征服と植民地化で進む多様性③-黒人奴隷:奴隷ありきでつくられる社会-
大農園と銀山の開発でスペインとポルトガルはこの世の春を謳歌し、ヨーロッパはその恩恵を受けて豊かになっていきます。その一方でラテンアメリカの労働環境はひどく、労働力不足を補う切り札として奴隷貿易が加速していきます。
世界を変えた「Made inラテンアメリカ」
元々、航海者たちが狙っていたのは、インドの香辛料とジパングの黄金でした。新大陸はインドでもジパングでもありませんが、代わりに未知の食材が豊富にあることが分かります。
一例として。
ジャガイモ、トマト、トウモロコシ、サツマイモ、唐辛子、インゲン豆、カボチャなどは、すべて新大陸からヨーロッパにもたらされました。これらの食材を一切使わない食文化が、果たして今この世界にあるのか…。それぐらいの影響力を、新大陸は世界にもたらしました。
特にジャガイモは、戦争や気候変動で食糧不足に陥っていたヨーロッパを救うことになります。
“新たな楽園”イメージがヨーロッパ中へ
食物だけでなく、カカオ、タバコ、コカ、キナ(マラリアの特効薬の原料)、ゴムなどの嗜好品や医薬も、ヨーロッパにもたらされます。
そしてこれらの新たな植物や、新大陸で生きる動物たちは、現地で絵を描かれ、印刷技術によりヨーロッパ中にばら撒かれます。新大陸の動植物はヨーロッパの人々に“新たな素晴らしい楽園”というイメージをもたらし、安寧に暮らす人には夢物語を、一攫千金を狙うものにはロマンを提供します。
こうした“新たな”植物を大量に生産するための大農園が、スペイン人やクリオーリョ(ラテンアメリカ生まれのスペイン人)によって運営されていく一方で、ポルトガルの征服活動によりアフリカからコーヒーが、アジアからサトウキビなどがもたらされ、それを栽培する大農園もつくられていきます。
ラテンアメリカの銀と価格革命が、ヨーロッパを変えていく
さらに16世紀半ばから、メキシコのサカテカスやグアナフアト、ボリビアのポトシなどで大規模な銀山開発が進められます。ここで掘られた銀をスペインは銀貨として使い、ヨーロッパ中に大量の銀が出回るようになります。
この時期、ヨーロッパでは急激な人口増加に伴う供給不足で強烈なインフレが加速していきます。「価格革命」とよばれるものです。大量の銀の流入と価格革命によって、領主が没落し、王の権威が高まり絶対王政の下地がつくられ、財を蓄えていく市民が現れてくるなど、ヨーロッパ社会は構造の変革が始まっていきます。
ラテンアメリカ産業を支える奴隷
この大農園と銀山開発、特に大農園開発のために、ポルトガルが征服していた西アフリカなどから大量の奴隷が送り込まれます。なぜ奴隷が必要だったかというと、疫病や過酷な労働、逃亡などで、奴隷同然で働かせていた先住民が激減してしまったからです。また、インディアス新法が設立されたことで、建前上は奴隷として働かせることがはばかられた面もあったのかもしれません。
法律では最下層。だが実際にはもっと下がいた
当たり前ですが、奴隷というのは非人道的な立場です。当時の法律でも、最下層の身分に位置されています。しかし現場では、奴隷よりも本来は支配者層の次に身分が高いとされていた先住民の方が、より非人道的な扱いを受けていたようです。
理由はシンプルで、征服者にとって減ると困るのは奴隷の方だったからです。ではなぜ奴隷が減ると困るのかというと、人身売買はビジネスなので仕入れるのにお金がかかるからです。
現地で事実上強制的に駆り出すことができる先住民は、奴隷以上に過酷な労働に従事します。例えばポトシ銀山では、水銀を使って銀を抽出していたため、粉塵の吸引や水銀中毒など生命へのリスクが高い作業でしたが、この役割は「ミタ制」という先住民を1年交代で働かせる制度でまかないます。
当時からこの非人道的な労働体制には批判の声も上がっていたようですが、「スペインと植民地が発展するためには仕方がない」といった枕詞を使われてしまい、征服者も植民地の王もスペイン国王も誰も廃止に踏み切る者はいませんでした。
厳しい労働環境と広大な大陸が生む“余白いっぱい”の社会
もっとも、奴隷も労働環境は過酷です。それに、彼らが先住民よりはマシな扱いだったのは「購入したからすぐに死なせるのはもったいない」ぐらいの考えしかないので、やはりそこに人権はありません。ただし、当時の社会はこれが当たり前の考えで、インディアス新法制定に尽力したラス・カサスでさえ、先住民を奴隷的立場から解放する代わりとなる労働力として黒人奴隷を提案するくらい(後に彼はこの提案をひどく後悔したらしい)でした。
ラテンアメリカにやって来た彼らは大農園の従事作業などにあてられ、過酷な労働に耐えられず逃亡する者も多く発生します。その中で逃げ切った一部の奴隷たちが未開発地域に潜み、そこで集落をつくっていくことも起こります。前回、逃亡した先住民たちが集まる独自の共同体の存在がありましたが、奴隷側にもそういった共同体が各所に築かれていきます。
「フロンティアに奴隷」は、当時の世界の常識
こうした新天地や開発を進めているところの労働力として奴隷が使われていたのは、なにもラテンアメリカだけではないということです。
例えば日本。この頃の日本は室町-戦国-安土桃山-江戸という時代ですが、飽和状態の畿内に比べて東北地方はまだまだ開拓の余地が多くあり、安価な労働力や彼らに尽くす下人などを必要としていました。そのため、飢饉に苦しむ人々が家族や自らの身を売ったり、人さらいによる人身売買が行われたりしています。
当時の能や狂言では、こうした身売りに関する演目も多く、また東北の雄・伊達家の分国法でも特に下人に関する遺産相続について細かく規定がされています。そんな「あって当然」のものだったようです。
奴隷制度が築いたカリブ海のアイデンティティ
先住民社会が消滅して、支配者対奴隷の構図へ
ラテンアメリカの中でも最も早く発見され征服されたのが、カリブ海地域です。この地域では、コロンブスによる虐殺や疫病の蔓延、エンコミエンダ制時代の過酷な労働などにより、100年程度で先住民のほとんどが死亡もしくは逃亡でいなくなります。そのため、かなり早い段階から奴隷が送られて来て、黒人奴隷の人口が圧倒的多数派になります。
支配者が入れ替わるだけの“変わらない世界”
カリブ海地域は、16世紀後半にはヨーロッパ各国の争奪戦の舞台となります。新大陸各地で取れた金や銀などを積んでヨーロッパに運ぶ船を“海のならず者たち”が狙う、いわゆるカリブの海賊の時代です。
海賊たちの跋扈は、やがてスペインの弱体化を招き、この地域の覇権はイギリスやオランダへと移っていきます。彼らは、アフリカで部族間の対立を利用して奴隷となる人間を確保し、それを北米やカリブ海の植民地に送ります。奴隷たちは現地で大農園に従事させられ、収穫物はヨーロッパへと送られます。そしてアフリカには、イギリスから武器が供給されます。大西洋三角貿易と言われる制度を確立し、イギリスは莫大な富を得ていくことになります。
カリブ海地域はこうして先住民文化が消滅し、代わりにアフリカから黒人文化が流入していくことになります。
「ラテンアメリカ」という呼称は19世紀前半、スペインから独立していく際のアイデンティティとしてフランスとの親和性を意識したことからよばれるようになりますが、カリブ海地域の多くの人のアイデンティティはフランスとはまったく関係ありません。こういった背景を踏まえて、この地域は「アフロアメリカ」と呼ばれることもあります。
蓄積される怒りとアイデンティティ
さて、イギリスは莫大な富を得て、その富の蓄積はやがて市民革命や啓蒙主義を経て産業革命へと至るわけですが、当然ながらその富の原資であるラテンアメリカ現地の人の待遇は何一つ良くなっていきません。
こうした支配者だけ入れ替わって、現地の人たちには何一つ恩恵がないということが、この後ラテンアメリカ各地で何度も繰り返されていくことになります。ラテンアメリカ各国の独立のときも、アメリカの保護国化のときも、状況は変わりません。こうした繰り返しが、ラテンアメリカ地域に強い怒りの感情を蓄積させていくことになり、それは時に爆発して革命や反欧米思想を生み、今もその怒りはくすぶっています。
奴隷構造は、日本も関係者?
さて最後に。
このラテンアメリカの奴隷構造は、ヨーロッパ・アフリカ・ラテンアメリカだけで完結していた話ではありません。この構造がつくられた背景には、日本も関係していました。
もちろん、当時の日本は戦乱の極みでしたから、ラテンアメリカの植民地支配には何も関係ありません。ただ、植民地が安く大量に銀を掘りつづけなければならなかった理由のひとつに、日本の存在がありました。
日本の銀が、ポルトガルにアジア進出を加速させる
当時の日本はラテンアメリカに引けを取らない銀産出国でした。最盛期では世界の3分の1の銀を生み出したと言われています。そのほとんどは石見銀山で産出されていました。
世界史を習った人には当たり前の話ですが、日本は黄金の国ではなく銀の国として、当時のヨーロッパを湧かせます。
最も関心を持ったのはポルトガルです。ラテンアメリカの銀山はスペインが押さえていたので、同じく海外進出を主軸とした国家運営をしていたポルトガルは、銀の保有に関してライバルのスペインに遅れを取っていました。
ポルトガルは日本も含むアジア地域を、ローマ教皇から「支配していい地域」として認められています(トルデシリャス条約/サラゴサ条約)。そのため積極的にアジアに進出し、東南アジアに拠点を確保し、そこから日本とも貿易を始めていきます。南蛮貿易です。もちろん目的は銀の確保です。
ライバルがいる以上、現場待遇は優先させられない
これ、今でもよくあるやつですね。ビジネス上の脅威が現れた結果、生産力向上や価格の維持などに優先順位が設定され、結果的に現場の疲弊は黙殺される。スペインもこんな感じだったのかもしれません。
なんにせよ、日本の武将や商人たちが、派手な甲冑や鉄砲やカステラなどを銀で購入していることがヨーロッパに大量の銀をもたらし、ラテンアメリカの銀山と合わせて、銀の存在がますますヨーロッパ内でなくてはならない存在になっていくわけです。
こんな形で、日本の銀はヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。石見銀山が文化遺産になっているのは、日本史だけでは「他にもあるのでは?」と思うのですが、世界史も合わせて見ると「そりゃそうだな」と納得できるわけです。
ちなみに、ラテンアメリカの大銀山であるポトシ、サカテカス、グアナフアトも、それぞれ文化遺産になっています。銀という存在が、どれだけ世界を動かしていたかを感じられますが、同時に搾取構造を形成した遺産でもあるように感じられます。
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