巡礼者たちの縁起と終焉★納経帳と廻国供養塔からみる六十六部聖
消えた巡礼者たち<其の三>
今回は、六十六部の起源と終焉、そして現代の御朱印帳の始まりである納経帳や、わりと身近にある六十六部の供養塔などについて、虚無僧情報も交えつつ見ていきたいと思います。
前回は文学に関する六十六部を見てみました。↓
六十六ヶ国を廻ったということで、まずは日本の昔の地図を見てみます。
江戸中期にはすでに正確な日本地図があったんですね。
歌川広重は、『大日本六十余州名勝図会(六十余州名所図会)』といって、日本全国の名所の浮世絵を描いている。
広重晩年の作で五畿七道の68ヶ国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる名所図会。
五畿七道とは、山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国と、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道のこと。
ここからも分るように、日本はかつて68ヶ国だった。
五畿七道は68ヶ国ですが、六十六部は壱岐国、対馬国を除いた66ヶ国を廻った。
因みに虚無僧も、1700年代に書かれた虚無僧縁起『虚鐸伝記』によると、五畿七道を廻ったという伝説が残されています。
『大日本六十余州名勝図会』の70枚からなる浮世絵に、六十六部は見当たりませんでしたが、虚無僧がいました。
いるいる、飛騨の山奥に!
と、ちょっと驚きですが、浜松の虚無僧寺、普大寺の番所が飛騨にありました。
飛騨国吉城郡古川町大垣村。大垣出張所。(岐阜県飛騨市)
1768〜1808年に飛騨古川出身の門弟、飛扇がいたとのこと。
広重は伝え聞いていたのか?!
それにしても、虚無僧はいつでもどこでもどんな危険な場所でも天蓋を外さなかったのでしょうか(汗)
京都歴史研究會の「秘められた巡礼・御朱印ルーツの六十六部廻国」によると、
…と、巡礼地が自由なのが特徴的であったとのこと。
縁起について
さて、六十六部の縁起についてです。
巡礼の風習がいつどのように始まったのかは定かではありませんが、室町時代に成立した『太平記』にそのことが書かれています。
【太平記】とは、
時政参篭榎嶋事
訳しますと、
北条時政(鎌倉幕府第十四代執権)が、子孫繁栄を祈って榎嶋(江ノ島)に参篭していたら、37日目に威厳のある美しい女性が忽然と現れてこう言った。
「汝は箱根法師である。六十六部の法華経を書き写して、六十六箇国の霊地に奉納した善根によって、再びこの地に生まれることになろう!そうすれば日本の主となり、繁栄するだろう。但し、其の行いに違いがあれば七代以降は無い。私の申すことに不審があれば、国々の納めた所の霊地を訪れよ!」
そしてその女性は、大蛇となって海に消えた。
その後、大蛇が残していった大きな三つの鱗が北条氏の旗印となり、今の家紋がそれ。言いつけ通りに国々の霊地に人を遣わせて、法華経奉納した。
こちらは月岡芳年の描いた北条時政
この女性が箱根法師なのかは分かりません…。
さらには、源頼朝の前世も、頼朝房という六十六部聖であったとのこと↓
このように、名のある武将を六十六部の前世にしたてるのは虚無僧の伝説とも重なりますね。
虚無僧の場合は楠木正勝です。
六十六部は前世としたのがまた上手いですね。誰も知らない。
ここで分かるのが、六十六部の発祥、縁起の主要人物は鎌倉で関東、虚無僧の発祥、縁起は主に、関西であります。どうやら六十六部は関東方面が発祥かもしれません。
御朱印の始まりは納経帳?
納経帳、納経札について
焼津市には六十六部関連のものが有形民俗文化財/有形文化財に指定されています。
六十六部廻国納経帳2冊 附 錫杖頭1柄、鹿嶋廻国縁起之次第1冊
納経帳とは、今で言う御朱印帳。
霊場の納経請取印とは御朱印のこと。
御朱印巡りの発祥は六十六部からだったのだ。一度集めだすとやめられない習性が人間にはあるのでしょうか。
古今御朱印研究所HPより
六十六部の納経帳
六十六部が残した納経札も各地にあります。
寛保年間から寛政年間までの間に、諸国をまわる巡礼者たちが奉納した 1614 枚にも及ぶ札で、伝法寺の松林山清水寺(現在の伝法寺観 音堂)に奉納されたものと伝えられている。
https://www.city.towada.lg.jp/bunka/bunka/files/18.pdf
寺に納める納経札以外に、宿泊先にもお札を納めたようです。
六十六部を宿泊させるという事は、六十六部として全国を廻るのと同じ功徳があるものと考えられた。
特定の家に多く残されている例があり、六十六部同士で情報交換をしていたのであろうとのこと。
鳥取県立博物館「資料調査報告書 第二十五集 六十六部巡礼」
https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1204524/8694.pdf
このように、全国各地に六十六部の残した納経札、巡礼札というものが残されているようです。
経筒も博物館に所蔵されていたり、古物商で売っていたりもします。
ただし、肝心の六十六部書き写し経筒に納めたという「法華経」そのものの資料はまだ目にしておりません。
長年、経筒に入れたままにしておくと虫などに喰われたり経年劣化などで消えてしまうのでしょうか。見てみたいものです。
廻国供養塔について
日本石仏事典によると、
面白いのが、「廻っていたこと、または廻っていること」ということで、途中でもいいんですね。
日本全国を徒歩で巡礼するとならば、決死の覚悟。そりゃ達成感も並ならぬものがあったかと思います。
石碑を造立するくらいの偉業であったと想像します。
こちらは神奈川県三浦市の六十六部塔。
大乗妙典六十六部塔
千葉県松戸の萬満寺にある、虚無僧寺総本山一月寺、もしくは船橋の清山寺にあったとされる六十六部塔。
大乗妙典六十六部塔
秩父巡礼の時に道中にあった廻国供養塔。
日本廻国供養塔
東京都府中市にある天台宗観音院にて。
大乗妙典一千部供養仏
大乗妙典六拾六部日本廻国請願成就所
下染谷村とは、現在の府中市白糸台の辺りだそう。たまたまこのお寺前を通りかかって見つけました。
そして、近所の東京都小金井市にも。
小金井市中町。
六十六部廻国供養塔
台座に小金井村世話人や備中国(岡山)の行者名を刻む。台座に合掌地蔵尊。
このお地蔵さまの前にいましたら、通りかかった男性が、「このお地蔵さまはご利益がありますよ」と教えてくださいました。
台座から地蔵尊が落ちてしまったのは東日本大震災の時のことだったそう。
以前は、このようになっていた↓
関野町 真蔵院にて。
こちらは巡拝塔で、各霊場の札所を巡拝した記念に建てられるもの。
百番廻国供養塔
関野新田の村内安全のために秩父板東西国の観音霊場に札を奉納した際に造立されたとのこと。
小金井市中町 金蔵院
百番廻国供養塔
秩父の三十四番札所にこのような看板がありました。分かりやすいです。
さて、
この六十六部は普化宗の廃宗と同じく、明治政府によって禁止されてしまいます。
廻国修行ノ名義ヲ以六十六部ト称シ施物ヲ乞ヲ禁ス
こちらは、
普化宗廃止
中川未来著 論考「四国遍路編」『明治初期の遍路統制―根拠法令とその運用』によると、
ここで言う無産者とは、浮浪人のこと。信心のために旅をするということが、巡礼者では無く、ただの物乞い、浮浪人であるということになってしまった。
「生産性の無い人」という言葉が心無い政治家(というより差別主義者)から発せられた記憶は新しいかもしれませんが、このような発想は明治新政府の根本的な考え方にあったことがここでよく分かります。
巡礼そのものは、その後認められたとのことで、昭和初期までは実際に六十六部も見かけられたようですが、さすがに現在はあの姿を見ることは無いですね。どうでしょう。
普化宗は宗教団体としての宗派は無くなりましたが、尺八愛好家によって虚無僧団体、明暗教会が1890年に京都に設立され、復活することになりました。
経緯はこちら↓
戦争によってどちらかが勝つと、負けた国の文化も掟も一切消失するという事は、今まで歴史上繰り返され現在に至るわけですが、六十六部や虚無僧もその犠牲となりました。
宗教的に神聖な立場であった「聖」という人たちも、その様に人を位置付けすることも、信心により修業している人々を敬うことも、今現在はほぼ無くなってしまいました。
精神的な拠り所というもの自体が時代により変化しています。
現代の人々の拠り所は、一体なんでしょうね。
「聖」についてはこちら↓
信心のため何もかも捨てて、旅に出て、旅先で、路上で、死ぬ。
やってみたいなぁ…。
と思いつつ、それを実現できる日が来るのだろうかと、現実を目の当たりにするのでありました。
六十六部を知ることで、自分自身の生き方を考えさせられました。
以上、やや走り気味ではありましたが、消えた巡礼者六十六部聖を、虚無僧と共に見て参りました。
ご近所や旅先などで、六十六部供養塔など見かけましたら、かつての巡礼者達のことを思い出してほしいなぁと思います🙏