前回は、唐代の普化禅師の振る鐸の音に感銘を受けた張伯が、自分で作った竹の笛にその鐸の音を写し、16代の孫の張参までそれが伝承されたという、奇跡的なお話でした。
そしてそれから、およそ600年後の宋の時代。
由良興国寺の開山となった学心こと法燈国師が、建長元年(1249)の春に入宋し、張伯の16代目の孫、張参に出会うところから始まります。
法燈円明国師
とは?
鎌倉時代の臨済宗の僧で、普化宗の本山的な存在とされている臨済宗興国寺の開山。
色んな名前で呼ばれているのは、
姓は恒氏。諱は覚心。
号は無本、本名とは別に使う名称。
房号は心地房。
<法燈国師年表>
1206年に信濃国(現在の長野県松本市)生まれる。
1225年(嘉禄元年)出家、得度。
1235年東大寺で受戒。高野山で密教を学び、禅定院で禅を学ぶ。
鎌倉、京などで諸師遍歴の後、1249年(建長元年)に、覚儀、観明らを伴なって紀伊由良から九州に渡り、博多を出て入宋。杭州湾口にある普陀山に着き、中国五大禅寺のひとつである径山寺(興聖万寿禅寺)に上る。6年間各地で修行し、1254年(建長6年)帰朝。
帰朝後、無本覚心は徒弟らと西方寺(興国寺)に帰った。
興国寺(和歌山県日高郡由良町)は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の近臣であった葛山五郎景倫が、安貞元年(1227年)に主君の菩提を弔うために建立したのがはじまり。創建時は西方寺と称されていた。
1285年妙光寺開山(京都)。
1298年(永仁6年)九十二歳で示寂。
有名なのが、金山寺味噌、
法燈国師によって、宋より径山寺味噌の製法が伝えられ、帰朝後種々の改良の末、湯浅の水が良かったことから醤油が作られるようになった、とのこと。
これが我が国の醤油の発祥の由来。
醤油が、法燈国師の長生きの秘訣かもしれない。
法燈国師生誕の地、信州にあるお寺、福応寺のHP↓
紀州由良興国寺 絹本着色法法燈国師画像 あります。
以下、漢文と国字解の翻訳と、私の翻訳です。
唐、宋の時代には日本から多くの人が勉強のために海を渡った。学心もまた護国寺に滞在し禅を学んだのであった。
遠い海を越えてきた学心は張参とは心が通じ合い、一緒に禅を学んで、とっても仲が良かった。
ある日、張参が雑談のついでに、唐代から先祖の代々伝わる虚鐸の曲を今尚そのまま伝えられていることを学心に話した。それを語った後、張参が虚鐸を取り出し演奏した。その一吹きの音色はとても素晴らしいものであった。
学心、超感動する。
我日本国でも、色んな笛をみたけれど、こんな形の笛は見た事が無いし、こんな妙なる音、聞いた事無い!なんて美しいんだ。日本につたえなければと願う学心であった。
張参、学心の為に演奏して教えてあげる。
学心、何日も虚鐸を学び習得し、禅の修行も円熟してきたので、張参に暇乞いをして舒州の護国寺を出て、明州の津港に行く事にした。
学心、舒州を出て明州を出航した。この時の帝は理宋皇帝であった。1254年、後深草天皇の頃に帰る。
学心は高野山に行ったり、平安城に行ったりしていた。
年月は過ぎ、学心は紀州由良の地に西方寺という寺を立ててそこに住んだ。
その後出世して禅師の名前をもらう。弟子も日に日に増えてきた。
以上が虚鐸伝記による法燈国師の登場の場です。
学心こと覚心と、張参との出会いの場面は、フィクションであるとしてもなかなか良い話で、これは日中友好の象徴にしても良いくらいですね。
ですが、
名前が覚心ではなく、学心となっているあたりが、真意を突かれたときの対処法かとついつい憶測してしまいます。
値賀笋童著「伝統古典尺八覚え書」の興国寺によると、
とのこと。
ずいぶんと大胆なフィクションを創始伝記に盛り込んだもんだと思いますが、噓も大きければ大きいほど、意外と見破られないものなのかも知れません。
世の中そんなわけ無いことを祈りたい。笑
さて、
次回は、法燈国師の弟子、寄竹の登場です!