幸せになるには親を捨てるしかなかった
皆さんにとって母親とはどういう存在だろうか?
私にとっては恐怖だった。
恐怖といっても殴られたりなどの暴力はない。
自分と子供を同一視しているような、他者としての境界線がないような恐怖だった。
他人との境界線という言葉はこの本ではじめて知ったし、聞いてもピンとこなかったのは親との関係でそんなものは無かったからだと思う。
たとえば、母が食事中に「きんぴらごぼういる?」と聞いてきて私は「いらない」と言う。普通の会話だ。だが母は数分後ふたたび聞いてくる「きんぴらごぼういる?」私「いらない」これが毎食行われ私は気が狂いそうになる。
なぜもう一度聞いてくるのか本当にわからなかった。中学生になっても変わらず、思春期になり「いらねーよ!」とキレる私。数日はおとなしくなるが、また聞いてくる。本気でやめさせようと「一度断ったことをもう一度聞いてくるのはやめろ」と真剣なトーンで伝えても「なにをそんなに怒っているの?」と真面目に取り合うことはない。母には同じ質問を何度もしてくるのは異常だということがほんとうに分からないようだった。
これは実際に体験した人にしかわからないと思う。「本当に」分からないのだ。母は「自分が食べたいのだから、あなたも食べたいはずだ」という理屈で生きているのようにみえた。境界線の無い親というのは、そのまま他者と自分の境界線が無いので自分=他者であり、上記の場合、自分が食べたいものを我が子が食べていないのはおかしなことだ。なぜなら、我が子と自分の間に境界線などなく、我が子は自分なのだから。書いていても訳が分からなくなりそうだが、実際に接しているとその世界に巻き込まれる側は気が狂いそうになる。
そのおかしな世界を正そうと母は、何度も何度も何度も家を出るまで20年以上おなじ質問をしてきた。普通の狂人である。
母にとっての世界の方程式とは、自分=Xで、Xにはなんでも入る。あるときは父であるときは子でと、すべての人間は代行可能だ。
昔から母が私を疎ましく思っていたのを感じていたし、
兄弟との差も勿論感じていた。
そのため他の兄弟は愛されているのだと思っていた。
だがそれも間違いであった。母にとってすべての他人はXなのだ。
おとなしくXに収まってくれる人間であれば誰でもよいのだ。
子供にとってそれはとても悲しいことだ。
母はなぜそうなってしまったのか。
きっと母は子供の頃から永遠にひとりだと悟ったのだ。
母も虐待を受けていたので、子供の頃の母は普通の方法では両親と繋がることができなかった。
親の暴力は子供に向かうのだから、親の内側に入り込むか、こどもを辞めて大人になればいい。もちろんどちらも現実には不可能だ。しかし、イメージすることはできる。母は虐待から逃れるため、その親の心理をトレースするように生き、そのまま脱することができず同じように虐待をしたのではないだろうか?
虐待は連鎖するというけれど、それは小さい子供が自分を守るために、親と同化するイメージを抱き続けた結果ではないだろうか。実は母はずっと前から、自分なのか親なのか区別がつかない状態で生きていたのではないだろうか?
母はこれからもXのまま生きるのかもしれない。
ちいさな母を想うと、おなじように親に怯える私が居た。
私もまたXなのだ。
そう考えたとき母は憎むべき相手ではなく、同じ境遇のX仲間なのでは?と思えた。もちろん心の底からマブダチ、なんてわけはなく、まあ、そうなるのも仕方ないかもな。という感じだ。
母とは連絡を絶ち2年ほどになり、日々生活していても複雑な思いに駆られることがある。そんなとき「幸せになるには親を捨てるしかなかった」この本にどれほど救われたか分からない。長い読書歴で、ほぼすべてのページにドッグイヤーを施し、もはやどこが重要なのか分からなくなったのはこの本が初めてだ。
家族の問題は複雑で、どう折り合いを付ければいいか混乱していまう。そんな複雑な心理をすべて理解し、社会的には受け入れられない決断も受け止めてくれるのは、著者も複雑な家庭で「親を捨てる」という経験をした当事者だからだろう。
私はこの本で初めて、自分の気持ちを受け入れてもらえたという体験をしたと思う。本当に出会えてよかったと思える本だ。
あまりにも感動して著者のシェリーキャンベルさんにファンレターを書こうと英語の勉強を始めたほどだ。もちろん挫折した。矛盾するようだが英語版も買った。
親との問題を抱えるすべての人におすすめしたい。
長文、読んでいただきありがとうございました。
母の恐怖
トラブル
絶縁
これでよかった
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