
もしもデジタル庁長官が『豊臣秀吉』だったら
あなたは、こんなバカげた『たられば』を考えたことはないだろうか?
もしも、今の時代に織田信長が生きていたら。
もしも、外交官が坂本龍馬だとしたら。
もしも一万円札ではなく、本当にこの令和の時代に渋沢栄一が再誕してくれたら。
実際に、2020年に出版された『もしも徳川家康が総理大臣になったら』というビジネス小説は、発行部数17万部を超え、今年の2024年7月には映画化にまでなっている。
しかし、これらの社会の反応は、一作品としての評価の他に、現代の人々が『現代の政治』に対して不平や不満、懐疑的な想いを抱いているということを助長した結果という見方も、もしかしたらできるのではないだろうか。
この令和の大SNS戦国時代では、『海外のプラットフォーム』に個人や中小企業、ベンチャー企業だけでなく大企業や政治家、各省庁までもが依存している日本。すべての国民のだれもが『海外のプラットフォーム』を使うことに夢中で、使いこなせれば正義・優秀、使いこなせなければ悪・無能という区別までされている状況にある。
そんな状況の中で、社会科講師である私はある時ふとこんなことを考えた。
『もしも、この国のデジタル庁長官が豊臣秀吉だったらどんな国になっていたのだろうか』

豊臣秀吉は、足軽から天下人にまでに昇竜した人たらしとして有名ではあるが、そこには彼の持つ先見の明と日本国内だけでなく、世界を相手にする視野の広さと度胸、統治力が隠されている。
幼少のころ、数多いる武将の中で、当時は鬼神ではなく「うつけ」と揶揄されていた織田信長の下につくことを選び、信長亡き後、天下統一を成し遂げた秀吉はだれよりも早くスペイン・ポルトガルの愚行を察知し、伴天連追放令を発令。20万人もの兵を朝鮮へと出兵させた。
こうして天正、文禄、慶長と、世が何度も変わろうとも、その柔軟かつ迅速な決断力と先を見通す先見の明で時代をリードしてきたのだ。
しかし、彼の持つ信念の軸には、いつの世も変わらずこの日の本を誰にも明け渡さないという強い愛国心があった。
当時、世界最新鋭の技術で作られた銃を日本刀と弓矢のみしか見たことのない状態で、たったの6年で強力な魔改造を成し遂げ、数万丁も流通させた日本人を統治し、そんな彼らの上に立っていた彼が、現在の日本でデジタル庁長官になればどうなっていただろうか。
おそらく、現在のように海外プラットフォームに依存しきった状態には決してなってはいなかっただろう。
GoogleにAmazon、X、Netflix。
これ以上に便利で、これ以上の巨大なプラットフォームはない。
そう言って、これらに頼るだけの日本になっていなかったのではないだろうか。
「海外のプラットフォームに依存する」ということは、ある意味、他国に統治されていることと同じであり、他人のふんどしで相撲を取っている状況と言い換えることができる。だからこそ、
『もしも、彼らのサービスが終了したら・・・』
『もしも、彼らのサーバーがハッキングされたら・・・』
『もしも、日本がサービスの対象外になってしまったら・・・』
他人のふんどしで相撲を取っている状況では、こうした不安がいつまでも付きまとってしまう。
それが今の現状であり、そんな状況を豊臣秀吉が見たらどう思うだろうか。
いや、豊臣秀吉だけではない。
織田信長、徳川家康。島津義弘、毛利元就、武田信玄、上杉謙信。
幕末であれば、徳川家茂・慶喜公、松平容保、勝海舟、岩倉具視に三条実美、後藤象二郎や岩崎弥太郎、坂本龍馬。
日本という国を背負ってきた彼らは、何を思い、何を感じるのだろうか。
すくなくとも私は、私達が置かれている現状を今一度見つめ直さなくてはいけないような気がしている。
執筆:社会科講師E(かすみの舎 日本史講師)
編集・校正:大窪(かすみの舎 塾長)