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虚無僧創始伝説「虚鐸伝記」を読み解く!其のニ☆学心と張参の友情物語

前回は、唐代の普化禅師の振る鐸の音に感銘を受けた張伯が、自分で作った竹の笛にその鐸の音を写し、16代の孫の張参までそれが伝承されたという、奇跡的なお話でした。


そしてそれから、およそ600年後の宋の時代。


由良興国寺の開山となった学心こと法燈国師が、建長元年(1249)の春に入宋し、張伯の16代目の孫、張参に出会うところから始まります。


法燈円明国師

とは?

法燈円明国師(1207~1298)は道号無本、法諱覚心、新地と号し、法灯国師、覚心、無本覚心、新地覚心ともいう。信州神林県(長野県松本市)生まれで法灯派の祖。

『国史大辞典 13』


鎌倉時代の臨済宗の僧で、普化宗の本山的な存在とされている臨済宗興国寺の開山。


色んな名前で呼ばれているのは、

姓は恒氏。いみなは覚心。
号は無本、本名とは別に使う名称。
房号は心地房。


【諱】いみな「忌み名」
① 生前の徳行によって死後に贈る称号。諡(おくりな)。
② 身分の高い人の実名。生存中は呼ぶことをはばかった。
【~号、~房】
寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体を僧房(そうぼう・僧坊)といい、私僧房には○○房(○○坊)という個別の名(房号・坊号)がつけられるようになり、大寺院に付属する子院や塔頭の名となるようになった。
日本浄土宗の祖とされる法然の例で言うと、法然の号は房号(「法然房」の略)であり、いみな源空げんくうである。
【国師(こくし)】というのは、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる諡号しごうの1つで、死後に与えられる。
法燈ほっとう国師という名前は、亀山上皇、後醍醐天皇より、おくりなされた名前。



法燈国師年表

1206年に信濃国(現在の長野県松本市)生まれる。
1225年(嘉禄元年)出家、得度。
1235年東大寺で受戒。高野山で密教を学び、禅定院で禅を学ぶ。
鎌倉、京などで諸師遍歴の後、1249年(建長元年)に、覚儀、観明らを伴なって紀伊由良から九州に渡り、博多を出て入宋。杭州湾口にある普陀山に着き、中国五大禅寺のひとつである径山寺キンザンジ(興聖万寿禅寺)に上る。6年間各地で修行し、1254年(建長6年)帰朝。

帰朝後、無本覚心は徒弟らと西方寺(興国寺)に帰った。

興国寺(和歌山県日高郡由良町)は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の近臣であった葛山五郎景倫が、安貞元年(1227年)に主君の菩提を弔うために建立したのがはじまり。創建時は西方寺と称されていた。

1285年妙光寺開山(京都)。
1298年(永仁6年)九十二歳で示寂。



有名なのが、金山寺味噌

法燈国師によって、宋より径山寺きんざんじ味噌の製法が伝えられ、帰朝後種々の改良の末、湯浅の水が良かったことから醤油が作られるようになった、とのこと。

これが我が国の醤油の発祥の由来。

醤油が、法燈国師の長生きの秘訣かもしれない。

 

法燈国師生誕の地、信州にあるお寺、福応寺のHP↓

紀州由良興国寺 絹本着色法法燈国師画像 あります。


 

 

学心(覚心)が宋にやって来たの図。



以下、漢文と国字解の翻訳と、私の翻訳です。


増補注釈『虚鐸伝記』洛陽 
山本守秀注釈・河本逸童増補
国立国会図書館所蔵

本邦僧学心者亦遊学于此 

ほんぽうの僧とは日本の僧のといふ事なり唐宋の時差には日本より多く学びの為に入唐入宋とて僧俗の内にてすぐれたる人をつかはせし事なり。或いは公辺へ願いて入宋せし人も多かりしなり。学心は僧の名也またこゝにゆふがくすとは此学心といふ僧も、そのおりから入宋して、彼の護国寺に掛錫かしゃく(修行僧が行脚の途中で他の寺にとどまること)して禅法を学び居られしという事なり。此にとは寺をさしていう。(学心とは後に覚心といふ僧なり)

 

唐、宋の時代には日本から多くの人が勉強のために海を渡った。学心もまた護国寺に滞在し禅を学んだのであった。

 

同学相唱和而興参友善 

どうがくあいしょうわして(同学相唱和)とは同じく禅をまなぶ事なり。萬里の蒼波をこえて來り学ぶが苦心なれば。志を感じあいたる事言外にあらはれたり。相とはたがひのこゝろなり。唱和とは詩を作れば文章にも互いに錬磨する事なり。参を友としよしとはあまた僧居士あるうちに、学心と張参ことに心あひて交り深かりしとい事なり。 


遠い海を越えてきた学心は張参とは心が通じ合い、一緒に禅を学んで、とっても仲が良かった。
 

 

一時閑話之次語及先世伝虚鐸今尚曲事其調之弄之一奏入妙

いちじとはあるときといふ事なり。かんわのついで(閑話之次)とは、しづかによもやま(四方山)のはなしをしけるついでにという事なり。其はなしのときに、張参の先祖張伯は唐の代にて其時の知識普化禅師にまみえ、きょたく(虚鐸)を伝え来りて今なを其きょくをうしなわずという事をぞんずるとはいふなり。及ぶとは、虚鐸というものを伝え来りて、其吹事を語りて、張参が虚鐸を取いだだし、これをちょうしこれをろうす(調之弄之)とは、とくと音じめをあはせ吹きたるに、其一かなでのふきよう、ねいろの妙にしておもしろき事を、一奏入妙(ひとたびそうすればみょうにいる)とはいうなり。

 

 ある日、張参が雑談のついでに、唐代から先祖の代々伝わる虚鐸の曲を今尚そのまま伝えられていることを学心に話した。それを語った後、張参が虚鐸を取り出し演奏した。その一吹きの音色はとても素晴らしいものであった。

 

 

学心一賞三歎脆坐膝行曰

かくしん、いっしょうさんたん、きざしつこうしていわくとは、、学心ことの外感に堪えかね、一賞とは一たび賞翫しょうがん(そのもののよさを楽しむこと。珍重すること)しほむることなり。三歎とは、ああ、妙音かなと三度声を発して、さてもおもしろき事やと。座をなすを脆坐という。ひざにて近づき寄るをしつこう(膝行)すと云う。即感心して座を進み出でたる事なり。

 

学心、超感動する。


奇哉妙哉世之於象管未聞如此清調妙曲賞可愛者伏請教授一曲長伝妙音于日本

きなるかなうなるかなとは、さても扨もふしぎにたえなる音いろかな。世のしょうかんにおけるいまだかくの如き、さいちゃう(清調)、めいきょく(妙曲)を聞かずとは、是迄我本国にても種々様々のふゑを見たけれども、此の形のふゑを見ず。又このやうにすみやかな、妙なるふきようをきかず。しゃう(賞)すべく、あいすべきものとは、まことにしゃう美して、もてあそぶべきものなりとなり。ふして願ふ一曲をおしへさずけ給はゞながくめうをんを日本迄に伝うというものなりとねんごろに願う事也。

 

 
我日本国でも、色んな笛をみたけれど、こんな形の笛は見た事が無いし、こんな妙なる音、聞いた事無い!なんて美しいんだ。日本につたえなければと願う学心であった。
 



於此為学心再奏之使之学此

こゝにおいて、学心の為に、ふたゝびこれをそうすとは、学心に聞かさんが為に、又吹きし也。之をしてとは学心をして。之をまなばしむとは、此の曲調を教へて習はしむをいふことなり。

 

 張参、学心の為に演奏して教えてあげる。

 

学心学之有日禅已熟曲已就而告別于張参

学心これをまなぶとは、虚鐸の音を学ぶ也。日ありとは、学ぶ日を重ねたるなり。禅すでにじゆく(熟)すとは、禅学参禅も能心に入りし事なり。曲すでに成とは、虚鐸もよく覚えてそれより、日本に帰らんとて、張参に暇乞いして舒州の護国寺を出て、明州の津港に趣(赴)かんとすることなり。

 

学心、何日も虚鐸を学び習得し、禅の修行も円熟してきたので、張参に暇乞いをして舒州の護国寺を出て、明州の津港に行く事にした。
 

 

辞舒州而解纜于明州南宋理宗帝宝裕二年帰船于本邦于時 後深草天皇建長六年也

じょしう(舒州)を辞してとは、護国寺にて、みなみないとまごひをして出られし事なり。ともづな(纜)を明州にとくとは、明州はもろこしの港口にて、唐宋の頃よりの渡りところなり。今の寧波(ニンポー市)も明州のうちにありと覚ゆるものなり。本朝より渡海にも便りよき地なれば帰船の時も此所(ここ)よろしきなり。此時の帝は南宋にて理宋皇帝と称し奉(たてまつ)る。ほうゆう(宝裕)二年は、其の時の年号なり。すでにともづなをとき、風波をしのぎ日本に帰りつきてみれば我朝のみかど後深草天皇にて渡らせたまひ、けんちゃう(建長)六年にきちゃう(帰朝)せしということなり。


  • 【もろこし】日本から中国を呼んだ名で、昔、中国から伝来したものにつけた語。中国南方の越 (えつ) (浙江セッコウ省付近)の諸国・諸族の「諸越」の訓読みから起こり、最初その地方をさしていたのが、しだいに中国全土をさすようになったという。一説に、その地方から諸物が渡来した意とも。

  • 【宝祐(ほうゆう)】は、中国・南宋の理宗の治世に使用された元号。1253年 - 1258年。

 

 
学心、舒州を出て明州を出航した。この時の帝は理宋皇帝であった。1254年、後深草天皇の頃に帰る。

 

 

自是学心或入高野山或出洛陽城

これより学心ある時は、高野山にわけ入りて心をすまし、又ある時はみやこへも折々出られしを洛陽城に入りと云。洛陽は、もともともろこしの都の名なり、しかれどもかく用いて、此方にても称し来れり。此方の都は平安城といふが本名なり。

 

  • 【平安城】794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都。


学心は高野山に行ったり、平安城に行ったりしていた。

 

 

逍遊有年造立一寺于紀州號西方寺而終住于此

しょうゆうとしあり(逍遊年有)とはずうずうと年光のおしうつるをいふ。されば一つの寺を紀州の内につくり立て、西方寺となづけて、此所にすまれし也。此寺は由良といふ所にあり。

 

 

年月は過ぎ、学心は紀州由良の地に西方寺という寺を立ててそこに住んだ。

 

 

以其碩徳世號大禅師弟子日益進

そのせきとく(碩徳)をもって、世大禅師と号すとは、学心帰朝せられてより、年月かさなり、徳業みちて、禅機ありけるゆへ、世の人称美して大禅師と申せし言なり。弟子(テイシ)日に益々進むとは、遠きも近きもつきしたがいて業をうけ、禅学の為により集る。弟子の僧、日にまして多く来たりし也。


  •  【碩徳(せきとく)】徳の高い人。高徳の人


その後出世して禅師の名前をもらう。弟子も日に日に増えてきた。
 

 

学心(覚心)日本に帰ってきたの図。 

 

 

 

以上が虚鐸伝記による法燈国師の登場の場です。

学心こと覚心と、張参との出会いの場面は、フィクションであるとしてもなかなか良い話で、これは日中友好の象徴にしても良いくらいですね。 


ですが、


名前が覚心ではなく、学心となっているあたりが、真意を突かれたときの対処法かとついつい憶測してしまいます。

 

 
値賀笋童著「伝統古典尺八覚え書」の興国寺によると、

普化宗神話では、普化宗が我国に渡来した時の最初の舞台がこの興国寺で、日本語の出来ない四居士が風呂の司として住んでいた場所を普化谷と名づけたとしている。普化谷という所は現在も有るが、その名称の由来を編者(値賀笋童)は次のように考えたい。即ち秀吉の紀州攻略で興国寺も兵火にかかって廃墟となり、後に紀州に封ぜられた浅野候が再建する迄の数十年間、その辺一帯は野武士に山伏、薦僧などが多数住みついていたという記録が幾つか有るが、これは史実と見てよいであろう。此等の人々は、恐らく混在していたのではなく、夫々それぞれ部類毎になっていたのが当然であろうから、その中の薦僧達が、たむろしていた場所を普化谷と云うようになったのではなかろうか。先述の如く、興国寺は明暗寺の本寺とはなったが、虚無僧の住む普化寺であっという事実は全くない。

値賀笋童著「伝統古典尺八覚え書」


とのこと。

ずいぶんと大胆なフィクションを創始伝記に盛り込んだもんだと思いますが、噓も大きければ大きいほど、意外と見破られないものなのかも知れません。

世の中そんなわけ無いことを祈りたい。笑



さて、

次回は、法燈国師の弟子、寄竹の登場です!


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