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征服と植民地化で進む多様性②-聖職者:ストイックな布教の背景と功罪?-

新大陸発見でにわかに活気づく大航海時代は、数多くの宣教師が世界中に布教活動を展開する時代でもありました。彼らがなぜ世界へ飛び出したのか。それにはいくつかの背景があるようで…。 

ストイックな入植聖職者たち

そもそも当時のスペイン人は、征服者も聖職者も信仰心の篤いカトリック信者なのは、以前に書いた通りです。そのためかなり早い段階から、聖職者は新たな地での布教活動を目的として、征服者に同行しています。
 
本格的に布教活動が始まるのは1520年代の後半あたりからで、初期の布教活動を牽引したのはドミニコ修道会やフランシスコ修道会、後に聖アウグスチノ修道会やイエズス会なども積極的に活動します。イエズス会を除く3修道会は「托鉢修道会」ともよばれ、教会や修道院の腐敗を厳しく批判することも辞さない、原理主義的でストイックな派閥です。
 
ドミニコ修道会は、ここでも記載しているように、本国では異端審問を牽引する修道会でもありました。
 
またイエズス会は、日本にもやってきたフランシスコ・ザビエルが所属していた修道会として有名です。彼らは1534年に7人の同志で立ち上げた修道会で、「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立て、世界中に布教活動をしていくことを目的とした、カトリック・ローマ教会への忠誠心が極めて高い修道会です。
 
こうした、心から人々を救いに導きたいと願う聖職者たちが、積極的に新大陸に向かっていきました。 

征服者の思惑:課せられた改宗ミッション

各地で征服を成功させていった征服者たちには、現地の支配者としてスペイン国王から認められるために、あるミッションをこなす必要がありました。
 
それがエンコミエンダ制という支配体制です。スペイン軍人でアルカンタラ騎士団に所属していたニコラス・デ・オバンドが、コロンブスが征服したイスパニョーラ島に統治者として赴く際、イザベル1世に提案して許可されたことから始まったとされています。
 
この制度では、征服者がその地の先住民の労働力を使用する権利を有する代わりに、先住民をキリスト教に改宗させる義務を征服者に課すものでした。
 
もともと信仰心が篤い征服者たちは、こうした制度も背景にあり、聖職者を積極的に同行・受け入れていきます。 

ヨーロッパ事情:吹き荒れる宗教改革

一方で以前触れたように、ローマ・カトリック教会では不協和音が生じはじめていましたが、遂に1517年、マルティン・ルターによる「95ヶ条の論題」という歴史的な事件が起こります。
 
ルターは当時聖アウグスチノ修道会に属していて、彼自身は別の宗派を立ち上げたいのではなく、あくまでカトリックを“あるべき姿”に戻したいための提言でしたが、これは現在のローマ・カトリック教会の体制を根本から揺るがしかねない内容でもありましたので、教会は受け入れることはできません。
 
問題はこの後で、これまで自身への非難は最終的に抑えつけることができていたローマ・カトリック教会ですが、ルターについては何度かの尋問も徒労に終わり、1521年に破門通告したもののザクセン選帝侯フリードリヒに彼を匿われてしまい、抑えつけに失敗します。

聖書が翻訳されることで起こる「宗教改革」

しかもまずいことに、ルターの主張は匿われている間に協力者と印刷技術によってヨーロッパ中にばら撒かれ続け、ルター自身も聖書をドイツ語に翻訳して、それが印刷されていきます。
 
これまでローマ・カトリック教会のスタンスとしては、聖書の翻訳は禁止。聖書を読むこと自体が聖職者に限られていました。彼らが“神の代弁者”という特権的な地位を持っていたのは、こういった背景があったのですが、ルターはドイツ語の読み書きをできる人(それも当時は限られていましたが)であれば誰でも聖書を読める環境をつくってしまいました。
 
これにより、ローマ・カトリック教会が「解釈」で補っていた部分への非難などが本格化して、宗教改革が加速していくことになります。 

布教モチベーションが異様に高まる聖職者

こうした聖職者の純粋な信仰心、征服者の思惑、ヨーロッパで荒れ狂う宗教改革などがある中で、ラテンアメリカの改宗活動が始まります。
 
中心となる托鉢修道会+イエズス会は、もともとヨーロッパでの修道会の姿に対して思うところがあった人々の集まりです。当然彼らは、このラテンアメリカに“あるべきカトリックの姿”を体現しようと試みていきます。そのため彼らの改宗活動へのモチベーションは極めて高く、よく言えば熱心、悪く言えば苛烈なものへと発展していくことになります。 

教会設立、異端審問、そして最後は妥協?

改宗のプロセスはざっくりいうと以下だったようです。
①    粘り強く布教活動を行い、村に教会の設立を設立する
②    教会設立後、既存宗教に関するものを破壊する
③    キリスト教に反する思想を、異端審問にかける 

あんまり噛み合わない神の解釈

実際のところ先住民は征服者たちに服従しているため、教会建設は概ね受け入れられていくことになります。
 
ただ当初、先住民はキリスト教の唯一神という概念をあまり理解していなく(それは現代日本も同様ですので、単純に宗教心や歴史の積み重ねの問題です)、ざっくりいうと「新たな神が現れた」ぐらいの感覚だったようです。
 
そのため、②のフェーズに入ってくると、各地でトラブルや暴動が相次ぐようになります。先住民たちにとっては「なぜあなたたちの神を受け入れたら、私たちの神を捨てなければならないのか?」と戸惑います。当たり前です。一方で聖職者たちは「なぜ神を信仰すると言いながら、神とは異なる別の存在を神と崇め続けているのか」と戸惑います。こっちも聖職者たちにとっては当たり前です。
 
また先住民たちはこうした「新たな神を受け入れる」ぐらいの感覚でしたので、教会内にも自分達の宗教的思想(例えば偶像崇拝や供物文化、太陽をイエス、月をマリアと捉える解釈、呪術的な要素の付与など)を取り込んでいきます。日本でいうところの初期の神仏習合的な感覚でしょうか。 

宗教改革の影響で異端審問が行われるが、最後は妥協?

同じ頃ヨーロッパでは、ルターの提言に端を発したプロテスタントの勃興に対抗する形で、カトリック内にも自らを顧みて綱紀粛正や教義の明確化などの対抗宗教改革とよばれる動きが起こり、最終的には1563年の第3回トリエント公会議へと集約されていきます。
 
この改革の影響もあり、当初聖職者たちは、ラテンアメリカでの解釈のすれ違いを正すため、1570年以降順次、植民地内に異端審問所を設置し、積極的に活用して教えの統制に努めていきます。
 
とはいえ現実は、聖職者の数も限られていますし、すべての先住民を管理しきることも難しく、思ったようにはいきません。どういう経緯を辿ったのかは諸説ありますが、最終的には異端審問は続いたもののある程度の独自解釈を受け入れる形の妥協もしくは黙認もしていったようで、今でも先住民の村にある教会は、カトリックなのかマヤ文明なのか分からないような独自の世界観が形成されているところも少なくないようです。 

救われた者も多くいるという事実

カトリックの伝道活動は、こうした「思想統制」「既存文化の破壊」などの負の側面がつい強調されがちですが、一方で、多くの先住民や虐げられた者たちを、彼ら聖職者や修道会が救っていることもまた事実です。
 
前提として征服後のラテンアメリカは、大きく「大規模農園」と「鉱山(特に銀山)開発」の2つを柱とした植民地経営がされていきます。
 
基本的には、征服者たちは元々あった先住民社会の支配構造のさらに上に立つ、といった構造をつくります。そのため先住民の中でも特に被支配者層だった人々は、こういった植民地経営の労働力として、奴隷同然に扱われていきます。 

逃亡者を救い、新しい村をつくる

ブラジルでは、こうした過酷な労働を強いられていた先住民たちをイエズス会が救います。彼らは逃走した先住民たちを、植民地内の奥地に建設した集落に迎え入れ、そこで共同体を築くことに尽力します。(もちろんカトリックへの改宗活動もセットですが)
 
彼らの救いへの気持ちは強く、バンデイラとよばれるインディオ狩りをする武装グループに抵抗し、国王の干渉すらはねつけ、こうした集落の中には奴隷王国ともよばれる独自の共同体をつくっていった地域もありました(ちなみにイエズス会は、こうしたストイックな姿勢が疎まれて、後にポルトガル国王らによってブラジルから追放されます)。 

本国に窮状を訴えかけ、保護政策を法制化させる

もっと直接的な行動をしたのが、ラス・カサスという聖職者です。彼は、1502年というかなり早い段階から新大陸の征服者に帯同し、エンコミエンダとして布教活動を行っていましたが、現地の悲惨な状況を目の当たりして、先住民の救済に尽力します。
 
同じく現地の先住民の扱いを批判していたドミニコ修道会に入り、自分の担当エリアの先住民を解放し、しかもグアテマラできっちり改宗活動の成果をあげながら、スペインに戻って征服体制の不当性を訴え、残虐行為の即時停止を国王に進言します。
 
こうした努力は、1542年の「インディアス新法」の制定で一定の成果を挙げることになり、彼はインディアスの保護者とも言われるようになります。 

新法が、ラテンアメリカに奴隷を呼び込む

もっとも、新法は制定されたものの、実際に先住民の待遇が劇的に改善されたかというと、効果は極めて限定的でした。そもそもこの法律は罰則も監視機関もありませんでした。それに、既に自立できるコミュニティを破壊されている先住民は、身分が解放されたところで生活するあてもなく、結局変わらず奴隷的立場として雇われることになります。
 
とはいえ、これによって形としては、先住民に非人道的な労働を強いることも、無尽蔵に奴隷同然に連れてくることも難しくなります。その一方で、農園は順調に拡大し、また南米各地で大規模な銀山も発見されます。
 
これまで以上に労働力が必要になっていく植民地社会で、征服者たちは次の手段として、ポルトガルがアフリカで大量に確保している奴隷に目をつけるようになります。

次回

奴隷がラテンアメリカに上陸
さらに多様化が加速

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