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本当の幸福感のために
・人と比較することの功罪
人と比較することの不毛さについて、よく書いています。
比較する対象についてはいろんなものがあります。たとえば車、恋人(結婚相手)、スキル、お金・・・。
いい車に乗っているな、恋人(夫・妻、子供)がいてわかり合える人がいていいな。スキルが高くてできないことがすんなりとできていいな、お金がたくさんあって、買いたいときに買いたいものが自由に買える。うらやましいな、など・・・。
比較することで向上する。「これでいい」と思ったら進歩がない。そういう意見もあると思います。
しかし「比較すること」に、よくない面、たくさんあるのです。
いつも自分に満足できず、欲望ばかりが加速していって、満たされるということを知らない。そして「(欲求の対象となっているものを)もっていない自分は“ダメ”なんだ」と、自己否定の心が強くなる・・・。そういう点があります。
仏教では、満足を知らない欲望の心を貪欲(とんよく)と言われて、108あると言われている煩悩の一つに数えられます。「貪欲、瞋恚、愚痴」は特に人間を苦しめるものであるとして三毒ともいわれます。その一つなのですね。
人間をダメにする、猛毒を持った煩悩だと教えられています。底なしに深いと言うことで、海のように深い“青”に表象され、青鬼や青い毒龍に喩えられることもあります。
比較することについて、そういう悪い点を指摘しているものが少ない。そしてどこが悪いのか、なぜ悪いのか。どうしたら克服できるのか。そういうことを論じているものがほとんどない。
これは本当にもったいないことだと思います。
・いつも他人に羨望の気持ちをもつことで、何をやっても満たされなくなる
たとえば、比較対象としてYouTubeの再生回数、あるいはpixivやXのいいねやブクマ、RPの数をあげてみましょう。
そういうものが多い人に憧れて、その業界、たとえば絵の世界に入っていく。そして常に向上心を持って、絶えることなく努力していく・・・、。それはいい点ですね。
ところが、15年やってもぜんぜんたどり着けない。嫉妬心(怨恨、ルサンチマン)ばかりが募ってくる。
そういうときは向かう方向を間違えていると思った方がいい。
どこかで、その憧れは、永遠にたどり着けない、蜃気楼のオアシスを目指しているのではないのか・・・。そういうふうに心の向きを変えていった方がいい。
「隣の芝は青く見える」で、いつも自分の足らないところを探して、自尊感情を自分で打ち砕いているからです。
自分にもいい点がある。自分の絵にも、よい点がある。そういう点をとらえて、そこを伸ばしてあげる・・・。その方向に舵を切った方がずっといいのですね。
絵の上手い人にたとえ追いつけたとしても、それより上の人は必ず現れます。そしてまた比較や劣等意識に苦しむことになる。そうやっていつまでも自己肯定できないまま、比較対象の世界にとらわれ、月日だけが過ぎていき、満足ということを知らないまま、死んでいく。
目の付け所が間違っているのです。
人気のある人を比較の対象にしてみたって、その人をたとえ超えたとしても、また再び、上にいる人は出てくる。お金を持っている人を比較対照してみても、その人より上に行ったとしても、上には上がいるのです。どこまでいっても相対比較の世界には、キリがない。際限がないのです。有限な命をもている私たちにとっては。
それよりは、自己自身を目標にしてみる。“自分軸”で生きてみるのです。
絵ならば、自分のスキルアップを比較対象にして、自分のできたところを伸ばしてあげる。
絵でお金を稼いでいる人は少数ですが、うらやましいと思ったとする。しかしその人が幸福そうに見えても、何か「病気」を抱えているかもしれない。両親が不仲で、親との間に強い葛藤を抱えているかもしれない。心に、人に言えない「寂しさ」を抱えているかもしれない。職場で、いつも嫌な人がいて、会いたくないなあと悩んでいるかもしれない。
絵で生活できているという一面だけをとらえているといいように思うかも知れませんが、よく言いますけど、「人生」は絵よりも大きい。お金が欲しいならば、絵で稼がなくても、ほかに道はあるのです。
その人の人生全体から見れば、あなたの方がよっぽどマシな人生を送っているかもしれない。本当のところは、幸福感は、その人に聞いてみないと分からない・・・。その人が幸福かどうかは、当人の幸福感に寄るので、主観的なもの。絶対的な基準はないのです。そういう面を“比較”していても、比較しているつもりになっていても、「自分の人生の方がよほどマシだった・・・」と思うこともあります。僕はそうでした。
・比較相対の世界から離れ、自信・自己肯定感を育む
比較することの一番の功罪の“罪”は何かというと、自分で自分のことを「ダメな人」と自己否定してしまう傾向が強くなることです。
お金をどれだけ持っているかを競うようにして生きている人もいますが、どこまでいっても相対比較の世界で、キリがない。上には上がいるから。達成して、その人に勝てたとしても、また上が出てくるし、つまるところそのために、人気やお金・車をてにいれるために犠牲にするもの、代償を支払う必要性に迫られて、人生がそのために費やされていくからです。
そうじゃない。
視線を内側に向けて、自己肯定感や自信を育む方にシフトチェンジするのです。そうすると、いかに自分が外にばかり目が向いて、不毛な焦りや緊張感、不満を抱えていたかが分かります。幸福って、自分の満足感・達成感が大事なんです。そしてそれは“自分が”感じるものです。他人ではない。
ここが重要です。
僕だったら、いまは自分の目標をもって、自分だけのゴールを達成するために動いています。自分の課題は何か、自己否定して、自分の自信を自分で粉々にしていないか。そういうことをチェックしています。
自尊心が低かったり、自己否定が強いと何がいけないかというと、自我(自己イメージ=「自分の思っている自分」像)に従って、私たちは動いているからです。自分には何の価値もない・・・。あるいは「自分は幸福になってはいけない」・・・。そういう風に思っていると、本当にそういう風に生きていきます。あらゆる行動がそれを立証するように動く、つまり自分を幸福でない方に、本当はもっと幸福感を感じたいのに、そうでない低い自尊感情の通りに、自分を導こう・・・。そういう風に生きてしまうのですね、人間って。
自分で自己否定ばっかりして、自分の本音を潰すようなことをしていると、自分が自分の主であることをやめて、自然と他人の言うことばかりに振り回される生き方になります。他律的な生き方ですね。人の言いなりになって、でも本音は別のところにあるから、いつも自分の本心とは違うことをしている・・・。その不満や自己疎外感が、心の内側に、あるいは無意識に、溜まっていきます。
そうじゃない。
自分の自己否定をやめて、自分に自信を持って生きるのです。僕はいつも、目は外に向きながら、「自分に“自信”を持ちたい」と強く思って生きてきました。
どうすれば自分に自信がつくのか。
僕にとって昔から、これほど知りたいことはありませんでした。
今なら、こう言います。人と比較するのをやめることです。
あの人より自分は下だ・・・、そういって自分を否定することをやめることです。
自分ほど大事なものはない、それは夢を叶えるのも、今日一日心地よく過ごすのも、すべて自分いかんによって決まるからです。自分が自分の人生の操縦主になって、うまく自分をコントロール(セルフコントロール)して、成し遂げたい目標を一つ一つ達成していく。そうしてこそ充実した人生が送れるのではありませんか。
自分の本音を言えないまま、その本音を握りつぶすようにして生きていることほど、みじめな事ってあるでしょうか。自分が自分に対しエネミー、敵対関係、敵になっているのです。そういうちぐはぐな状態で、どうやってたくましく、世の中の向かい風に向かっていけばいいでしょうか。
「まず自分自身の問題を解決しなよ、自分を好きになりなよ、自分と和解しなよ」。
そう言われるのです。
釈迦の言葉を参照してみましょう。
「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」
「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
聡明でない愚人どもは、自分に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。
・言語の花たばを贈る
自分に対して敵対関係に入っていては、目標達成なんてできません。まずは自己を尊び、自尊心を高め、自己肯定感を育むことです。目を内側に向けるのですね。
そうすると明確に、自分の欲求がどこに向いているか、自分のやりたいことは何か、自分は成長できているか・・・。そのような系に問題が集約されてきます。そして自己否定せず、自分は昨日よりも成長したかどうか、そのことだけに目がいくようになります。
すると絵ならば、描けなかった構図が描けるようになる、売り上げはたいしたことなくても、確実にスキルは向上している・・・。そのことに目がいくようになります。「あの人と比較して自分は・・・」ではなく、自分と比較して、成長をかみしめていくように目を向ける方向を転換する。すると自己肯定感はあがるし、一歩一歩自分の成長をかみしめながら進んでいくことができるようになります。
自分がそうでした。
目を内側に向けてからは、幸福感が大変高くなり、自己肯定感があがり、自己否定の心が減って、自分と敵対関係(自己のエネミー化)に入ることが減り、自分の人生を自分で生きている(良好な自己コントロールができている)気がします。
自信は、どこまでも自分の内側にある。なぜなら、文字通り、自分で自分を信じることを“自信”というのだから・・・。自分と敵対関係に入らず、高すぎる理想に見切りをつけること。人と比較し、比べる(これも、外側に投影された心の影=理想と言える)ことを捨てる。自信のなさは、たいてい、理想の高さに関係しているのです。
高すぎる理想は、蜃気楼のオアシスに向かって歩いているのと同じもの。どれだけ歩いても、その方向には何もないし、絶対にたどり着けません。そのことがよく腑に落ちると、無駄な努力、間違った“しきたり”にこだわる心から離れることができます。そして、等身大のありのままの自分を、大事にする。その方向に向けてきびすを返し、歩く方向を変える。
そうすることで、自己肯定感は着実に高くなり、自己否定の心は減り、自分と良好な関係を築くことができるようになります。
幸福感が爆上がりするのですね。
手応えを感じることができると思います。ああ、この方向だ、他人と比較じゃない、自分の成長をかみしめて、自分が本当にやりたいことは何か。それを大切に抱き締めて、暖めて、それが叶うように生きることなのだ!と。
自分の主は、人生の主人公は自分です。他人との比較をやめ、自己肯定感を高めようとして生きるとき、本当の意味の自信が手に入ると思います。そうなったとき、すでにあなたは、「人と比較すること」なんかどうでもいい。なぜなら自分は自分の心から歩きたい道を歩けているのだから・・・。そういう高いレベルの自己に気づくと思います(こういうのをハイヤーセルフといったりするのかもしれません)。
それが今感じている心の状態です。そのことを知るとき、比較するなんて言うのは、低いレベルの自我状態にいることに気づかされますね。
確かに比較することで成長できる面もありますが、本物の自信は自己肯定感を育み、間違った理想に従うことをきっぱりと拒絶し、成長を確かめ、それを寿ぐことによって達成できることを知っていただきたいなと思います。
比較をやめること、そして自分自身を掘り進んでいく、自己肯定感を高める方向に踏み出すことで手に入るものは少なくないのではないかと思います。
同じことで悩んでいる人に届いてもらえばと思い、この言葉の花たばを
贈らせていただきたいと思います。
※もちろん自己肯定感を大事にすると言っても、常識的に考えて、人を傷つけていい、法律に触れることをしてもいいんだということを進めているわけはありませんので、そこは明記しておきます。