、女性陣による男性陣への逆襲や、男性の無意識の驕りや思いこみなんかもよくわかるし、たしかに通常のよくある三人称ではそこまで描けなかったと思うのです。

意図すれば書けなくもないだろうけど、老若男女の登場人物4人全員のそれらの意識をそれぞれ描くなんてことは、ハインラインでもなければ出来なかったと思いますね。

他にも、指揮官に相応しいのは男か女かではなく、どのような考え方ができる人間であるかなど、物語の中で何が語られているかに注視すれば、本作品は類を見ないほど前衛的な作品であったことがわかります。

これが下手な小説?とんでもない!

わたしはこういう読み方をするのですが、そんな分析などしなくてもこれはおもしろい物語だと思います。

無論、もっとべつの部分に食いついてこの作品を貶すひとや、アンチをとなえるひともいるだろうけれど、小説なんだから、読み手のぶんだけいろんな意見や解釈があっていいのではないでしょうか。


ハインライン

『獣の数字』は1980年に発表された作品で、邦訳版は1993年の出版です。

ハインラインが亡くなったのは1988年なので、『獣の数字』は晩年の作、もうかなり後期の作品になります。

解説で触れられている当時の「SF界のオピニオン・リーダーを自任する連中」がどのような人々だったのかまではわかりませんが、わたしがWikipediaで知ったハインラインの人物像や解釈とはちょっと違うんですよね。
そちらも少しだけ引用します。

SF界を代表する作家のひとりで「SF界の長老」とも呼ばれ、影響を受けたSF作家も多いが、物議をかもした作品も多い。科学技術の考証を高水準にし、SFというジャンルの文学的質を上げることにも貢献した。

Wikipedia「ロバート・A・ハインライン」より引用

わたしの認識では、ハインラインは、彼にしか書けない物語をたくさん書いた偉大な作家です。

彼は間違いなく「SF界の長老」のイメージだし、「影響を受けたSF作家も多いが、物議をかもした作品も多い」という評価にも全面的に賛同します。 

ハインラインは、既存の枠に嵌まらない「なんでもこい」な作風と、作品のアイデアや内容が「物議をかもそうが知ったことか!」と言わんばかりに書きたいものを書きたいように書いたところに、彼らしさと価値がある作家だと思うのです。


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