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不比等が生まれる前の話③ -隋の脅威から始まる? “国家”への道-

6世紀終盤、ヤマト政権内で権力を掌握した蘇我氏。ちょうどその頃、中国では統一国家・隋が誕生。ヤマト朝廷は、朝鮮半島の各国と同様、この隋への対応を迫られます。

隋という国のインパクト

中国に統一国家が生まれたのは、三国時代の果てに成立した晋(西晋)以来で約270年ぶり。その頃の日本列島で何が起こっていたのかを正確に伝える史料はありません。晋に対しては、成立当初に邪馬台国の卑弥呼の後継者といわれる壱与が使いを出したと言われていますが、その後150年間、中国の歴史書から倭に関する記述が消えていて、その晋も早々に滅んでしまい、五胡十六国時代・南北朝時代と戦乱の時代が続きます。
 
つまりヤマト政権が本格的に機能し始める前から、中国はずっと内乱状態。この中国大陸が一つの国家に統一されたということ自体が、ヤマト政権にとっては史上初の出来事でした。

それは朝鮮半島の国々にとっても同様で、特に高句麗以外の新羅・百済・加耶は、本格的に国家としての体裁が整ったのが4世紀中頃とされていて、その頃は既に中国は五胡十六国時代に入っていたため、彼らにとっても史上初の出来事です。国境の接する高句麗は、隋建国直後に使いを送ったものの、その後は基本的に隋に対して服属の意思を見せず、隋と高句麗は一気に緊張状態になります。

危機感を前に、すれ違う崇峻天皇と蘇我馬子

このタイミングで、時の大王・崇峻天皇は、任那復興のために朝鮮派兵をしようと言い始めます。崇峻天皇からしたら、朝鮮半島が緊張しているからこそ、友好国である百済を支援するためにも、敵対国・新羅に取られたものを取り返そうといった意図があったのかもしれません。
 
一方で蘇我馬子は、「今、隋や新羅を刺激するようなことは得策ではない」と考えます。他にも飛鳥寺の建立に対する意見の食い違いなど様々な対立があった結果、崇峻天皇は蘇我馬子の手引きで東漢駒に殺害され、推古天皇が即位します。
 
このあたりの見解のすれ違いは、現代でもよく起こっていることだと思います。それこそ現在起こっている戦争においても、当事者以外の関係各国は「友好国との防衛網を強化しよう」という意見と「当該国を刺激する行為は得策ではない」という意見とが混在し、どちらも歴史的にも地政学的にも説得力あるエビデンスが揃っている状態です。どちらも説得力があるということは、下された政治判断に対して、「必ず説得力のある批判ができる状態である」と言い換えることができます。さらに経済学的な利害関係や宗教的価値観、人権主義などの要因も含まれているため、世界中の政治家たちは我々が思っている以上に非常に複雑で難しい対応・決断をこの1年間迫られ続けている状態にあります。

私たちは選挙で議員を選んでいます。彼らは我々の対立軸ではなく代表であり、他の国民と同じく共に国を良くしていくパートナーでもあります。選んだ責任として厳しい監視・批判はもちろん必要ですが、一方でそれぞれの立場から見える異なる景色や価値観を知り、感情的になりすぎずに一緒に考えていく視点も常に意識する必要があるのではとも思います。

隋の皇帝と謁見し、国家ビジョンが可視化?

さて崇峻天皇と蘇我馬子との対立は暗殺という形で終結しました。さらっと暗殺されたと書きましたが、正史上では、天皇が臣下に暗殺されたのはこの崇峻天皇が唯一です。蘇我馬子が大罪を犯したとも言えますが、一方でこの頃の大王の地位というのは、まだこの程度の扱いだったと解釈することもできます。いずれにせよ、この決着によりヤマト朝廷はようやく隋に使いを送ることになります。それが600年のことで、日本書紀ではなかったことにされているのですが、隋側の記録である『隋書』倭国伝には、その様子が記されています。
 
使者を送ったのは阿毎多利思北孤(アメノタリシヒコ)という大王で、政務は日が明けないうちに行い、日が出ると政務を停止して弟に委ねる、と伝えています。そのことを隋の皇帝は非合理的だとして改めさせたとされています。
 
この記述をめぐっては、様々な解釈・意見があります。アメノタリシヒコは男性名であるから、実は蘇我馬子が大王だったのではないかとも言われています。その場合、そもそも用明・崇峻・推古の三天皇+聖徳太子が、蘇我馬子の功績を抹消し専横を強調するために日本書紀でつくられた虚構のシナリオであるということにつながるようです。
 
個人的には、政務は日が明けないうちに行い、日が出ると政務を停止して弟に委ねるという表現が、兄=大王、弟=蘇我氏と当てはめることもできるし、大王を男性としているのも、当時隋は女帝を認めていないため、その点を考慮してヤマトの大王も男性ということにした、と考えることもできます。つまるところ「どうとでも解釈できるので、本当のところはよく分からない」と考えています。
 
いずれにせよ、隋に送られた使いは、その国の規模の大きさと律令体制による整備された国家運営を目の当たりにしたことは想定されます。また、この頃、隋は既に高句麗との戦争を開始しており、隋の朝鮮半島への進出が現実味を帯びてきます。こうした報告を受けた蘇我馬子らヤマト政権の中枢たちは、おそらく大国・隋に対抗できるように、国力を高める必要性を感じたのではないかと思われます。ここからヤマト政権は、隋にならって大王を中心とした中央集権型の国家体制や、律令体制による運営などを目指した政策を進めていくことになります。

次回

ヤマト政権の大改革始まる

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