見出し画像

脳移植によって性転換した老人が女性になろうと奮闘する物語(成人向け)



ハインラインの『悪徳なんかこわくない』は、老衰して死を目前にしていた老人が、脳移植によって若い女性のからだに生まれ変わるという物語です。

心臓などの臓器移植では、臓器提供者の記憶が残っていたりする“記憶転移”というケースがあるようです。
では、もしもボディを丸ごと提供してくれた死んだはずの女性の意識(存在)が、“記憶転移”としてそっくり残っていたらどうなるでしょう?


記憶転移(きおくてんい)とは、臓器移植に伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が受給者(レシピエント)に移る現象である。そのような現象が存在するか否かを含め、科学の分野で正式に認められたものではないが、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられたり、この現象を題材にした小説等が作られており、専門家以外が知る現象となっている。

Wikipedia「記憶転移」より引用


このケースでは「脳死状態にある女性の健康なからだ」に、「脳は問題ないけれど、からだは生命維持装置が必要なほど老化している」男性の脳を移植しています。

手術が成功したので、おじいちゃんは若い女性として生まれ変わりました。
が、どういうわけか「死んだはずの女性の意識(存在)がまだそこに残っているのを知ることになるんですね。

周囲の人間たちにとっては、女性はもう亡くなっています。
何故なら、暴漢に襲われて頭部に致命傷を負った女性は、病院へ運ばれた時点で既に死んでいたからです。
だからその女性と同じ姿をしていても、中身は彼らが知っていた女性ではなく、つい最近まで老衰で死にかけていた老人だとわかっているはずです。

老衰で死にかけていた老人は、いつでも新しいからだに脳を移植できるように手続きを整えて、その時点ではまだ生かされていました。
そして、脳死状態にあった女性のからだに老人の脳が移植されたのでした。


身体は生きていても、脳が激しく損傷を受けるなどして機能を停止している場合を脳死と言います。

脳死(のうし、英: brain death)とは、ヒトの脳幹を含めた脳すべての機能が廃絶した状態のことである。一般的に、脳死後に意識を回復する見込みは無いとされる。実際には国によって定義が異なり、大半の国々は大脳と脳幹の機能低下に注目した「全脳死」を脳死としているが、イギリスでは脳幹のみの機能低下を条件とする「脳幹死」を採用している。日本では、脳死を「個体死」とする旨を法律に明記していない。

Wikipedia「脳死」より引用


脳死状態にあった女性のからだに老人の生きた脳を移植し、女性が生き返ったのなら、老人の脳が新しいからだを支配しているとみるべきでしょう。

この場合、患者の性別は男?女?どっち?

若い女性のボディに引っ越したあとも、おじいちゃんは、お世話をしてくれる可愛い赤毛の看護婦(ナース)が気になって仕方がありません。
でも、おじいちゃんを若い女性として扱ってくれる男性医師にもドキドキさせられたりするのです。
これでは、いずれ人格が分裂して多重人格になる…昨今ならそういう展開になるかもしれませんが、これは50年も前に発表されたSFなのです。
そういう展開にはならないんですよね。

彼女(彼)の中身は①おじいちゃんと②提供者(ドナー)の女性なのですが、周囲の人々には「そのどちらでもない新しく生まれた女性」と映るようにふるまうことで3人目の人物を創りあげてゆくのです。



この作品はサイエンス・フィクションというジャンルで、「小説のアイデアとしての臓器移植と性転換」を扱っています。
また、たしかにこの作品は少々「不謹慎だ!」と叩かれそうな部分もあります。
正直わたしもちょっとついていけない部分もあるというか、ハインライン先生ってば何を考えてんのよ〜とか、それはないわ〜という部分もあるにはあるのですけどね(笑)

だからといって、SF作家が当時の最先端医療を題材にイメージを膨らませて描いた作品を、21世紀の現代に生きる者の感覚や尺度で一方的にはかるのはフェアじゃないと思いますね。

これは20世紀初頭に生まれたアメリカのSF作家が70年代に書いた作品です。
ようするに、その当時の社会情勢や最先端医療、女性解放運動などを抜きにして批判や評価するのは正しくないとわたしは考えるのです。

そこを理解しないまま、昨今の流行りの作品に感化された頭や意識で、純愛や文学や独りよがりな感動なんかを期待した人々が、匿名の素人批評家と化して、この作品についてネットで言いたい放題している風潮は少々感心できません。

いってよければ、そういうまねをするのは、自分が何を知らないのかを知ってからでも遅くはないと思いますけどね。

ハインライン作品を、当人の無知と個人的な嗜好だけで一方的にこき下ろしている底の浅い批判や、上っ面だけの安っぽい批評なんかを目にすると、わたしはいっそ彼らが気の毒になってくるほどです。

実年齢に関係なく、そういう手合いは無理して大人むけの小説なんか読まずに、なんだかよくわからない不思議な力で時空を超えて繋がったりするティーン向けの「ファンタジー」アニメをSFだと信じて観ていればいいのでは?
わたしはそんなのをSFだとは思いませんけどね。


同様に、日本初の心臓移植手術として1968年(昭和43年)に札幌医科大学で行われた【和田心臓移植事件】や、昨今の流行りの「記憶転移」がテーマの臓器移植をとり上げた純愛小説や感動的なドラマなんかとも単純に比較すべきではありません。

「脳移植で性転換」というありえない設定からして、これは現実の臓器移植とはまったく無関係なフィクションとして切り離して考えるべき作品だと思うのです。




作品に話をもどすと、この計画を前もって知っていたのは、老人本人と、彼の秘書だった亡くなった女性と、老人の弁護士の3人だけでした。

計画では「老人が脳死状態の健康な若いからだを遺族から買い取って自分の脳を移植する」ために、必要なのは『死んで間もない健康な若いからだ』と『いつでも脳移植可能な準備を整えておく』こと…つまり『多額の費用とタイミング』がすべてという計画でした。

老人は準備万端ととのえて、病院のベッドで生命維持装置につながれて、新しいからだの到着を待っていました。
ただ、突然の不幸な事故で亡くなったボディの提供者は、老人と弁護士がよく知る女性だったのです。

老人の長年の友人であり、亡くなった女性をいとしく思っていた弁護士はこの事態に混乱し、悲嘆にくれます。
老人も事実を知ってパニックに陥ります。
が、そこへ死んだはずの女性の声が話しかけてきて、彼女がまだ「そこにいる」にいることを老人に教えてくれるのです。

かくして、老人は脳内に同居(?)している若い女性の知恵を借り、彼女のアドバイスに助けられて、若い女性らしく生きていくことになるのです…。



この作品が発表されたのは作品リストでは1971年となっています。
今から50年も前の医学ですからね。
その当時、脳についてどの程度まで解明されていたのか定かではありません。

でも、21世紀の今に生きているわたしの素人意見でも、ボディは新しくなっても脳がそこまで古いとダメっぽくない?っていう疑問は残ります。

主人公のヨハンおじいちゃんは脳移植後に「もうすぐ95歳」だと言ってたので、普通に考えると脳梗塞とか脳溢血とか、くも膜下出血とかアルツハイマーなんかが心配じゃないですか?
どれも細胞の老化や劣化が原因の大きなウエイトを占めているので、古い脳も若返らせるような「何か」がないと避けられない事態だと思うのですが。
脳細胞は20歳を過ぎたら毎日10万個単位で死滅するという話だし…。
からだは若返ったとしても、脳がそのままなら、老化した古い脳のトラブルは無視できないんじゃないかと思うのですが……。

それにこれは脳移植だけでなく性転換の事例でもあるわけです。
彼女(彼)が回復後、諸々の手続きに裁判所を訪れると、ニュースで彼女の正体を知った群衆が押し寄せ、ものすごい数の群衆に囲まれて傍聴席は野次馬とメディア関係で満席の騒ぎになるのです。

彼女(彼)の存在は、ニュースで世界中の人間に注目されています。
とうぜん「神をも恐れぬ不届き者」と決めつける宗教関係とか、やっかみ半分の「どうせ財産目当ての小娘のなりすましに決まってる」といった犯罪説主張派などが、メディアとともに裁判所前につめかけているわけです。
21世紀の今なら、確実にそこにネット民も加わって、世界中からの誹謗中傷やセクハラ、嫌がらせに恐喝その他で大炎上という事態が予想されます。

いちおう近未来っぽい設定なので、治安放棄地区とか移動手段に装甲車とかいろいろ出てくるのです。が、根本的な設定が1970年代頃のアメリカっぽすぎるのか、はたまた未来予想を別方向に外したというべきか、ちょっと時代背景は把握しにくいところです。


まだ脳移植が計画段階にあった最初のほうのシーンに出てくる、おじいちゃんの感じの悪さはいっそあっぱれです。
主人公が老衰が進行中の老人のからだで出てくるのはそこだけなので、やりすぎなくらいの意地悪じいさんぶり全開で「頭のほうはまだまだ達者」な健在ぶりをアピールするあたりは、時代とお国柄が前面に出すぎていて笑ってしまいますが、それもまた味ですから。

老人に協力する弁護士が、老人が死ぬのを待っている人々について、老人の秘書である女性に説明するシーンなどは、じつにハインラインらしくて、じっくり読むとやっぱりおもしろいんですけどね。


「馬鹿なことをいうもんじゃない。その連中はハゲタカさ、人喰い鰐だよ。そして、この金を作ることにはまったく関心がないんだ。きみはヨハンの家族のことを知ってるかい?三人の妻に先立たれて‥‥四人めは彼の金が目当てで結婚したんだから、別れるのに何百万ドルもかかった。最初の妻は息子をひとり作り、出産のときに死んでしまった‥‥その息子は、まるで価値のない丘をひとつ落とそうとして戦死した。それから妻がもうふたり、離婚が二回。このふたりの妻は、それぞれ娘をひとりずつ生み、結局のところは孫娘がぜんぶで四人だ‥‥そして、離婚した妻もその娘もみな死んでしまい、野獣同然の子孫連中が、ヨハンの死ぬのを待ちつづけており、かれに腹を立てている。ヨハンが死なないからといってね」
弁護士は微笑した。
「かれらはショックを受けることになっている。かれの遺言状はわたしが作ったんだが、かれらにはちょっとした終身年金しか行かないんだ…訴訟を起こしたりすれば、涙金でもって年金も打ち切りだ」

©️ R・A・ハインライン著『悪徳なんか怖くない』より引用

つまりこれが老人が「脳移植に挑戦する動機」なわけです。
失敗すればあの世行きだろうと、とんでもない額の財産を持っている老人が、余命を生命維持装置につながれて過ごすなかで思いついた命懸けの遊びであり、仕返しであり、ギャンブルなのです。

こう考えると老人の心理もちょっとはわかるし、若い女性に生まれ変わったことを積極的に楽しんだり、第二の人生や自由を謳歌する気持ちも理解できる気がするのですけどね。

そこをスルーしたまま、たとえ無意識だとしても、現代の倫理観や今どきの解釈や尺度でもってこの作品を読むと、古くさいとか長すぎるとか意味不明のエロ小説といった意見になるのだと思うのです。

ただ、長年ずっと気難しい軍曹タイプの老人として知られてきた人物が、いくら外側だけ若くて綺麗な女性になったからといって、そうそう女性として見たりできるものでしょうか?
と、わたしなら考えるのですが。

ビジネス関係や屋敷の人々など、老人に近しかったひとたちほどその傾向が強いはずで、違和感も半端ないのでは?
だとすると、なかなかおじいちゃんの希望どおりにはいかないんじゃないのかなぁ…とは思いましたけどね。

でもですよ?そもそもこれはお堅い純文学でも、感動がウリの純愛映画でもなんでもなく、今から50年も前に書かれたSFなわけですから。

わたしはハインラインが作品を発表していた時代のSF作品を他にもいろいろ読んでいるので、その時代の空気感や技術のレベルやその後の進歩、社会情勢、未来予想の限界なんかについてもそれなりに考えてみたことがあります。

結論をいうと、ハインライン(と、この時代のSF)を読むのは、シェイクスピアや源氏物語を読むのと少し似ているとわたしは思うのです。

読んだことがあれば知ってると思いますが、どちらの作品も現代の規範や常識からすれば内容には相当に問題があると見るひともいるでしょう。

それらがさして不道徳のどうのと問題にされない理由は、簡略版かマンガ版でもない限り、どちらもハインラインの作品よりずっと読みにくく、手を出しづらいからです。
加えて、素人が迂闊なことを言えば、肩書きを持つ専門家が出てきて難しい言葉で無知や偏見を指摘されたりする可能性もあるので、だからそこはスルーするというほうが多数派だからでは?

問題をもっと単純化すると、たとえば映像化されたシェイクスピア作品や源氏物語を観て、派手な羽根つきの帽子やタイツ姿の男性のゴテゴテした衣装や、御簾のうちでさらに扇で顔を隠した十二単衣の女性の姿に、いちいち文句や注文をつけるひとがいますか?

もしいるとしたら、それは牛車を見たことがないという理由で、「おじゃる丸」が牛がひく車に乗るのは変だと思う子供と同じレベルだと思います。
あるいは、テレビの昔の時代劇を観て、日本には今もサムライがいると思いこむ外国人みたいなものです。

ようするに、SF黄金期と呼ばれた時代に書かれた当時の作品を読むならば、読者の側もその時代に頭を切り換えて読むほうが、誤解や偏見を抜きに読めるのではないかと、わたしとしては言いたいのです。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?