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不比等が生まれる前の話④ -蘇我馬子の国家運営と未来への布石?-

隋の国力と朝鮮半島の緊張状態に直面したヤマト政権は、次第に中央集権型の国家運営へと進んでいきます。

冠位十二階の重要性

ヤマト朝廷は、早速最初の改革の一手として冠位十二階を設置します。
 
隋の皇帝から指摘された内容の一つとして、官僚制度や人材登用の脆弱性があったとされています。隋では律令の整備や中央・地方の行政機関の整備に加えて、科挙という制度を587年から開始しました。これは官僚を登用するための試験で、原則として家柄や身分で決まっていた官僚登用の仕組みを見直し、誰でも受験できる公平な試験を行い優れた個人を登用していくことを目指した制度で、当時としてはヨーロッパやオリエント含めて世界的にも革新的な取り組みでした。
 
冠位十二階制度は、この科挙制度ほどは斬新ではないものの、ヤマト政権にとっては革命的な政策になります。ヤマト政権の人材登用の基本は氏姓制度です。この場合、家柄である「氏」と役職である「姓」は一体であるため、政権内での役割は「氏」に与えられるものでした。そこに「冠位」という個人に授けられる称号が追加されます。これによって、家柄や身分以外での人材登用の道が開かれます。
 
現実的には、氏姓制度の序列が冠位授与にも強く反映されており、またその適用範囲も畿内の豪族中心だったようですが、例えば低い姓出身でありながら個人の功績で高い官位を授けられた高向玄理や鞍作止利のような「例外」を作ることができたという意味では、この制度の制定は非常に大きな転換点だと思います。

再びの遣隋使が、未来の国家体制の布石に

607年、ヤマト政権は再び遣隋使を送ります。かの有名な小野妹子を国使として「日出づる処の天子」から始まる国書を送って、時の隋の皇帝に怒られたやつです。
 
ただ、結果的にこの遣隋使派遣によって、ヤマト政権は多くの成果を手に入れます。小野妹子の帰国の際に、隋の特使である裴世清も一緒に来日し、これをヤマト政権は厚くもてなします。翌年、ヤマト政権は再び小野妹子らを国使として隋に派遣しますが(第3回)、このとき一緒に3人の学生と8人の学僧を留学させます。その中には、後に蘇我入鹿・中臣鎌足の師となる僧旻や、中大兄皇子・中臣鎌足の師であり大化の改新に大きな影響を与えた南淵請安、その大化の改新によって僧旻とともに国博士に任じられる高向玄理などが含まれ、彼らが学んだ知識や、隋から唐へと中国王朝が変わる瞬間を目の当たりにした経験などが、後のヤマト政権に大きく還元されていくことになります。
 
これらの政策は、かつては聖徳太子(厩戸皇子)による功績とされてきましたが、最近では蘇我馬子の影響が大きいもしくは馬子の功績という意見が大きくなっています。

東アジアの緊張に乗じて、外交政策も加速?

元々、蘇我氏は百済との関係性が深く、またこれまで書いてきたように若干の綱渡りがありつつも隋との関係性も構築します。隋は、この後618年には滅びますが、隋に代わって新王朝となった唐に対して、ヤマト政権は630年に遣唐使を派遣し、このとき僧旻が一緒に帰国します。
 
一方で、百済・加耶を通じて長らく敵対関係にあった高句麗・新羅ですが、隋の建国による緊張関係による影響なのか、この頃仏教を通じて交流が活発化していたようです。595年には高句麗の僧・慧慈が来日。彼は聖徳太子の師匠だの飛鳥寺の完成時に百済の僧と一緒に住んだだのとやや伝説的な記述が多いですが、615年の帰国までヤマト政権に関わってはいたようです。
 
また、第3回の遣隋使の際に同行した薬師恵日は、623年に新羅使(新羅からヤマトへの使い)と共に帰国しています。また、630年の遣唐使以降は、唐へ向かうルートが新羅経由になっており、新羅との交流も進んでいることが分かります。

こういった仏教・僧の交流による国際交流という成果は、物部氏を対決してまで勝ち取った仏教の受容が効いています。
 
つまり7世紀前半のヤマト政権は、多少の時期のずれなどはあるものの、隋・唐・高句麗・新羅・百済のすべての国と交流しているようです。これは、隋・唐の建国により、朝鮮半島の各国がヤマト朝廷との関係性を重視したという要因が大きいとは思いますが、いずれにせよバランスの良い外交政策を取れていたようです。
 
逆の見方をすると、これまで各豪族が独自のネットワークを駆使していた朝鮮との交流が、ヤマト政権に集約されているようにも見えます。中国大陸・朝鮮半島の人・技術・情報をヤマト政権が独占していくことで、ヤマト政権(特に大王・蘇我氏)の優位性が確立された時代と見ることもできます。

伝統社会の変革への不満?

ここまでの流れを整理すると…。

  • 大王の皇位継承争いによって、蘇我氏が物部氏に勝利して権勢を確保

  • 隋の建国に端を発した東アジア情勢の変化等から、中央集権国家への舵切り

  • 冠位十二階による人材登用制度の改革

  • 中国・朝鮮各国とのネットワーク構築 

といった政策を、蘇我馬子が政権を掌握してから次々と打ち立てていることが分かります。とても開明的で時代の変化に適応した合理的な政治に見えます。
 
ただ、これはあくまで、隋・唐という強大な統一国家の存在や、それに伴う朝鮮半島の目まぐるしい情勢変化といった情報に基づいています。その情報や危機感を共有していないヤマト政権の中枢にいない勢力にとっては、新興勢力である蘇我氏による独断的な政策にも見えます。
 

  • 大王の皇位継承争いによって、蘇我氏が物部氏に勝利して権勢を確保

    •  伝統的な勢力の物部氏を排斥して、独占的な地位を確保?

  • 隋の建国に端を発した東アジア情勢の変化等から、中央集権国家への舵切り

    •  大王を通じた蘇我氏による権力の独占?

  • 冠位十二階による人材登用制度の改革

    • これまで氏姓制度のもとに築かれた専門性や独自文化を破壊?

  • 中国・朝鮮各国とのネットワーク構築

    •  豪族たちの持っていた独自ネットワークの破壊&蘇我氏の独占?


事実として、蘇我氏に権力が集中していて、またこれほどに専制的な政治体制になったことは当時としては前例がなかったので、蘇我氏の政策は方々から恨まれている可能性があったことは確かだと思います。多少のパワーバランスはあったとしても、建前上は大王の臣下ということで同じ立場だった奴が、いきなり大王と手を組んで自分達を部下のように扱い出したら……ムカつくでしょうね。特に、その蘇我氏の行動で力を削がれた勢力や、皇位継承権が不利になったり蘇我氏との距離が遠く排斥される可能性があったりする皇族には、悪虐非道の独裁者に見えることだと思います。
 
この後、蘇我氏は特に馬子の子・孫である蝦夷・入鹿の時代になり、“専横”を極めたとされ、各方面から恨みを買い、ついには中大兄皇子と中臣鎌足(藤原不比等の父)を中心とした一派に暗殺されます。ただ、本当に彼らが“専横”を極めていたのか、それとも改革を断行していたのか。それについては、正直なところ分かりません。もちろん、歴史学・研究としては一定の回答があるものとは思いますが、起こったことと記録されていることと当事者たちが考えていたことは、一致しないのが世の常です。また、そもそもこの時期は蘇我氏が大王=蘇我王朝だったのではないか、という意見もあるため、いよいよ何が正しかったのかなど、分かりはしないのです。
 
ただ言えることは、蘇我氏が物部氏に勝利してから、乙巳の変で中大兄皇子や中臣鎌足に倒されるまでの約53年間、蘇我馬子―蝦夷―入鹿の3代に渡る数々の施策や政治的事件により、ヤマト政権は豪族が乱立する時代から大王を中心とした中央集権へと権力構造が大きく変わっていくことになります。そして、大化の改新もその後の天武天皇、持統天皇、そしてこの2天皇をはじめとした5天皇のもとで政局を動かした藤原不比等も、この変化した権力構造の上に政策を積み上げていき、律令国家としてのヤマト政権が確立されていくのです。

次回

大化改新、白村江の戦い。
そして藤原不比等が誕生


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