関東系虚無僧寺院☆一月寺・鈴法寺の開創縁起を読み解く!
明暗寺系列の縁起本、『虚霊山明暗寺縁起』(1735)と『虚鐸伝記』(1795)によると、法燈国師とその門下の寄竹(のち虚竹)が普化尺八の元祖となっている。
ところが、関東系虚無僧寺院、一月寺・鈴法寺縁起には、寄竹の名前は一切無い。では誰が開祖なのか?!
それは江戸中期の明和年間(1764-72)に宮地一閑がまとめ、文化10年(1813)開版された『尺八筆記』に書かれている。
今回は、その『尺八筆記』から開創縁起部分を抜粋し、読み解いていきます。
著者、
宮地一閑
とは、
まずは
一月寺の縁起!
【人王】にんおう(人皇) 神代に対し、人代になってからの天皇のこと。神武天皇以後の天皇。
〈翻訳〉
一月寺は1258年、金先古山禅師の開基である。
1507年、有夢禅師の代に、靳先の二百五十年忌の時に靳先を金先と改める。
由来は、1249−56年の頃、興国寺の法燈国師が宋からの帰国の際に、普化禅師の法流を伝える宝伏・理正・宗恕・国佐の四人の中国人居士を同行した事からはじまる。
〈ちょっと気になる〉
1258年、金先古山禅師の開基であるとあるのに「靳先」という文字が一度も登場無いまま、靳先を金先改めるとあるのが謎。
中塚竹禅著の『琴古流尺八史観』によると、鎮州(現在の河北省石家荘市一帯)出身は、宝伏と宗恕(僧恕)、斉州(今の山東州)出身は国佐、幽州(現在の河北省・遼寧省・北京市・天津市を中心とする地域)出身は理正だそうです。この出典元は不明。
【行住坐臥】ぎょうじゅう-ざが 日常の立ち居振る舞いのこと。 転じて、ふだん・常々の意。
【準擬】 じゅん‐ぎ 他のものを手本にしてまねること。また、仮に他のものに見立てること。
【翰(筆)を 染める】 筆に墨を含ませる。
【法筵】ほう‐えん 仏語。仏法を説く所。説法の席。経典を講じたり、法話したりする集まり。また、法事の席。法座。
【留錫】りゅう‐しゃく 《錫杖しゃくじょうを留める意から》僧が行脚中に一時、他の寺院に滞在すること。また、その僧。
【萬境】 私達を取り巻く全ての環境
【素志】そし 平素から抱いている志。以前からもっている希望。
〈翻訳〉
四居士のうち宝伏は、一人山城宇治の里に庵を構え、普化禅を広める為に専ら尺八を吹き、普化禅の弘道を広めることに努力をしていた。
(ココまでは虚鐸伝記や虚霊山縁起とほぼ同じ)
ある中秋の夜、宇治川の河辺を徘徊し一曲吹いていると、雲が晴れ渡り月光が川面を照らし、金龍波に踊るのに似ていたのを見たので「一天清光満地金龍躍波(晴れ晴れとした一日 黄金の龍が波を飛び越える)」と書いた。
そのころ、法燈国師の会下に金先という者がいて、宝伏の布教活動に連れられ共に尺八を吹いていた。金先はとても変わっていて、人々は彼を普化と呼んだ。その後二人は行脚の修行に出て諸国を廻り、その頃広原であった下総小金に至り、ここは良い所だと 行脚の途中で留まった。その後宝伏が亡くなり、金先は一庵を造立した。これを宝伏の遺言により金竜山一月寺とした。月は一輪にして全てを照らす普化の異名を取って寺を一月寺と号し、普化を祖として、尺八を吹き、宝伏の志しを伝える事を望んだ。
〈ちょっと気になる〉
「万里雲が晴れ月光が川面を照らし、金龍波に踊るのに似たり」の辺りは『虚鐸伝記』の寄竹の見た夢に似ていますね。
法燈国師の弟子に、もういきなり普化と呼ばれる金先が現れるのですが、どんな人だったか気になります。高橋空山著『普化宗小史』によると、彼は宋人で、四明の普陀山にいたともいうそうな。こちらも出典元不明。
「月は一輪にして万境を照らす普化の異名を取って寺を一月寺と号す」とありますが、そう言う異名があったのかな…?
【天機】てん‐き 天地の秘密。造化の機密。自然の神秘。比喩的に、奥深い機密、重大な秘密の意にもいう。
【叡信】えい‐しん 天子が神または仏を信じ尊び、従われること。また、その信じる心。天皇の信仰。
【宸翰】しんかん 天皇自筆の文書のこと。
〈翻訳〉
1258年の春3月、天皇の仰せによって皇居に参上し尺八を奏し、恐れ多くも禅師号を賜い、天皇直々に山号寺号の金龍山寺一月寺も賜る。
同年10月13日金先寂す。その徒(鼓岩了波居士)は金先の意志を継ぎ二世の住職となる。
北条経時が堂塔を造営し、霊仏庄園を寄付する。又、三浦の一族、戸部氏が間違いを犯し世帯を没収され、彼の会下に来てその理由を語る。彼はこれを憐れみ、尺八を授けて行脚修行を送る。戸部は再び帰る。これは当宗にて、武士を匿うことの始まりである。その後、北条の俸給も抱え、1590年小金城没落の時(北条氏滅亡)一月寺も破壊し今の地に移る。
〈ちょっと気になる〉
これは当然、突然登場の北条経時ですね。
そして戸部氏が寺に逃げてきて尺八渡され行脚修業するのが、浪人を匿うことの始まりと『慶長の掟書』とはまた別の理由付けがされている。
ここで登場の、
北条経時
とは!
1224年生 - 1246年没。鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権。第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。北条泰時は2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場していましたね。経時は彼の孫ということです。
政権運営わずか4年。23歳の若さで没する。
若くて亡くなったせいか、武将としての功績がなく、歴史的人物としての登場は少ないようです。経時について詳しくはこちらのサイトをどうぞ↓
https://manareki.com/hojo_tunetoki
高橋空山著『普化宗小史』によると、
「本尊。(中略) 矢根不動。良弁作。源為朝所持のを北条経時が寄進」
と、北条経時が登場している。
『尺八筆記』には「北条経時が堂塔を造営し、霊仏庄園を寄付する」とあるが、高橋空山によると、荘園を与えたのは鼓岩了波の頃の、北条長時(在職1256−64)とある。
三浦一族に関しては「1260年に三浦一族の戸部某が、事あって領地を幕府から取り上げられ、一月寺の宗徒となったが、後に北条時頼(在職1246−56)の時に許されて元の主の許に帰った」とある。北条時頼は経時の弟。
少し年代がずれているがこれくらいは許容範囲か…。
いずれにしても、時の権力者、北条氏得宗家の一門を登場させて、しかも早世の北条経時の名前を使い権威付けしたことがわかります。
『尺八筆記』の一月寺縁起を年表にすると、
1254年
法燈国師、四居士らを伴って帰朝。その後、宝伏は宇治に庵を構え、その後、金先と諸国行脚の末、下総に逗留。
↓
宝伏没する。
↓
金先、庵を構え宝伏の遺言により一月寺とする。
1258年
金先は皇居に参上し尺八を奏し、天皇直々に山号寺号の金龍山寺一月寺も賜る。
金先古山禅師、寂す。
激動の五年間ですね。
実は、
法燈国師が入宋(1249年)する前に経時は没している(1246年)!
というかなり大きなズレがありますが…。
虚無僧縁起あるある、かな。
…と、散々読み解いてきましたが、ここまではもちろん伝説。一月寺の創立は、森田洋平著『新虚無僧雑記』によると、1595〜1629年の間で、寺名は一月という地名から名付けられた。創立当初の敷地敷地は、五間×九間という、寺院の敷地としてはまことに狭隘の地であったそうな。
続いて、
鈴法寺の縁起!
…とこれだけなので鈴法寺に関しては、ちょっと簡単。
値賀笋童著『伝統古典尺八覚え書』によると、活惣了は金先の門人となっている。いずれにせよ、元をたどれば宝伏ではある。
各寺の系列を図式にすると、
と、言うことで、
一月寺・鈴法寺の縁起は、由良興国寺の開祖法燈国師が、宋からの帰朝の際に連れて来た四人の四居士、宝伏からはじまる。
そしてその後、全国に、
金先派は20ヶ寺、活惣派は15ヶ寺の末寺が出来る事となる。
因に、普化尺八の法燈国師起源説は、
栗原広太『尺八史孝』(1912)、中塚竹禅『琴古流尺八史観』(1937)、上野堅実『尺八の歴史』(1983)などによって、史実ではないことが論証されており、尺八が日本に法燈国師によって渡来したという説は虚構ということになっている。
一番古い、明暗寺系列の縁起本『虚霊山明暗寺縁起』(1735)には、法燈国師帰国の際、普化禅師を祖とし、尺八を法器とする四居士を連れ帰ったとされ、
次に書かれた『尺八筆記』では、法燈国師が連れて来た四居士が普化禅師の法流であると書かれている。いずれも、普化禅師は尺八は吹かなかったのに、なんの脈絡もなく、普化禅を広める為に尺八を吹いたとなっている。
そして、最後の『虚鐸伝記』(1795)には、張伯という人物が普化禅師の鐸の音を笛にうつし、その十六代後の子孫張参が、宋に留学中の法燈国師に虚鐸を教えたという事になっている。登場人物が増え、『虚鐸伝記』ではかなり色んな出来事が起き想像力が増しています。
なにはともあれ、法燈国師と尺八を結びつけなければいけない何か、もしくは間接的な繋がりがあったのでしょう。
いつの時代でも、一定数の人々の中に禅ブームというものがあり、それが今では海外に人気があるというのを、1700年代にこの『縁起』を考えついた誰かに想像できたでしょうか。
さて、法燈国師が帰朝した際に連れて来た四居士たちは、興国寺に滞在したわけですが、その庵室を広化庵というそうです。その遺跡はどこにもないそうですが、興国寺の裏山に今でも普化谷というところがあって、その昔、四居士が住んでいたと云い伝えられているそうな。
中塚竹禅によると、その広化庵には、決闘をした御所の警衛官の命を救ったという、宝伏の言い伝えがあるとのこと。
京都の御所に於いて、禁裏(御所)警衛の士、安藤左衛門尉と藤原隼人佐の両名が何かの事で大口論を始めた。その時は折よく仲へ入る人があり、一旦は収まったが、収まらぬのは隼人佐。その夜、無理矢理に安藤を藤森というところに誘い出し、決闘を申し入れた。安藤も迷惑とは思ったが、降りかかる火の粉は払わねばならず、とうとう隼人佐と刃を交える事になり、遂に彼を斃おしてしまった。
1200年代に「尉」「左」と名前の後ろについていたのかどうか分かりませんが(中塚竹禅が分かりやすく書き直したか)軍隊の階級では、
大元帥>元帥>大将>中将>少将>准将>大佐>中佐>少佐>准佐>大尉> 中尉>少尉>准尉>曹長>軍曹>伍長>兵長>上等兵>一等兵>二等兵
の順番だそうで、安藤は上官の藤原を殺してしまったわけですね。そりゃ大変だ。
そこで、安藤はそのまま由良の興国寺内の広化庵に駆け込み、宝伏居士に事情を打ち明けて、事件の顛末を物語った。宝伏居士はそれは捨て置き難いというので、早速上洛、安藤の助命を乞いましたが中々許されない。やむを得ず、宝伏居士、安藤の首を斬る前に先ず、この宝伏の首を斬って貰いたいと申し入れたのであった。その熱心にして且つ真剣なる願いを、恐れ多くも後深草天皇は聴き召され、普化禅を奉ずる宝伏の大慈悲に御感斜めならず(感心して)、遂に彼の願通り安藤の助命の件をお赦しになったとのこと。
宝伏、良い人ですね。
縁起の冒頭から登場していて、ここでまた登場する
後深草天皇 (1243 - 1304)
とは、
天皇が一居士の言う事を聞いてくれるとは、宝伏、よっぽどの人だったに違いない。
というか、ホントかいなと突っ込みたくなる話ですが、法燈国師が連れてきた外国からの来賓でもありますからねぇ。
宝伏以外の居士たちについては事情が明らかではありません。残念。
ということで、
一月寺・鈴法寺の縁起は、
宝伏による!
と、いうことでした。
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇