『仙石騒動』年表と相関図にまとめてみた。
仙石左京が獄門になるまで…
『仙石騒動』とは、但馬出石藩(五万八千石)に起きた藩政改革を巡っての守旧派と改革派の対立事件、いわゆる御家騒動。
このややこしい(く感じる)お家騒動を年表で追うことにしました。
時は文政四年、仙石家九代当主仙石政美の治世下の頃。
1821年 仙石左京が大老兼勝手方掛りに任じられる。
→財政の立て直し。上米、生糸専売、領外商人の領内行商禁止などの政策などを進める。
1823年 対抗する守旧派が左京一派の追い落としをはかる。
→藩士らの不満を背景に上米を停止させ、左京を勝手方から退かせた。
1824年 仙石家九代当主仙石政美が危篤。
左京が息子新之助(後に小太郎)を連れて江戸へ向かう。息子同行の件は藩校弘道館講師、桜井良蔵に止められるが決行。もし養子が期限まで決まらなければ、全く違う血筋の者が後継者となる恐れがあったためではないかと憶測するが真の理由は不明。
(これが後々左京を失脚へと追いやる口実の一つになる)
仙石政美が病死。弟の道之助が五歳で家督を継ぐ。
(結局左京の息子の話はでてこない。)
1825年 仙石造酒は大幅な人事異動と機構改革着手。
(元々、造酒助だったのを造酒にしたそうな)
→左京の大老職を解任。
1826年 桜井良蔵の影響力が強くなるにつれこれを快く思わないものも現れた。その一人が年寄に赴任した磯野源太左衛門。弘道館講師に付属していた幽蘭舎という塾を廃止したりまた良蔵の邸地の一画を割いて一邸を建て、増田右源太を住まわせたりと嫌がらせ。
そこで磯野源太左衛門と造酒・清兵衛が激しく対立、乱闘騒ぎまで起こし、処分される。
→左京が再び藩政に返り咲く。
桜井良蔵は格落ち(1828年に蟄居を許される)。
1827年 藩財政行き詰まる。
江戸詰めの仙石玄蕃、放蕩のあげく多額の借金。
仙石主計、他の勝手方がかり役人ともども辞任願い出る。
→処分発令。
河野瀬兵衛は免職のうえ、隠居蟄居。
→左京の文書によると「借銀(いわゆる借金)のために京・大阪に派遣したがいささかの働きもできず、不届きなこともあった」とのこと。
債権者たちを怒らせたか。
天保元年
1830年 農民一揆が起こる。
(いろいろ上手くいっていない状況)
1831年 仙石左京、息子小太郎の嫁に、ときの老中松平康任の姪を迎える。
(役職から追われた左京反対派の面々の胸中は穏やかでなかったであろう)
結婚の日。その直後から、老公久道が住む西御殿へとときどき投げ文があった。これはラブレターの類いではない。
1832年 荒木玄蕃・仙石主計・酒匂清兵衛の三人が原市郎右衛門を加えた四人の連名で上書を携えて西御殿へ上る。
→左京を失脚に追い込もうとするが失敗。
久道には上書は通用しなかった。
半年後 河野瀬兵衛追放。上書が河野瀬兵衛の煽動と断定されたため。
(予々、戦国時代も終わり、戦の無い安泰の世であった江戸時代中盤以降、虚無僧になる武士はそれほど多くいたのだろうかと思っていましたが、このように、藩から追放された士が少なからずいたのでしょうか。)
左京、勝手方がかり辞任願い出す。左京に対して批判的であった久道も、この頃は左京に頼り切っていたため、差し留める。
(ここでも左京が権力にしがみついているという感じは無い)
出石は一応平静さを取り戻した感があったが、束の間。
1833年 出石藩を追放されふんまんやるせない河野瀬兵衛は暫く丹波に潜伏するが江戸に出る。
老中に駕籠訴するが取り上げられなかった。
神谷転に上書を分家に渡す役割を依頼。
河野瀬兵衛の上書の内容は、左京は国もとで奢りをきわめた生活をしていることや、自分達は不当に処分を受けたなど23か条に及ぶ。
上書は、丹波守家仙石能登守久大にも渡る。久大は、久道の正妻の子であったが一足早く丹波守家に養子として入ってしまったため、復縁が叶わず藩主とならなかった人である。だから末弟が治める仙石家の家政については、他の支族よりも強い関心を寄せていた。久大は他の支族も誘い、出石藩邸を訪れた。生母である久道正妻常真院、ならびに義理姉の政美未亡人貞恭院にもそれを見せた。彼女らはいきり立ち、左京がよからぬ施策を進めているようだから注意するようにとの意味を込めた手紙を久道のもとへ送る。
久道は「中風」で病に臥せっていた。
→左京は江戸の瀬兵衛のうごめきを知ることになる。
→江戸に年寄二人を使わす。この度の件を契機に、江戸屋敷節倹体制の見直し、「御奥」のひきしめをはかる。とにかく財政難。
瀬兵衛は上書後しばらく江戸に留まっていたが、8月には但馬へ帰り、姉婿の生野代官所地役人渡辺角太夫を頼って生野に潜伏。生野は天領(江戸幕府の直轄領の俗称)であるため、強いて身を隠さずに寺子屋を開いていた。出石藩は11月中旬、出石藩の下目付、横目付を派遣して確かめ捕縛。
しかし、押し問答をしているところへ、代官派遣した役人が到着し瀬兵衛の身柄を差し押さえた。天領では許可無く捕縛はできない。
→召し捕り失敗。
そこで左京は、仙石小太郎の妻の父、松平主税の手をたぐり、その兄松平周防守康任に働きかける。
正式に、瀬兵衛の身柄は生野代官へ引き渡しとなり、取り調べ後仙石家へ引き渡される。
1834年 出石藩、四重臣と瀬兵衛の関係を明らかにする為に糾問(再審査)。
2月、神谷七五三のもとに弟、転を伴い出石に帰るようにと命令が届く。
(この兄弟の名前はキラキラネームならぬナンカイネームでしょうか)
→転、行方くらます。
4月 江戸麻布六軒町の有名な柔術家渋川仲五郎の紹介で一月寺に入り名前を友鵞とする。
左京、常真院にも詫び状の署名を求める。
(このこともやり過ぎ感あり。屈服するが後にこの怒りを将軍に伝え、のちに左京に報復することになる)
4月、瀬兵衛の身柄引き取り。糾問。
この厳しい処罰がまたさらに左京にとって悪い結果となる。
1835年 左京、隠居願い出すが、岩田静馬らは極力慰留につとめるが承知せず。やむなく静馬は藩主の元へおもむき、口上書携え懸命に慰留。左京こたえる。
(またもや、権力の座を退きたいとの意向叶わず…)
その頃、
1835年 3月 神谷転こと虚無僧友鵞は、上総国千葉県三黒村(袖ケ浦市)松見寺看主とされた。人手不足ということで、わずか一年未満。
松見寺についてはこちら↓
江戸南町奉行所は、転が虚無僧になっていることをつきとめ、友鵞が宗義上の用事で京都の明暗寺への出張の途中、書状を飛脚屋佐右衛門方へ預けに江戸に立ち寄ったところを襲われた。
かねてより町奉行の筒井政憲に仙石道之助より召し捕らえの依頼があったのだ。
友鵞の身柄については寺社奉行が扱うのが筋であるため、筒井は友鵞を仙石家に引き渡すことを寺社奉行の井上正春に報告した。
南町奉行所、転に対する尋問はじめる。
咎人をかくまった疑いで一月寺を呼び出す。
次いで、転の保証人となった転の妻の兄大須賀金右衛門を呼び出して事情ただす。
一月寺は寺社奉行の管轄下にある虚無僧を町奉行所が捕らえたとは筋違いであると抗議。
けれども町奉行所はこれに耳にかさず、主家に対して不届きにかどのある者を身元もよく確かめず入寺を許し、役僧にまで取り立てたとはいかがわしいといって、かえって同寺を糾問する始末であった。このまま引き下がれば一月寺はその非を認めたことになる。
瀬兵衛の悪霊が乗り遷ったかのように、これから一月寺役僧愛璿の大活躍がはじまる。
寺社奉行へ訴状提出。
神谷転の災厄と普化宗の由緒である『慶長之掟書』と危急存亡とをからませて、たくみに寺社奉行の出馬を要請。
『慶長之掟書』について詳しくはこちら↓
幕府の介入はじまる。
当時、仙石家の内紛は江戸でもかなりの噂になっていた。
寺社奉行吟味調役の川路聖謨は、左京が道之助に名をかりて友鵞を極刑に処そうとしているに違いないと考え、左京一同を奉行所において糾弾する必要があると訴えた。
当時の寺社奉行 脇坂中務大輔安重は将軍家斉に認められ、川路はこの脇坂に才能を認められる。
一月寺の愛璿は、転の書き残していた書状、瀬兵衛の上書の写し、風聞書も寺社奉行へ提出。風聞書は出石の情報を得る為に密偵を派遣したと願書の中で述べていた。報告者、岡孝蔵。風聞書は左京は老公久道を毒殺し、現藩主をも毒殺しようとたくらんでいると述べている。
→このようことはなかったことは明らかなのに、この風聞書は惹き付けるものがあった。
神谷転の身柄引き取りが遅れている間に、出石藩に対する内偵が徐々に進んでいるらしいとの情報は刻々と出石へ伝えられていたことであろう。焦りの色を濃くした出石では、幕府への要路への工作を決意。十一人の処罰理由を説明した文書を配布することにした。これを「手続書」という。多数の者が昼夜兼業で書き上げた。しかし左京らの努力は空しく終わる。
久道の正妻常真院の愚痴話から、出石藩内紛のことは将軍に通じていた。常真院は姫路藩酒井家の出身で、酒井忠学が将軍家斉の息女喜代姫を妻に迎え、将軍家と縁故となった。同家へ里帰りの際、忠学夫妻に左京政権によって味わわされた屈辱の鬱憤を打ち明けたのであろう。詫び状の著名のことなど。この話を喜代姫は父親である将軍家斉に告げた。
愚痴話を聞かされていた家斉は、仙石家の内紛に対し最初から左京は黒と決めてかかっていた。
将軍と寺社奉行の間には、水野越前守忠邦が介在していた。
→後に天保の改革をする人。強烈な政治的野心の持ち主。
水野忠邦は、病死した水野出羽守忠成の後任として入閣。
老中首座・勝手掛りを引き継いだ松平康任が疎ましい存在であった。
そして、寺社奉行、脇坂安重も出世にひそかな大望。
仙石家の内紛は幕閣の権力争いに舞台を提供することになる。
1835年 天保六年八月 仙石一族は江戸に召還される。
出石からはるばる一族やってきます。
当然、荒木玄蕃・仙石主計・酒匂清兵衛らは罪人として、左京派は重臣として待遇もそのような扱いで江戸に来た。
再審、11月21日にはじまり、28日に終わる。
12月9日 水野忠邦老中が裁許結果公表、
獄門 仙石左京!!!
幕府裁許の人名
獄門・死罪を言い渡された仙石左京・岩田静馬・宇野甚助に対する刑は、公表と同じ日に、鈴が森(品川)において執行された。
公表当日に執行😱
獄門とは、江戸時代における刑罰の一種。晒し首の事。
刑罰は平安時代頃からあり、平安京の左右にあった獄(牢獄)の門前に斬首された罪人の首を晒した事が「獄門」の語源であると言われているそうな。
道之助にお咎めはなかったが、仙石家は五万八千石から三万石に減知という重い処罰が申し渡された。
まとめ。
その後の事も宿南保著の『仙石騒動』に詳しく書かれています。
是非お読み下さい。
結局、よみがえる左京路線。そして巡る悲劇…。
そして第二の仙石騒動が起きるのでした!
因に『慶長之掟書』が偽物と認定されたのは弘化四年(1847)。
この当時は、愛璿も幕府の役人らも寺社奉行まで、この掟は家康がたてて虚無僧寺に下付したものと信じていた。と、いうことになっておりますが、森田洋平著『新虚無僧雑記』によると、水野忠邦が老中を辞めてから、この御掟書を否定する”弘化の触れ”が出されたとのこと。
それより早く、一月寺、鈴法寺に通達すべく触れが用意されていたが、水野忠邦の手で押さえられていたという案文もあるそうな。
うーん、権力って怖い。。。
以上、
『仙石騒動』仙石左京が獄門になるまでのザッと年表でした!
続編もあります♪↓