不比等が生きた時代① -父の死と壬申の乱、ハードモードな前半生?-
白村江の戦いの敗戦、大化の改新メンバーの相次ぐ死、壬申の乱。ヤマト政権に大きな変化が訪れます。一方、不比等はこの動乱で朝廷の中枢への道が閉ざされたようにも思えましたが…?
外患は起こらず、国内の政治基盤確立が加速
白村江の戦いで敗れ、百済と高句麗は相次いで滅亡。大陸での影響力を失ったヤマト政権は、唐・新羅による日本侵攻を恐れ、各地に城や砦を築き、近江に都を遷します。
しかし、結果的に二国が本格的に日本へ侵攻することはありませんでした。百済と高句麗が消えた朝鮮では、新羅が朝鮮半島の統一への野心を抱き、恭順していた唐との対立を深めます。唐はその対策のほか、チベットとも戦いが続きます。加えて唐は、国内情勢も武照と重臣との間で緊張状態が続き、密告政治による粛清が乱発されるなど安定しません。
白村江の戦い後に遣唐使が3度派遣されていますが、669年を最後に30年以上もの間、遣唐使は途絶えます(ただし新羅との間には交流を持ち、大陸の情報自体はキャッチアップしていたようです)。そしてその間に、ヤマト政権は国内の政治体制の基盤構築に注力することになります。
天智天皇・中臣鎌足体制の終焉
中大兄皇子は668年にようやく天智天皇として即位します。即位後は行政の整備に力を入れ、冠位制度の改正や、最古の全国的な戸籍となる庚午年籍を作成。公地公民制度の実現に向けた枠組みを整備し、671年に崩御します。
その2年前、669年に盟友・中臣鎌足が死去します。彼は、中大兄皇子の盟友でもありましたが、対立していた孝徳天皇とも乙巳の変の前から交流があったようで、孝徳天皇の治世のときから勢力を伸ばします。中大兄皇子の称制開始以降も順調にキャリアを積み、また確執があった天智天皇と弟・大海人皇子の間も取り持っていたとされています。そのため、彼の死後から天智天皇と大海人皇子の関係は急速に悪化していき、後の壬申の乱へと至ることになります。
それ以上に彼の死で途方に暮れたのは、息子の不比等です。兄の定恵も665年に死去していたため、不比等は11歳にして兄と父を失い、渡来系の田辺氏に身を寄せることになります。いきなりの人生ハードモード状態ですが、この田辺氏は文章の読み書きに秀でた一族だったようで、ここで幼少期を過ごしたことが、後の彼のキャリアに大きな恩恵を与えることになります。
時代は天武天皇へ
ヤマト政権は、鎌足の死去と天智天皇の崩御により、大化の改新の中心メンバーが全員この世を去ります。後継者として息子の大友皇子(弘文天皇)による政権が樹立されましたが、政権運営はうまくいかず、壬申の乱を経て大海人皇子が勝利。大友皇子とその関係者は政権から排斥され、大海人皇子は天武天皇として即位します。
なぜ大友皇子の政権がうまくいかなかったかについては諸説ありますが、大体の説は彼の問題というよりは父親の天智天皇と大海人皇子との確執に根本原因があったとされています。例えば、孝徳天皇との対立とその息子の有馬皇子の排斥などにより、天智天皇は中臣鎌足を含む信頼できる少数の家臣を中心とした政権運営を行いますが、これが大海人皇子の不満を招いたというもの。額田王をめぐる争い(いわゆる痴情のもつれ)に端を発したというもの。白村江の戦い後の国防施策で負担増となった豪族の不満が溜まっていたというもの。
一方で、そもそも天智天皇と大海人皇子との確執とは関係なしに、政権内での外交政策をめぐる対立構造が原因とする説もあります。
この頃、唐と新羅との対立が激化し、671年には唐から使者が来日。翌年、ヤマト政権は唐に物資や武具を提供します。一方、同時期に新羅からも使者が来たようですが、大友皇子の対応は冷淡だったとされています。
唐と新羅とで対応を変えていることから、大友皇子は半島情勢に再び介入する意思があったと考察されています。唐に加担することで彼らが新羅を滅ぼした後の朝鮮半島に、何かしらの影響力を持とうとしたのではないか、ということです。しかし当時は、白村江の戦いの記憶も強く、唐・新羅関係においては中立を保ちたいと考える勢力も多くあったようで、彼らにとっては一方への加担は愚策に見えます。こうした勢力が大友皇子を排斥するために、大海人皇子を担ぎ上げたのではないかとも言われています。
飛鳥時代の政変は、外交政策の戦い?
思い返してみると、飛鳥時代に政局の変化が起きたときは、朝鮮半島をめぐるスタンスの対立が起こっています。
崇峻天皇vs蘇我馬子
国際情勢:隋の誕生/新羅による伽耶征服
新羅に奪われた伽耶の復興をしたい崇峻天皇vs隋を刺激せず中立を保ちたい蘇我馬子
蘇我蝦夷・入鹿vs中大兄皇子・中臣鎌足
国際情勢:唐・新羅vs高句麗・百済の対立が激化
唐・高句麗・新羅・百済のすべてに中立な蘇我蝦夷・入鹿vs百済派の中大兄皇子・中臣鎌足
大友皇子vs大海人皇子
国際情勢:唐と新羅の関係が悪化し、戦争状態へ
唐に肩入れする大友皇子vs唐・新羅の中立を保ちたい勢力が大海人皇子を擁立
この見方だと、勝者は中立派 → 一方に肩入れ派.→ 中立派 となっています。しかしこうした政局争いが展開される中でも「中央集権型の律令国家にしていく」という目標だけはブレることがありません。壬申の乱に勝利した大海人皇子も、即位後は律令国家の確立に向けた政策を打ち出していきます。
若き不比等に訪れる不遇の時
さて、この政局の変化は、不比等にも影響を及ぼします。彼の親戚筋である中臣氏は、壬申の乱では大友皇子側の中枢。田辺氏も大友皇子側でした。そのため、彼はその血筋や人間関係上、処罰を受ける可能性も考えられました。しかし、天武天皇は不比等を不問にします。13歳の彼は壬申の乱にはまったく関わっていなかったので当然といえば当然ですが、天武天皇自身が彼の父・鎌足への恩義があったからとも言われています。不運なのか幸運なのか、よく分からない巡り合わせです。
そんなわけで彼は処罰を免れましたが、中臣氏も田辺氏も天武天皇との距離は遠いため、彼の官僚としてのキャリアは下級官人からのスタートだったとされています。そもそも彼が引き継いだ藤原氏は、鎌足が死の直前に天智天皇からもらった新しい氏。新興勢力という扱いの上に「天智天皇の贈り物」とあっては、なかなか難しい部分があったと思われます。こうした経緯もあってか、彼は678年に蘇我氏の女性と結婚します。蘇我氏もまた中央政権から遠のいてはいたものの、やはり大臣の姓を持つ一族ということで権威は健在だったようで、“蘇我氏を受け継ぐもの”という肩書きを得たことで、藤原氏の権威は少し上昇することになります。
天武天皇の方針転換が、不比等の台頭を生む?
天武天皇の治世も、最初はうまくいかなかったようです。壬申の乱のときに天武天皇側として活躍した豪族は大伴氏・紀氏・村国氏といった勢力でしたが、乱後に彼らが政局の中枢に入った記録はありません。それどころか天武天皇は一人の大臣も置かず、自らがすべての政務を行うと同時に要職も皇族関係者で固めます。
天武天皇はこれまで以上の天皇家への権力集中を目指します。675年には、天智天皇のときに認められていた豪族の私有民・私兵である部曲(カキべ)や、皇族・臣下・寺院などに認められていた島・池・森などの土地を取り上げます。土地の支給も官位・官職に応じて支給する形に変更し、豪族の私的支配をなくす方向へと舵を切っていきます。
こうした政策は当然ながら豪族の反感を買い、天武天皇は675年から677年を中心に、数々の臣下に流罪などの処罰・粛清を行い、豪族を威嚇するような詔も何度も出します。壬申の乱によって、それまでヤマト政権の中枢にいた中臣氏・蘇我氏・巨勢氏なども排斥してしまっていたので豪族に睨みをきかせられるような側近もおらず、政情不安が続いていたようです。
流れが変わったのは679年。こうした不穏な状況を踏まえてなのか、あるいは単に子どもたちが成長してきたからなのか、天武天皇は皇后(後の持統天皇)と4人の子どもと共に吉野の盟約を結びます。6人は吉野に行幸し、そこで草壁皇子を後継者とすることと、兄弟同士助け合うこと(争わないこと)を約束させました。
この吉野の盟約では、あくまで後継者争いの憂いをなくすこと以外の内容はなかったようなのですが、この後から天武天皇は、中央集権を進めつつも豪族やこれまでの家柄などにも配慮をした政策を行うなど、バランスの取れた施策を行うようになります。また、権力集中を目指したことでやや滞っていた律令国家に向けた重要な政策も次々と打ち立てていきます。
この吉野の盟約が取り交わされた679年ごろから、不比等は皇后と草壁皇子に仕えはじめたとされています。彼は先に述べた通り、政権内に後ろ盾となる目ぼしい人物がいなかったため、舎人からのスタートになります。ただし、ここで田辺氏にいたことで得た読み書きの能力が評価されたようで、以降彼は律令・法律を中心とした文章が関わる政策を主に任されることになります。彼の特筆すべき功績として挙げられるのは大宝律令や日本書紀の編纂ですが、父を早くに失ったことで預けられた先で得た能力が、立身出世の切り札になるのだから、人生何をもって“不幸”と判断すべきなのかはまったく分からないものです…。
次回
律令制度の完成へ。
不比等の最初の大仕事。
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