未開社会における神に対する考えや感じ方【神の話を聞く、神の目的を実現する】
話を神に聞いてもらう
儒教系統の思考規範 もしある社会が未開であるならば、民が神の話を聞くのではなく、神が民の話を聞く。
社員が社長の話(命令)を聞くのでなく、社長が社員の話(命令)を聞く。上記の話は大和民族に典型的である。
大和民族は神が民や信者の話を聞くのであり、民が神の話を聞くものでないと本当に信じ切っている。しかし、文明社会では、それは逆であり、民が神の話を聞く。
実際、ユダヤ教徒がヤハウェに話を聞いてもらおうとはしていないだろう。ユダヤ教徒は神の言葉を宗教書から読み解いている。そして、それが文明的な姿である。
大和民族に社会を作らせると、神の話を一切聞かない民が生じてくる。そして、彼らはそれが当然であると感じている。普通に考えると、神の話を聞かない信者は信者でない。
願いを叶えてくれる何か
儒教系統の思考規範 もしある社会が未開であるならば、民が神を自分の願いを叶えてくれる何かとみなす。
そのとき、民は何の義務を負わない。この種の民は事情を訴えて、神に縋りつく。民は何の義務も追わないが、都合よく願うと、神が彼らの願いを勝手に叶えてくれる。
例えると、この考えは七夕に似ている。願えば、誰かが自分の願いを勝手に叶えてくれる。この「願う」は大和民族の学者にも言える。彼らは国家や政府、文部科学省に願う。怒鳴りながら。
アブラハムの宗教では、信仰者は神の意志や目的をこの世界に実現しようとする。すくなくとも、彼らはヤハウェやアッラーを願いを叶えてくれる何かとは認識していないだろう。
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