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尺八の渡来、僧侶第一号は慈覚大師円仁による!
尺八が法燈国師(心地覚心)によって伝来したということは、普化宗の伝来とともに古典尺八の歴史では周知のことではあるが(真実かは別として)、その400年前、唐に求法に行っていた円仁(慈覚大師)が帰朝した時に尺八を持ち帰ったということも一応通説になっている。
ちなみに第一回目の尺八渡来は、591年、百済の王より朝貢物に尺八ありとの記述が残されている。
山田悠著『尺八・虚無僧編年史』より
円仁が尺八を持ち帰った理由が、
音痴だったから。
とのこと。
尺八に合わせて読経したそうな。
尺八練習する方がよっぽど大変な気がしますが...。
中塚竹禅著『琴古流尺八史観』<第九項・仏徒尺八>によると、
尺八が法灯国師に依って普化禅と共に伝来したから、尺八を仏教、尺八と僧侶とは密接の関係があるのだという風に考えてはいけません。普化禅的尺八の以前に尺八が僧侶に依って吹かれた立派な事実があるから尺八と仏教との関係は普化禅よりはモットモット古いのであります。
とのことだ。
円仁(794ー864)とは、
円仁は、比叡山天台宗の宗祖伝教大師(最澄)の膝下に入門したが、求法の為に838年から9年間唐に渡った。山東省赤山県の法華院五台山麓の竹林寺等で声明や引声五会念仏を習得したが、生来音痴だったので、尺八を使って節回しを習ったと伝えられる。この笛は延暦寺に長らく保存されていたとのこと。象牙製と云われるが長さも形状も不明。吹奏法を門下に教えたわけでもなく、ただ唐から持ち帰っただけ。但し、京都明暗寺の真法流では恭敬・供養の二曲を慈覚大師御作と伝えているのと、帰国の際終始引声の旋律に合う「渋河鳥」の曲を持ち替えたという説がある。
(値賀笋童「伝統古典尺八覚書」より)
先程の中塚竹禅の続きでは、
ご承知の通り中国の隋唐宋文化を我国に輸入したのは当時の留学生即ち主として僧侶であるが、其内の或る物が帰朝に際して此不可解な楽器たる尺八を輸入したのである、記録に残って居る一番古い所では慈覚大師であるが慈覚大師は皇紀1498年承和五年に入唐して居る。之れは琴を輸入した遣唐使藤原貞敏の入唐と同年であるが、貞敏は翌六年に帰朝して居るに反し大師は承和十四年帰朝即ち足掛十年も中国に行って勉強して居ったのである。貞観六年七十才で入寂して居るが阿弥陀経を読む時に音声の不足を補う為尺八を吹いたという話が伝わって居ります。此れが僧侶が尺八を吹いたという一番古い話であります。当時入唐者は大師の外にまだまだ沢山あったと思いますが尺八に関係ある話は全然伝わって居りません。
とある。
さて、
では一体どの史料に円仁が尺八を持ち帰ったという記述があるのか、調べねばなりません。
ざっと、図書館で円仁さんの本をかき集めてみた。
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まずは円仁像↓
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入唐求法巡礼行記
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「円仁慈覚大師の足跡を訪ねて」より
838年から847年までの9年間の唐滞在を記録した円仁日記4巻は、後に二つの筆写本によって後世に伝えられた。
慈覚大師円仁とはどんな人なのか。
円仁は延暦13年(794)岩舟町下津原で生まれる。幼くして仏門に入り当地で6年間修行する。後に伝教大師最澄の弟子となり貞観6年(864)71歳で、天台宗の総本山である比叡山の延暦寺にて入寂している。朝廷から慈覚大師という「大師号」を授けた最初の高僧としても知られる。
42歳のとき、朝廷からの命令で唐(中国)に留学することになる。目的は天台宗の生まれた天台山に行って大唐文化や仏教思想を学び日本に伝えることであった。
唐を旅した承和5年(838)から約10年間の旅行記が「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」と呼ばれる。その内容は仏教のみならず政治・制度・文物・民族などに及びそれぞれの部門で貴重な資料であり、ライシャワー博士(元駐日大使)によって広く世界に紹介された。
「入唐求法巡礼行記」は三蔵法師の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」とともに世界の三大旅行記といわれている。
参考・岩舟町商工会HP
https://www.iwafune-shokokai.or.jp/iwafune/kankou/kankou_jikaku
天台宗 祖師先徳鑽仰大法会HP。もっと詳しく慈覚大師のことが書いてあります。
https://www.tendai.or.jp/daihoue/profile/jikaku.html
ということで、三蔵法師の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」とともに世界三大旅行記といわれている円仁が書いた 『入唐求法巡礼行記』に尺八の記載を探す!
恥ずかしながら、三蔵法師、マルコポーロが旅行記を書いたことは知っていても、円仁さんの書いた旅行記のことは知りませんでした。日本人失格!💦
こちらは文庫本。分厚い!ちょうど3センチ。
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最後の遣唐使として船で行くも、色んな困難が待ち受けています。
早速船が座礁したりとか…。行く先々で親切にしてもらったり、してもらえなかったり、何を食べた、御馳走になった、雨が降りだした等々、とても分かりやすく書かれています。旅券が発行してもらえず何日も逗留したり、一日何十キロも歩いたり…。日記からは円仁さんの温厚そうな人柄も伝わって来ます。すごく読みやすい。
さて、目を皿にして「尺八」の記述を探してみますが…、
五台山で声明を習ったということで、そのあたりを丹念に読んでみるも、尺八の文字が見当たらない…
んー…。
今一度、調べ直してみましたら、
1212年頃の書かれた源顕兼の『古事談』に、「慈覚大師円仁が、中国五大山で“声明”を学んで帰国し、それを比叡山で普及しようとしたが、音声不足を補うため、尺八でもって『引声阿弥陀経』を吹いた」
との記述があるとのこと。
源顕兼(1160-1215) とは、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。顕兼は『古事談』を編集したことで知られる。
『古事談』とは
鎌倉初期,源顕兼 (あきかね) の説話集
1212〜15年の間の成立。6巻。神仏・宮廷・民間の説話をおさめる。
改訂新版 世界大百科事典によると「内容や分類項目からうかがえる本書の意図は,貴族社会をその裏面にまで踏みこんで描くことにあった,と思われる。」とのことで、暴露本?のようなものでもあったようです。
『古事談』は近くの図書館に所蔵がありました。
なんと厚さ6センチ。。。
またここから「尺八」の二文字を探すのか〜〜〜。
と思っていたら、なんと目録にちゃんと「慈覚大師」」の明記がある!
助かった。。。
『古事談』内表紙
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『古事談』の慈覚大師の部分
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慈覚大師、音声不足に坐さしめ給ふ間、尺八を以て引声の阿弥陀経を吹き伝えしめ給ふ。「成就如是、功徳庄厳」と云ふ所をえ吹かせ給はざりければ、常行堂の辰巳の松扉にて吹きあつかはせ給ひたりけるに、空中に音有りて告げて云はく「やの音を加へよ」と云々。此れより「如是や」と云ふ「や」の音は加ふるなり。
〈訳〉
慈覚大師は音声不足だったので、尺八で引声の阿弥陀経を弟子に吹き伝えられた。阿弥陀経の「成就如是、功徳庄厳」の部分を吹くのが煩雑で、常行堂の辰巳(南東)の松扉にて吹いていると、空中から声がして「やの音を加えよ」と言う。これより「如是」という箇所に「や」の音が加わった。
【常行堂】(じょうぎょう‐どう) 常行三昧ざんまいを修する堂。阿弥陀堂。常行三昧堂。
【あつかはし】 (暑かはし)わずらわしい。
【如是】(にょぜ)かくのごとく、このように、の意。経典の冒頭に記される語。
『古事談』は、天皇・貴族・僧の世界の珍談、秘話集とのことで、確かに後半の話は、秘話といった感じです。
源 顕兼は円仁さんが音声不足=音痴だったことをここで暴露してしまったのでしょうか。
ところで、
「尺八で引声の阿弥陀経を吹き伝える」とはあるが、唐で吹いた尺八とは書いてないのが少し惜しいような。
もしかしたら帰朝してから思い出して吹いたかも知れない。
「入唐求法巡礼行記」に尺八の二文字が一ヶ所でもあれば決定的になるのですが、それも見当たらず、源 顕兼の時代からも遡って300年以上前のことだし、値賀笋童著「伝統古典尺八覚書」の、円仁の象牙製の尺八が長らく延暦寺にあったとのことも、現在は不明。
いささか情報不足です。
しかしながら、
円仁さんのことをこれだけ知り得ただけでも私にとっては大変な財産であります✨
↓こちら円仁さんの唐の旅のことなどがとても分かりやすく書いてあります。
↓こちらのサイトに載っている円仁さんの巡礼図。
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陸地はもちろん徒歩!何千キロ?
声明は、仏教儀式のときに経典の一部を一定のふしをつけてうたうものです。声楽を中心に行うので声明といいます。声明は中世以降、平曲、謡曲・能、浄瑠璃へと発展しました。
中世以降発展する音楽は、なんと仏教からはじまるんですね。
円仁さんがもたらしたとは!
改めて円仁さんすごい!
命がけで、海を渡り求法しに行った僧侶たちのおかげで、より豊かな仏教文化が日本に伝承されたということでもありますね。
円仁さんに感謝🙏
タイムスリップして、この頃の人々に会ってみたいなぁ…。
それは無理かもしれんから、五台山ならいつか行ってみたいな〜。
と思いを馳せるのでした。
(徒歩は無理かも)
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