物部氏が嫌がったのは仏教なのか?
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物部氏の成長の背景=渡来人の製鉄技術
百済から仏像が送られたとき、蘇我氏は大陸の最新の価値観として仏教を受容し、物部氏らは自国の神が怒るのではとして崇拝を拒否したと言われています。一方で物部氏が大きな力を持った背景は、百済や加耶からやってきた渡来人の製鉄・鍛治技術をほぼ独占的に抱え込むことに成功したことも含まれます。別に物部氏=外国嫌いというわけではなさそうです。
技術は歓迎するが、宗教や価値観は拒否する。なんだか戦国時代の南蛮貿易のようです。このメンタリティは日本人の伝統的特徴なのかも?
「自国の神」とは何なのか?
現在、物部氏は拠点に寺をつくっていたことが分かっており、物部氏=排仏派という図式自体に疑問が持たれています。根拠となっている資料の内容自体から疑うという考えもありますが、いったん「物部氏が反対したのは事実」という仮定で話を進めましょう…。
そもそも、物部氏が怒ると懸念した神とは誰なのでしょうか?この頃はまだ神道が確立されていないのでよく分からないのですが、例えば当時から祀られていた大神神社や沖ノ島は自然崇拝を基本としていたので、仏教のような人(の形をした存在)の崇拝や神的なものの擬人化(仏像)、あるいは現象への対処ではなく心の持ちようを説く考え方みたいなものは、おそらく当時としては新しい価値観・信仰だったのではないかと思われます。
ここらへんの価値観を物部氏が理解できなかったのだとしたら、まあ拒絶するのは無理もないように思います。大航海時代、ローマ・カトリックの教えが世界のすべてと信じていた宣教師がラテンアメリカで味わった衝撃と、その後の先住民への伝統的信仰への破壊工作などと対比させれば、その反応は人間の真理として当然なのかもしれません。
ローマ・カトリックの宣教師のように「未開」といった差別感情はなく、むしろ先進する大陸の最先端トレンドだということは分かっていたのでしょうが、自分たちにとっては異端であるとも思っている。だからこそ、受容直後に起こった疫病や災害をこの出来事と結びつけて非難した。まあ、理解はできます。共感できるかまでは人それぞれの価値観によると思いますが。
特権的地位が奪われるリスク?
一方でもっと現実的な話として。
当時の大陸(中国・朝鮮)の最新の価値観である仏教を朝廷として受容するということは、これまで各豪族が独自でつくっていた国際交流を、朝廷が一本化する流れを加速させることにもなります。物部氏の高い地位の背景にあった「製鉄専門技術の独占」という優位性を奪われるリスクを感じたからかも?といった邪推も浮かんだりします。根拠は知りませんが。
あるいは人の崇拝という価値観が流れこむことで、天皇とその外戚として急成長してきた蘇我氏が“格上”の存在として崇拝されることを嫌がったのかも?
いずれにせよ、物部氏が仏教受容を嫌がったのは、ただ仏教がどうこうということではなく、これまでの地位を失うリスクを感じていた可能性があるのかなと思います。
聖徳太子の祈祷=新武器だったら?という妄想
さて、この物部氏の朝廷内での優位性が失われたと仮定して。気になるのが、物部vs蘇我の最終決戦である丁未の乱の結末です。
戦局は物部氏有利に傾いていたものの、厩戸皇子(聖徳太子)が祈りを込めて放った矢を迹見赤檮が放ち、物部守屋を射落としたという話。あれ、実は物部氏が得られなかった最新の武器だったとしたら面白いなと妄想しています。物部氏の持つ武器では届くはずのない距離から射抜かれたとか。
それだったら、武勇で知られる物部守屋が「どうぞ射ってください」とばかりに木に登って応戦した挙句、本当に射抜かれて命を落とすなんてことするかな、という疑問が一気に解決するのですが。
もっとも、迹見赤檮は普通に守屋のいる大木の下に忍び寄って射落としたとも言われていますけど。
おまけ(①の続き)
そもそも奈良観光のときに、石上神宮には行かなかったのに春日大社には行った段階で、物部氏と「スピリチュアルな深い関係」はないだろうと悟りました。
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