映画そんなこんな
「鳥」1963年
かなり久しぶり、ン十年ぶりくらいでしょうか、所帯を持ってから初めて、配信でこちらを再視聴。
アルフレッド・ヒッチコック監督の代表的な映画と言えばこちら?と言われるくらい有名な映画ですが、最初から最後まで通して観たのは久しぶりでした。
今回改めて感心したのは、ひとコマひとコマへの構図と色彩とのこだわり、でしょうか。
特にボデガ・ベイ(ボーデーガ・ベイBodega Bay)の景色の美しさと不気味さだったかな。映画を見終えてから、実際にここに訪れてみたくなりましたよ、そしてあちこちでスケッチしたい。ヒッチコック監督に敬意を表し、かなり不気味な美しさを強調しそうですが(そこまで画力があるかどうかは別問題として)。
ここから何だかんだネタバレ入りますので、ご留意ください。
そしてストーリーを追っていて今回気づいた「モヤモヤ」なんですが。
まず、最初のペットショップのシーンから、実際に「ラブバード」を購入して気になる男・ミッチの週末の家(いわば実家)に押し掛けていったメラニーが、いかに自由奔放でやりたい放題か、という点でしょうか。
金がある、コネがある、ヒマがある、美貌がある、情報収集力ある、しかも運転技術(ボート含め)ある、そんな若い女性は今までさぞかしやりたい放題で世を渡ってきたのだろうな……そんなシーンが続いて彼女は単身、気になる男の元に殴り込み?をかけるのです。
いくら何でもやり過ぎなんじゃないか? しかもひとりきりで毛皮の上着、ヒールの靴のままボートを操り対岸の彼の家へ……
それでも、ハラハラさせながらも彼のハートをつかむ一歩手前まで、行くのです。
そこに最初のカモメ襲撃。
ここからもちろん、衝撃的な展開が続き、ついに彼らがそこから逃げ出して行く衝撃的なラストシーンへと続くのですが、ここでもモヤモヤがまたひとつ。
ラスト近くからのメラニーの表情に、全く生気がない点。
もちろん、鳥の襲撃、しかも生死ギリギリの襲撃に遭っているので当然でしょ? と言われればそれまでなんですが。
それでも愛する(であろう)ミッチと彼の家族と抱き合って、その場を去るのですが……最初、高いヒールでサンフランシスコの街を闊歩していた、瞳にはいつも挑戦的な光を宿していた彼女が、それでいいのだろうか、と。
メラニーは結局、何を得たのか? はたまた何を喪ったのか?
結論から言うと、これは彼女の「独立への挑戦と敗北」なのでは? と本当に今更、感じたのでした。
つまり、「愛と独立とが共存できなかった」女性の一部始終、というのか。
最初のカモメ襲撃に戻ります。
不意打ちを食らって、額を血に染めたメラニーをいたわるように抱えて、近くの店に入るミッチ。
「弱った女が好き」という男の表情をここでちらりと垣間見て、そこであれ? と違和感が生じました。
彼はペットショップで出あった(あまり好みではない派手な)女がわざわざ実家を訪ねて来たのに、非常なる興味を抱きます。それはすでに、ショップで彼女の姿を見て軽く会話を交わした時に芽生えた「一目ぼれ」と言えばそれまでかと。
しかし彼は、彼女のことをならず者扱いしていた節もあります。
有名な新聞社の娘というのも知り、ローマでのゴシップ(全裸で泉に飛び込んだの)も承知です。
彼が彼女に本当に惹かれた瞬間は、実はカモメに襲撃されて「弱った」彼女を腕に抱えた瞬間なのでは? とも思えたのです。
その後、招いたパーティなどで、彼女が実は「放埓」な女性というわけではなく、父親の新聞社のライバル社から炎上目的でゴシップ扱いされていたという話を知り、さらに彼女が自身のすすむ道に迷いながら今を生きている様子を聞いて、ますます距離を詰めていきます(順番あやふやですが)。
彼は地に足のついたメラニー自身を少しずつ認め、もしかしたら家族になれるかも……と期待するのです。
そこに立ちふさがるのが、母親の存在です。
もともとクールなメラニーは、特に媚を売って母親に近づくということはありません(妹のことは、ひとりの子どもとして愛おしく思うようですが)。
ミッチという男は弁護士です。一応の社会的地位が確立しています。サンフランシスコ在住で、週末には「必ず」母と妹の住むボデガ・ベイに帰るのです。
えっ? とようやく気付きました。都会で独立していながら、週末に100キロ離れた実家に母と年の離れた妹が心配で帰る男は、そこまでヘンではありません。
しかし、この物語上では、そこが背景としてかなり、大きな影を落としている気がしました。
夫が死んでからは自分の母がどことなく情緒不安定ということもあるでしょう(認知症を疑うようなセリフもありました)、まだ学校に通う妹も心配でしょう、そんな中、彼には母と妹の「家族」がいちばん大切なものなのだろう、と所作の端々に感じます。
そこに、「確かな伴侶」の必要性は多かれ少なかれ感じていたのでは?
メラニーはまさに好みのタイプ、しかも放埓ではなく、案外献身的に家庭に尽くすタイプだと知ればさらに、好感度は増すかと。
ここで、元カノのアニーが答えを解くカギとなりそうです。
彼女はもともとミッチと付き合っていたものの、今は別れ、「独立」して、しかしボデガ・ベイの小学校で「ヒマな時間がたっぷりな」教師をしています。
彼女ははっきりと、「彼の母と合わなかった」と言っています。つまり、嫁候補脱落者です。
彼女は最終的に鳥に殺されてしまいます。
鳥に襲撃されても、殺された者は多数というわけではありません。
鳥は種別構わず大群となって、気が向いた時に人を襲うようです。
実際、ミッチたちが車で逃げる時には、大群はいたものの、襲撃はありませんでした。
では誰が殺されて、誰が残れるのか?
アニーは殺されたのに、もっと奔放な感じのメラニーはどうして助かったのか?
少し前のシーンで、店に避難している人々からメラニーが責められるシーンがありました。
「お前が来てからだ、鳥がこんなふうに人間を襲うのは」
みたいな。
言いがかりだよねー、と見ている方も思ったのですが、このシーンで、実は「鳥に襲撃される」というのは「出る杭は打たれる」ことと同義なのかも、と思った次第です。
鳥の襲撃というのはそのまま、「守りに入る人々の価値観の押し付け」で、ミッチと彼の家族に徐々により添っていけたメラニーは、ギリギリ助かって(自力ではなく、彼らのおかげで)、彼ら家族に受け入れられたのでは、と感じたのです。それも、細かく鳥の襲撃を受けたショックから気づかぬうちに家族の一員となってしまって。
ラスト、車で逃げるシーンは、それゆえに「逃げた」と言うよりも「愛の鳥」としてかごの中に避難した、小さな鳥というイメージを悲しいヒロインに重ねてしまったのでした。
初めてこの映画を見た時にスッキリしなかった、もしくは見流していた人間模様が、少しだけクリアになった気がした視聴でした。