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ああいうやべえ人がいるんだから、誰だって生きていていいんですよ、で我々は止まることができない
太宰治の「ヴィヨンの妻」に大谷さんというロクデナシが出てくる。
ホラふきの酔っぱらいで、借金ばかりこさえている。
*
その大谷さんが、行きつけの飲み屋の売上金をひったくる。
お店の人の眼の前でやったのである。
大谷さんはあろうことか自宅に逃げ帰る。
自宅には内縁の妻と病気の子供がいる。
もちろん、お店の人は家まで追いかけてくる。
自宅の玄関で押し問答が始まる。
お店の人と大谷さんの押し問答を、奥さんはただ見ているしかない。
大谷さんはナイフを振り回しながら何処かに逃げる。
取り残されたお店の人を、大谷さんの奥さんは「自分がなんとかするから」となだめて、一日だけ待ってもらう。
*
結局、大谷さんの知り合いがお金を建て替えてくれる。
知り合いというのはバーのマダムであり、彼女ともまた、大谷さんはねんごろにしているらしいのだ。
後日、なんで盗みをしたのかというのを、大谷さんが自分の奥さんに説明する。
僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。
迷惑である。
さっちゃん(奥さん)と坊やはいいお正月を過ごせていない。
五千円は大谷さんがバーの女の子にばらまいてしまったのだ。
持って出たというのもなにやら言い訳めいている。
盗んだといえばいい。
そもそも、盗んだ金で贅沢をさせてもらって、嬉しい人間がいるのだろうか。
また、最終的な解決はさておき、この盗みの尻拭いを奥さんにやらせている。
人に作らせた飯を前にして、当人に召し上がれというようなアホさを感じる。
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「人に作らせた飯を前にして、当人に召し上がれと言っちゃう」タイプの人間は多い。
多かれ少なかれ、中年以降は皆こんな感じになる。
自分もそうである。
30過ぎてから短期記憶力が失せ、瞬発力でしか行動できなくなった。
行動も発言も支離滅裂となる。
自分の周りもそうである。
毎日、我々は矛盾と不義理と朝令暮改を吐き出して生きている。
宿業といわざるをえない。
オヤジギャグの類は瞬発力でなんとかなるので、年を取った人間と相性がいいのである。
我々はさえずっているカナリヤのようなものである。
言葉の内容そっちのけで、音声自体になんらかの直感的価値(面白さとか、美しさとか)を認めて、日夜大量の音声を製造し続けている。
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ヴィヨンの妻は、さっきの大谷さんの話を受けた奥さんの台詞で終わる。
私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
と言いました。
生きてりゃいい。
その人の価値は問題ではない。
全くそのとおりである。
それはさておき、大谷さんの倒錯に太宰は気づいていない。
だからこそ、「盗んだお金は君のためだったんだよ」という大谷さんの妄言を、奥さんに素直に受け止めさせたわけだ。
本来なら、うれしくないなどと考えている場合ではない。
ツッコミどころが多すぎる。
このへんの無自覚性を無邪気と感じるか、身勝手と感じるかで、太宰の評価が分かれるのかもしれない。
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