再審査請求しました。『趣旨と理由』
6月に、娘の障害基礎年金2級の決定を不服として審査請求をいたしました。
10月に送られてきた決定書は、残念ながら棄却と。
ところがこの決定書が、なんともずさんな決定書で…
ここまでの経緯はこちらから
今回の不服申し立てで、行政不服審査法だけ、ずいぶん詳しくなりました。
妻から指摘で本人の現状を大幅に加筆、また、下書きはかなり怒りに満ちていたので、冷静に修正して、再審査請求を発送しました。
再審査請求の『趣旨と理由』掲載します。
結果はまた、報告させていただきますね。
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再審査請求の趣旨及び理由
【基本的な趣旨及び理由】
基本的な趣旨及び理由は、審査官に対して行った審査請求と同じです。
【審査過程での欠落、若しくは不作為】
H審査官より送られてきた決定書の棄却理由には、当方が審査請求時にて指摘した原処分にみられる2つの瑕疵につき、是非の判断はもとより一言の言及もなく、無視された形になっており、審査がなされていませんでした。(審査請求、決定書、添付資料を参照ください)
【弁明書不提出、若しくは未発送】
決定書にも、処分庁による、当方の審査請求に対する見解・反対意見等が掲載されていませんでしたので、再審査の際に必ず、処分庁による意見等の有無をご確認ください。
【行政不服審査法 第48条に抵触の可能性】
決定書では、原処分で年金機構T氏により確認いただいた認定理由とは異なる、H審査官自身が考えたとみられる新たな認定理由をもって2級であるとの判断がなされていました。
【決定書での判断理由における瑕疵】
決定書には、1級相当から2級程度へ導く要素として、新たな項目が記されていますが、その障害等級の妥当性について検討された部分には『理由』があるとみとめられませんでした。(決定書、添付資料を参照ください)
【新たな趣旨及び理由の追加】
再審査の過程で、決定書でH審査官が描いたように、障害者福祉についてH氏と同程度の見識の方が居られた場合、その方が同じような過失を起こさないとも限らないのではないか?と危惧いたしております。
また、その過失は原処分の瑕疵とも共通する特徴がみられます。
上記の危惧を防止するための趣旨も踏まえ、新たな資料として
『決定書において障害等級の妥当性について検討された部分の不具合とその理由』(別紙)
を、添付させていただきます。
【お願い】
再審査請求に関わる皆様におかれましては
添付資料は必ずお読みください。当然ですが、原処分に対する審査請求もお読みください。
当方の審査請求の趣旨をしっかり理解してください。
そして、当初から『棄却ありき』ではない再審査と、まともな『理由』のある裁決を願います。
再審査請求 資料
『決定書において障害等級の妥当性について検討された部分の不具合とその理由』
H審査官は、障害等級の妥当性について検討するとして(決定書P20~)
検討総合評価の際に考慮すべき例には、「在宅で家族や訪問介護から常時個別の援助を受けている場合、就労系障害福祉サービスによる就労について」は1級または2級の可能性を検討するとされている…
と記しています。
一方で、保険者の主張の要旨(決定書P2~3)では
入院することなく在宅で過ごせており、作業所への通所を継続している
ことを理由として、1級の程度には該当しないと主張している
内容を記しています。
そして、当方の申請請求の趣旨を要約すると、
「在宅で過ごしていること」、及び「作業所への通所していること」を理由として1級相当の障害の程度を2級にするのは、審査基準及びガイドラインに反しており、受け入れられるものではない。
という主張です。
もし、H審査官が当方の主張の趣旨をまともに理解していたのなら、H氏自らが 「1級または2級の可能性を検討するとされている」と記したこの時点で、『可能性を検討する』こともせずに、在宅、通所だけで1級の程度には該当しないと即判している保険者の主張の不合理に、容易に気付けるはずなのです。
申請者の主張を掌握せずに審査をする重大な過失は、H審査官が元々審査官としての適性を大きく欠いているか、単なる手抜きか、最初から「棄却ありき」で、審査に臨んだ結果なのでしょう。
決定書では、当方の主張の趣旨に触れず、H審査官が考えた結果が「2級なので棄却する」という内容だけに留まり、そのH氏の個人的見解にも、障害程度1級相当を2級程度と判断できる妥当な『理由』は一片も見当たりませんでした。
以下、H審査官が新たに付け加えた「これらの総合的な判断」の中で、
「発達障害があり社会性やコミュニケーション能力が欠如しており、かつ、著しく不適応な行動が認められるため、日常生活へ適応が困難で常時援助を必要とするもの」に相当すると判断することは困難である」
とした「総合的な判断」を形成する「これら」の項目について、『理由』がない理由を記させていただきます。
① 作業所までバスや電車を乗り継いで通所すること自体は可能
「作業所までバスや電車を乗り継いで通所すること自体は可能」との表現は、あたかもサラリーマンが当たり前にドアツードアで出勤しているイメージと重なります。
H審査官は彼の「総合的な判断」で、バスや電車の利用を「著しく不適応な行動が認められる程度とは言い難く」の筆頭に掲げられているくらいです、おそらくH氏は独力で通うサラリーマンの姿でも想起していたのではないでしょうか。
上記のような支援形態での移動は、他の障害者の方にとっても稀有でなく、『障害』について知識をお持ちの方なら「障害程度1級相当の障害者が、バスや電車を乗り継いで通所している」事実が、サラリーマンのドアツードアの通勤とは非なるものと容易に想像なさるでしょう。
「作業所までバスや電車を乗り継いで通所すること自体は可能」との表現とは、かけ離れた現実があります。
移動での支援形態は個々様々であり、その程度を判断するにあたっては、支援形態も個々に考慮すべき案件であるのに、H審査官の決定書には、支援について考慮した形跡は微塵もみられず、「バスや電車を乗り継いで通所すること自体は可能」と、いきなり『「社会性やコミュニケーション能力が欠如しており、かつ、著しく不適応な行動が認められるため、日常生活へ適応が困難で常時援助を必要とするもの」に相当すると判断することは困難である』と、『これらの総合的判断』の項目に掲げていらっしゃいます。
H審査官は、審査過程において支援形態を『考慮する』大事な作業を、端折ってしまっています。
例えば、障害者で「雨の中で傘をさして歩くことができる」方への支援を『考慮』する場合、
・自分でさすことができるのか?
・閉じることは?
・ジャンプなら独力で広げられるのか?
・折り畳みは?
・屋根のある所で閉じることを理解しているか?
・何のために傘をさしているか理解しているか?…
☆それぞれに、どのような支援が、かかわっているか?
支援形態の『考慮』が無ければ、日常生活能力の妥当性の検討はできません。
「雨の中で傘をさして歩くことができる」状況だけで、『理由』とはならないのです。
また、バスや電車を乗り継いで通所していたのは、申請の1年以上前です。
申請日時点では、
『バス・電車で大声を上げたり、マスクを外してくしゃみをしたりすることがあるため、父が送迎している』とH氏自身が記載しているので、H審理官は申請日時点では移動形態が変わっていることはご存じのはずです。
コロナ禍で、『バス・電車で大声を上げたり、マスクを外してくしゃみをしたり』は、 著しく不適応な行動とみられるようになり、社会的障壁は、より高く強固に障害者の前に立ちはだかっています。
申請日時点では、バスや電車を乗り継いで通所することが不可能となっています。
より「著しく不適応」になりました。
環境因子は変化しています。
残念ながらH審査官は、あまり『障害』についての理解を持たれていないようです。
また、H審査官は、違う意味でも不合理なミスを犯しています。
まず、仮の設定から。
申請日1年前が『荒れるから父が送迎している』状態で、申請日には『サラリーマンのような通所』ができたとします。
きっと、H審査官は喜び勇んで等級を軽く認定するでしょう。
一年以上前の、『荒れるから父が送迎している』状況は無視するに違いありません。
そしてもし、これが逆のケースであった場合では、1年以上前『サラリーマンのような通所』は無視して、現在の『荒れるから父が送迎している』のみを判定しなければならないはずです。
H審査官が、彼の「これら」に取り上げた、『作業所までバスや電車を乗り継いで通所すること自体は可能である』ことは、『理由』が無いこともさることながら、申請日現在の状況を 示すものでなく、妥当性の判断材料に加えるには不合理な項目です。
この状況を判断材料として採用している時点でもうすでに、ルール違反を犯しています。
H審査官が棄却決定のために引っ張り出してきた1年以上前のネタは、重箱の隅を突くまでも至っていないのです。
② 視覚的な情報を理解して操作することは可能で、単純作業はできる
ガイドライン『総合評価の際に考慮すべき要素の例』の表、『就労状況』には、
〇援助や配慮が常態化した環境下では、安定した就労ができている場合でも、その援助や配慮がない場合に予想される状態を考慮する。
と記されています。
「著しく不適応な行動が認められる程度とは言い難く」なる『理由』は、援助や配慮がない場合に予想される状態を考慮しなければわかりません。
援助や配慮がない場合を予想するには、まず、どのような『支援』が行われているかを知らなければ、浮かび上がってこないのです。
H審査官は、『障害者支援』の内容、具体的な手法は、ほとんど掌握されていないのでしょう。
実際になされている支援には見向きもせず、支援がない場合に予想される状態を『考慮』もなく、「視覚的な情報を理解して操作することは可能で、単純作業はできる」だけでは、「日常生活へ適応が困難で、著しく不適応な行動が認められる程度とは言い難く」なる『理由』とは到底なりえません。
もしそこに程度の妥当性を検討できる何がしかの『理由』があったとしても、支援状況の『考慮』が施されない事には、程度の判断を導き、加減を裏付けるような『理由』は現れてこないのです。
H審査官は、『支援』という字を読むことはできそうですが、その内容については理解がない、より無知と言う方が適切かもしれません。
そして困ったことに、その無知を自身で覚知できずにいるようです。
③ 平易な文章の読字は可能
読字ができることが、日常生活適応の困難が認められる程度とは言い難いとする『理由』とするのは詭弁でしかありません。
むしろ、文字だけ読めてその文章の内容理解のないとき、又は、誤った情報に転換されているとき、度々、不適応でより困難な行動を招き、また対人的なコミュニケーションにも支障をきたします。
『支援』という文字が読めるからと言って、その意味内容を理解してもいないのに
「常時援助を必要とするものに相当すると判断することは困難である」
と、知ったかぶりして、迷惑を巻き散らかしている方が現実におられます。
文字が読めるだけでは、著しく不適応な行動を導くことも度々起こるのです。
ここに、日常生活能力の程度の妥当性を2級に導く『理由』はありません。
④ 3桁までの加算もできる
普段に障害者とかかわりがなく、『支援・合理的配慮』に無縁な人にありがちな『障害者への決めつけ』、自分だけの視野の狭い環境の中で、自分の物差しを障害者へも当てはめようとします。
3桁の足し算は、義務教育課程の小学校3年生で習得するよう設定されています。
この、3桁までの足し算ができることで『障害者への決めつけ』をする人たちは、おおよそ小学校3年生平均レベルの学力を有していると勘違いして「できるでしょ!」と断定してしまうのです。
サヴァン症候群(レインマン等)の例を出すまでもなく、学習能力の極端な偏りはASDの典型的な特徴でもあり、その偏りこそが『著しく不適応な行動』となります。
その極端なアンバランスさに関わる困難を、より重い程度と考慮するなら、妥当性を判断する『理由』が成り立つ場合もあるでしょう。
でも、3桁までの加算ができることのみに「日常生活への適応が困難な程度とは言い難い」とする『理由』は含まれておりません。
また、今もし3桁の加算計算問題を正解できたとしても、現在の日常生活に活かせる場面がありません。
H審査官は、『3桁までの加算もできる』と、他にも、3桁の足し算にまでは及ばない計算もこなすかのように「も」と表現されていました。これも根拠のない「決めつけ」です。
もちろん、知的障害者の中には、3桁の足し算ができ、合わせて小学校3年生平均レベルの学力を有している方もいます。そんな障害者がいてもおかしくありません。
ただ、もしそんな障害者がいても、その方の療育手帳はAとはならないでしょう。
学習能力は、すでに総合的な判定で日常生活能力の程度として反映されているのです。
そしてまた、ここでも、現在まで維持されているか確証のない過去の状況を判断材料として、取り上げておられます。明らかな、『決めつけ』です。
過去の1片だけを穿り出して、鬼の首でも取ったかのように調子に乗るのは、とんだお門違い、単に3桁の加算ができていただけです。
残念なことに、H審査官の『障害者福祉』への見識の乏しさがここでも炙り出されています。
⑤ 簡単な指示にも従える
ここにも『考慮』の欠如が見られます。
支援者による「指示が無ければ、独力では何もできない」場合は、当然に考えられます。
支援がない場合、著しく不適応な行動が起こるリスクは高く、考慮なく『簡単な指示にも従える』と唱えたところで、なんら「日常生活へ適応が困難で、著しく不適応な行動が認められる程度とは言い難く」なる『理由』とはならないのです。
⑥ これらを総合的に判断すると障害等級の目安は1級であるが、日常生活において身の回りのことはほとんどできず、常時個別の援助が必要な状態とまではいえず、また、突然の大声で歌を歌い始めたり、泣いたり、自分の頭などを叩くなどの不適応行動はあるものの、著しく不適応な行動が認められる程度とは言い難く…
日常生活能力の程度、及びその妥当性を推し量る上でもっとも重要なのは、物理的、社会的、態度的なものすべての環境因子による相関関係を『考慮』し、その妥当性の判断を導く『理由』を求めることにあります。
審査基準、ガイドラインには、執拗なほど『考慮する』という語句が並んでいます。
そして、ガイドラインの「考慮すべき例」には、その趣旨・目的に鑑み、困難な状態の見逃しを防ぐ内容が並べられています。むしろ、H審査官の判断とは逆方向の、『考慮』を促しているのです。
H審査官によって「これらの総合的な判断」に「これら」として列記された項目は、どれもこれも、「日常生活において身の回りのことはほとんどできず、常時個別の援助が必要な状態とまではいえず」「著しく不適応な行動が認められる程度とは言い難く」する『理由』を持てないガラクタのオンパレード。
材料をただ寄せ集めただけなのです。集めただけで『総合的な判断』をしたとはなりません。
H審査官の『総合的な判断』には、環境因子との相関関係を『考慮』する過程が全て抜け落ちています。
H審査官は、『突然の大声で歌を歌い始める』『泣くこと』が、バスや電車に乗ることを困難にしている状況はご承知のはずなのに、ましてや自傷行為まで何の『理由』も記さずに「常時個別の援助が必要な状態とまではいえず」「不適応な行動が認められる程度とは言い難い」と言い捨てる、独りよがりの「決めつけ」は、まさしく厚顔無恥、悪意のある「言いがかり」としか言いようがありません。
決定書において障害等級の妥当性について検討された部分には、『理由』が記されていないのです。
『理由』なしに取り上げられた項目でのH審理官の個人的な希望と感覚による判断は、彼によって作成された障害等級を2級相当とする審査の妥当性を明確に否定しています。
H審査官のお得意の手法は、自分に都合の悪いことは取り上げず無視して、無かったとすることのようです。
取り上げず、無視することが審査すること、と勘違いなさっているのでしょうか。
自分が理解できない事を取り上げず無視して、無事通過すれば、全て思い通りに行くとでも思っておられるかもしれません。
この姑息な手法で、審査請求者の趣旨までも無視する横暴さは、初めから『棄却ありき』にしなければならない、何かのっぴきならない理由の存在をも匂わせます。
H審査官が決定書で描いたのは、請求には耳を傾けず、乏しい見識の中から何とか2級となる要素をひねり出そうとする醜い様が彼の審査官としての不適格を無様に曝け出していることにも気づかず、哀れなことに自身の無知をも覚知できず、妄想、決めつけと知ったかぶりによる不具合を障害者という弱い立場の者に擦り付ける彼の、見るに堪えない『裸の王様』同然の姿なのです。
瑕疵を詰め込まれた決定書を送り付けられ、良識のない審査官に当たってしまった不運を嘆きはしても、泣き寝入りするわけにはいきません。
遺憾の意を表します。
H審査官の棄却決定に、『理由』があるとはみとめられません。
再審査を請求させていただきます。
再審査に関わる皆様には、くれぐれも『裸の王様』にならぬよう、お願い申し上げる所存でございます。
追記…この資料は、決定書の不具合を主張するものであって、内容の一部に審査官としての能力についても言及させていただいておりますが、決してH氏の人格の誹謗中傷を目的として記されたものではなく、あくまでも決定書の作成に関わる審査官としての姿勢、及びその不適性に対する 指摘でございます。
誤解なさいませんよう、よろしくお願い申しあげます。
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もし、棄却だったら…司法の方へ訴えたいとも思っていますが、訴訟費用、クラウドファンディングしたら集まるかしらん?