ひきこもること
映画を見たあとレビューサイトを見るのがわりと好きです。ドラマを見たあとSNSで感想を探すのも。
自分が面白かったものや逆につまらなかったものを、他人がどう思ったか知りたくなるんですね。
結果はだいたい意外なものが多く、でもその違いが面白い。あぁ、人ってこんなに違うんだなぁ、と。
「ちょっと浅すぎない?」という感想があれば、「そう見るかぁ」と感心したり、「それはさすがに深読みじゃね?」というのもある。完全に自分基準です。
でも自分の感想に自信があるわけじゃありません。なのでレビューサイトやSNSに投稿したりはまずしない(電子書籍のために好きな映画やドラマのことを書いてブログで宣伝、というのはありましたが)
なのでレビューサイトやSNSにどんどん投稿する人が不思議だったりします。自分の感想に自信たっぷりなのか。読まれていろいろ思われても平気なのか。メンタル強くてすごいなぁ。
でもSNSが当たり前の世代はそんなややこしく考えてない、と教わったことがあります。あれこれ感じたことや思ったことをネットに流すのは一連で自然で、特別意識してない。
なるほどぉ。
しかしまぁまぁ手間でしょうしね。手間を押しても投稿するってなんらかモチベーションないとおかしい。不自然。賛否の賛だけじゃなく否も来るでしょうし。炎上ってリスクある。やるからには何か原動力があるんじゃないか。それは「いいね数」なのか。一緒に盛り上がってる、繋がってる、という嬉しさか。
インターネットがない時代は一緒に盛り上がる機会って、実際会うか電話でした。でも相手の都合がある。ネットは見たい時に見たい人が見るものだからその点いいっちゃいい。
しかし交わした内容は、会ったり電話だと基本その場で消えますがネットは残る。
まぁ残したいって気持ちは大昔からあったものでしょうけど。記録したい欲求。
絵とか写真もそうですね。
今この瞬間、出会ったこの瞬間を残したい。撮影する。形にする。
自分が見たものを「こうだった」「こう見えた」「こう捉えた」と残したい。絵にする。
うまく描けたのを褒められたいとか、テクニック見せたさもあるでしょうが、それだけじゃなかなか続きません。根底には残したい欲求があるんだろうと。残す価値があるという自意識。誰に見られなくても自分のために残したい。
そう考えるとレビューサイトの書き込みも少し理解できます。
でも見られたい欲求はあるのかな。見られたくなかったらそこは選びませんしね。残したいだけなら日記やスマホ内のメモ帳でもいいんだし。
オリジナルの物語とかも、公開したらそう、見られたいから。
人間こういうもの。人生こういうもの。自分の実体験で得たそれらの答えを、形にして確かめたくなる。そこまでなら自分だけのことですが、「他者も共感するだろう」「悩み解決の一助になるかもしれない」「あとの世代には役立つかもしれない」と見せたくなったら、それはもう色気づいてる。
エッセイもまぁそうでしょう。
でも仕事となると違うのかな? 「労力と才能を切り売りしてるに過ぎない」「読み捨てられて構わない」「残したいなんて欲求はない」ということもあるんでしょうか。
あるかもしれませんね。形にすることでお金が発生、そのシステムに組み込まれてるだけで、食ってくためにやっている…そんなケースもないとは言えない。
でも人類があれこれ残すようになったのは、書いたように自意識という個人的なものか、共有財産(残せば役立つ、直後か遠い未来かはともかく役立つはず)という動機でしょう。それで出来上がったシステムに組み込まれていれば、「自分は違う」なんてイキってもね。それに仕事と割り切っていてもクオリティーにこだわってたら大差ないでしょうし。「恥ずかしい仕事をしたくない、残したくない」ってことですから。
たいしてお金になってないのにコツコツ書いてる自分などは、残したい欲求って弱さの証明かな、と思います。「なんか爪痕を残したい」なんて、「このまま消えるのは寂しい」とかの動機でしょう。業深いですね。
なので残すこと、形にすることをあまり持ち上げたくない気持ちがあります。残そうなんて思わない人の方が強いな、偉いな、と。
残さないこと、そして残らないことに価値を見いだせないか、と思う。
例えば日常。何も起こらない平穏。それが大半の時間だったりしますが、本当はたくさんの努力やめぐりあわせでなんとかかんとか保ってるものですよね。災害や戦争が起きたらすぐ壊れてしまうもの。個人の体調1つで立ちいかなくなる脆いもの。
なのに慣れると、つまらないと思う。粗末に扱う。貴重さを忘れる。
特別なこと(残したいこと、共有したくなること)の引き立て役のように軽視し、災害や戦争や病気などの不幸と比べないと貴重さが実感できないんだとしたら、なんとも情けない(筆者自身のことです)
そしてこれだけ共有し繋がるのが当たり前になると、むしろ共有しないこと、繋がらないことの方が価値なんじゃないか、と思ったりします。
例えば誰にも言えない恋をした。それをひとりで胸に秘め、墓場まで持っていったとします。
誰にも知られず消えていくのを「無意味」と思うでしょうか。
でも他人に話しても(ネット投稿して不特定多数に知らせても)正確に理解されるかはわかりません。いや、自分と寸分たがわず共感してもらうのは無理でしょう。人格というベースが違うんだから、いくらかズレて誤解されたり、過剰に同情されたり。
それに伝えれば、自分のことで煩わせた、と負担に感じるかもしれません。
その表裏一体として、伝えると軽くなる、という効果はあると思います。
悩みや苦しみを話す。ひとりで抱え込まず話せば楽になる。決して悪くありません。
しかしなんでも軽くすればいいのか。
悲しい時に「悲しい」と投稿する。ひと手間かけてネットに流す。
ネットでは誰かに届くかもしれません。海に向かって叫ぶのとは違う。
自分はひと手間かけるのも、形にするのも抵抗あります。誰かに伝えても、本当には伝わらない。自分だけの思いでしかなく、自分ひとりで噛みしめたい。誰かに分けようとした時点で本当には悲しんでない。
ひとりで抱えるからこそ価値がある。と思える。
そういうこともあります。
大事な思い出も、人に話せば軽くなる。粗末にしたような気になる。
他人に話さず、煩わせず、左右もされず、秘めたまま自分だけの物語で完結させる、自分の死と共に消えてなくなる。
それを「無意味」と捉えるのは、「残さないともったいない」ということでしょう。とても贅沢なこと、豊かなこととも言える。誰にも渡さず独り占めのままあの世に持っていく。
もちろん贅沢と感じるのは自分だけ。他人は知りようないんですから。でも幸せってそういうものですよね。自分自身で決めること。自己満足。最期はみんなひとりだし。
それはいつの時代も、SNS時代も同じなはずです。誰かと繋がることで救われるケースもたくさんあるでしょうが、それだけじゃないよな、と思う。ひきこもるのを悪くばかり取るのは違うんじゃないかな、と思います。