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①敵は煩悩寺にありぃッ!
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〇
お釈迦さまは言いました。
まだ入門したての門弟から「私たち人間が持てる色欲は、忌むべき『毒』でしょうか?」と問われたときのことです。
仏さまは「邪淫の道を進むなかれ。炎は自らの内に収めよ」と仰いました。「婦人の姿ばかりに目を輝かせ、淫らな思いに耽ってはならぬ。不邪淫戒を己が道標とし、心に巣食う毒を抜くべし」と。
食欲や睡眠欲と並んで、性欲も三代欲求の一つ。
強い欲に心とらわれることは『緊縛』と呼ばれ、ひとを深い迷いの状態へと陥れる毒のごとき道。
邪淫の道は、迷いの道です。正しい道を進むための道標——五戒の一つに数えられる『不邪淫』をもって、お釈迦さまは自身の御弟子さまに正道を説きました。「けっして姦淫するなかれ。みだらな行為は邪とすべし」と。
お釈迦さまは言いました。
とある資産家から「是非ともウチの娘と結婚しないか?」と勧められたときのことです。
釈尊は娘を見て「この糞尿に満ちた小娘が、いったい何だと言うんだ」と仰いました。「お断りする。私は糞袋の足にすら触れたくない」と。
娘は近所でも評判の美女でしたが、お釈迦さまはキッパリ断りました。己が心に渦巻く欲を断つため、女性との接触を拒んだのです。
まぁ、ひどい話だけど。
さすがに「ちょっと言い過ぎじゃない?」と思うよね。「そこまで言わなくっても……」ってね。
せっかくの縁談を断っただけじゃなくって、相手の娘さんを『糞尿』呼ばわりしたお釈迦さま。「糞袋の足にすら触れたくない」とか、女性にかける言葉としてヒドすぎるでしょ。時代が時代だったら名誉毀損の罪に問われるかもですね。罰金ちゃりんこ、手錠がちゃんこ。
かつて、お釈迦さまは言いました。
とある会議の席で何人かのバラモンらと共に、寺の僧服について話していたときのことだそうです。かの聖人は「これからの時代においては、水着を僧服にすべきである」と仰いました。「目下もっとも憂うべき問題は、女僧らの水着の不着用にある」と。
や、言ってません。
お釈迦さま全然そんなこと仰ってませんから。多分ね、たぶん。
いくらなんでも煩悩にまみれ過ぎでしょ。いったいどこぞの尼さんが水着姿で奉公すると言うのですか。いかがわしい匂いプンプンのお寺なんですけどぉー?
ぜぇ〜ったい脚色されてるよね。
お釈迦さまが生前に口にした有り難い御言葉を、脚色という名のペンキで上塗りしまくってるでしょ。
それはもう、もともとの原型とどめてないくらいに。上塗りないし重ね塗りに関して右に出るものは居ないとさえ言われる、日本の漆塗り職人さんもビックリ仰天☆しちゃうくらいベッタベタに脚色ペンキを塗りたくってる姿がありありと想像できちゃいますね。できちゃいません。
まったくもって不敬。冒涜ここに極まれり。
きっと仏陀さまだって、仏塔の中で泣いてるよ。仏教の開祖に対する敬意が足りないのではなくってー?
他人の言葉を拡大解釈して、勝手に脚色しちゃダメだよ。仏教徒なら "ありのまま" を後世に伝えなくっちゃ。あるがままを書き記すのが、仏教徒らしい姿勢だと思うし。お釈迦さまの名誉が地に落ちたら、あなたたち弟子のせいなんだからねー?
まぁ、それはさておき。
煩悩を取り払うことこそ、ひとが進むべき正しい道。
邪な思いに頓と囚われることなく、清き思いで道の先を明るく照らす。まるで、頭上に掲げた提灯が辺りを照らすかのように。
仏の教えは神の教え。
お釈迦さまが「水着を着なさい」と言えば、あたしたちは喜んでビキニを着なくっちゃダメ。
僧服に水着指定とかマジ頭ぶっ飛んでると思うけど、いち僧侶ごときが仏さまの教えに逆らうわけにもいかず。意気揚々と『不邪淫戒』を説いた、さっきの件は何だったのでしょう。おエライさんたちの下心ありありだと思うんですけど?
もし肌の露出が多いビキニに抵抗感あるなら、露出ひかえめなワンピース型の水着でも問題ナシ。ビスチェでシッカリ胸をホールドすると安心感あるし、ハイネックでヘルシーな印象に仕上げるのも全然アリだよ。スカート部分にフリル付きだと尚更いいよね。あ、いちおうスク水も可。マニアにはウケるはず。多分ね、たぶん。
まぁ、注意は必要だろうけど。
お巡りさんには特に警戒しなきゃかもね。正義という国家権力の名のもとに、ブタ箱ぶち込まれる可能性あるからね。
性に目覚め始めた男子中学生みたいなノリで己が性欲をぶつけて、残りの人生を鉄格子の向こう側で過ごすことにならないよう注意です。手錠ガチャンコからの、牢屋ガシャンコですよ。はい、合掌。
ともかく、水着は正装。
邪な気持ちなんて一切ないんだから。ほんと皆無、皆無ですよ。
ビジネスのシーンで言うと、スーツみたいなものだから。お寺で奉公する僧侶みんなにとって、水着は世間と決別するための修行着なの。
まぁ、ちょっとだけクレイジー過ぎる風習かもだけど。世間の目があたしの心に突き刺さる。あ痛たたたたっ。
「……」
朝の合掌。
あたしは寝ぼけ眼をこすりつつ、その場に正座して手を合わせた。
日の出の方向に向かって拝んだのちに、スッと立ち上がって布団に手を伸ばす。布団を畳んで押入れにしまい込み、あたしは普段どおり朝支度を進めた。お決まりの所作のときでさえ、一挙手一投足に集中して気を配る。なんだかんだ言っても、あたしも尼さんだからね。
朝のルーティーンを終えて、あたしは小さく一息ついた。
「ふぅっ」
あたしは部屋の戸を開け、吹き放しの廊下へと出た。
自室を後にして表へと出たとたん、早朝の澄んだ空気が身体を包み込んだ。柱の間から覗き見るようにして、あたしは頭上にある空を見上げた。
「ん、いい天気ー……」
お天道さまが山間から顔を出している。
薄明るい光が辺りに降りそそぐ。まだ日は出きっていないものの、すっかり寺の外は白み始めている。
朝が来る。
ようやく日が昇り、お寺が朝に溶ける。
陽の光を受けるヤシの木。朝を知らせる小鳥のさえずり。朝日に満たされた境内には、ほんのりと潮の香りがただよう。
心に巣食う煩悩を断ち切るべく、あたしは今日も僧服に袖を通す。
【第一章】煩悩寺は変
朝。
お寺。
淡い朝焼け。
青い空に白い雲。境内にはヤシの木。
起きたばかりの朝の日差しが、ひと気のないお寺に振りそそぐ。
木々の枝先を揺らす風。夏の風に吹かれた緑がガサガサと木擦れの音を立てた。あたしの肌を滑るように撫でる朝の風は、日中よりも冷気を帯びていて気持ちいい。
小鳥の鳴き声。
そっと耳をすませば、小鳥のさえずりが聞こえる。
朝の訪れを知らせるゼクエンツが、まだ少しだけ眠たげな境内に溶けていく。囁きのような木擦れの音に混じって、小鳥の鳴き声が寺院内に溶けていく。ちゅんちゅん、ちちち(※鳥の鳴き声)。
坐禅。
縁側で正座。
そっと坐禅を組んで、縁側で正座するあたし。
日向ぼっこを兼ねた瞑想の時間。ポカポカした朝の日差しを浴びながら、縁側に座って乱れた心を落ち着かせた。りらっくす。
お日さまを浴びるの、すっごく気持ちいい。朝の日光浴はサイコーなのです。
正直、このまま寝ちゃいそう。降りそそぐ陽の光がポカポカあったかくて、目をつむったまま眠りに落ちちゃいそうな感じ。
日々の習慣。科学的なお墨付きが出たマインドフルネスの実践は、あたしたちのようなお寺に奉公する僧侶にとって毎日の日課。心を落ち着けるための修行の一環として、瞑想を朝の早い時間におこなうことが義務付けられている。
瞑想は『忘我』へ至るために有効な修行法のひとつ。
じっさいに、瞑想と『自己への囚われ』を調べた研究によると、長期間にわたってマインドフルネスを習慣的に行っている人のほうが、俗に言う「心ここに在らず」の状態に陥ったとき活性化する脳のエリアが沈静化する傾向にあったのだそう。神経科学で『デフォルト・モード・ネットワーク』って呼ばれてる領域だね。
言ってみれば「脳内の嵐が止む」みたいなものです。あれれ、あたしってば比喩の天才かも?
具体的に言うと、服内側前頭前野と後部帯状皮質などの活動が弱まり、より物事に集中できるようになったり不快感に囚われにくくなる傾向にあった。その一方で、瞑想によって背外側前頭前野と後部帯状皮質の結びつきが強固になり、自分の心に目を向ける『セルフ・モニタリング』をおこないやすくなったのだそう。
瞑想は心の眼を養う。
心眼を身につけるためには、日頃からの瞑想が欠かせない。
仏教ではセルフ・モニタリングのことを『内観』って言うよね。「心の内側を観る」から、内観って呼ばれてるらしい。「まさに」って感じの名付けだね。昔の人のネーミング・センスに脱帽です。はい、合掌。
雑念を払い、忘我に至る。
もちろん、瞑想は修行僧だけのものじゃない。一般人にもマインドフルネスはオススメです。
たとえば、習慣的な瞑想と集中力の改善を調べた研究では、被験者に1日20分かつ5日間のマインドフルネスを指示したところ、実験終了後には参加者の注意力が大幅に改善したり交感神経の活動が沈静化する傾向にあったのだそう。かんたんに言うと、瞑想のおかげで「以前より集中しやすくなった」んだって。
日頃から瞑想をやってると、注意散漫になりにくくなる。
ほかの人の話にシッカリ耳を傾けられるし、なにより目の前の仕事に集中しやすくなる。習慣的なマインドフルネスが『傾聴』と『生産性』をプレゼントしてくれる。あれれ、あたしってばマジ比喩の天才じゃなぁ〜い?
実際お寺で数年〜十数年も修行を積んだお坊さんって、一般の人よりもスムーズに脳から『γ波』を出せるんだって。
γ波は集中してるときに出る脳波だから、ようは「集中モードに入りやすい」ってこと。熟練の修行僧は『集中の達人』でもあるんだね。わぁ、すごぉ〜い。
なんだかんだ言っても、あたしだって修行僧の一人。
自分の心をダイヤモンドみたいに磨き上げるべく、みずから世間から離れて仏の門を叩いた人間だからさ。
たとえ仏の道は険しくとも。なにごとにも動じない不動の心は遠くっても、せめて集中力くらいは手に入れたいところだよね。マサラタウンの近くにいるポッポ捕まえるくらいのノリでゲットしちゃいたいところです。集中力ゲットだぜ。
「……」
座禅。
あたしは正座した状態で手を合わせた。
静かに呼吸に注意を向け、心の嵐を鎮めようと努める。意識が呼吸から逸れたと感じたら、今一度ゆっくりと注意を向けなおす。くり返し心をととのえる。何度でも、何度でも。
落ち着きを取り戻そうと、あたしはそっと目を開けた。
視線の先にはヤシの木。境内を取り囲むように植えられた木々が、朝の日差しを受けて鈍い光沢を放っている。風に吹かれてそよぐ枝葉が木擦れの音を立てる。がさがさ、がさがさっ(注:木擦れの音)。
ふと、あたしは隣に目を向けた。
なにかに誘われるように横目で右隣を見ると、あたしの視線の先ではミレイさんが座禅を組んでいた。まるで熟練の修行僧かのように、微動だにせず手を合わせている。さすが先輩。僧侶の鏡。
あたしよりも二つ先輩のミレイさん。
本人に気取られないよう、こっそりと盗み見るあたし。幸いにもコチラの視線を感じ取られてはいないようで、あいかわらずミレイさんは静かに手を合わせて合掌している。
まるで、気分は覗き魔。
のぞきなんて人生で一度もやったことないけど、水着姿の女性を盗み見るのは若干なり良心が痛む。なんだか変な気分になってくるから不思議だね。
や、ほんとに無いから。
ほんとマジ覗きなんて一回もやったことないんだからねーっ?(必死)
「……」
引き続き、瞑想に没頭する。
座禅しつつ胸の前で手を合わせるも、あたしの集中力は既に彼方へと消ゆ。
まぶたの裏に焼きついたミレイさんの水着姿が、散歩のときの犬さながらに頭のなかを駆けめぐる。こそっと盗み見るにしては、ちょっと刺激が強すぎました。
だ、だめだぁ〜。
ぜんぜん集中できないぃ〜、集中できる気がしないよぉ〜。あたしの注意力かむばっくぅ……。
まったく、注意散漫も甚だしいですわ。このアテクシめ、一応これでも修行僧の端くれなんですけど。日々の雑事を通じて常日頃から精進を重ねる尼さんの一人なんですけどー?
すっかり注意が削がれてしまったあたしは、すぐ隣で瞑想にふけるミレイさんに声をかけた。先輩を巻き込むハタ迷惑な後輩の図。
「あ、あのぉ……せ、せんぱぁい……」
ぱちっと目をあけた先輩は、あたしのほうへ顔を向けた。
「どしたの、リホちゃん?」
「えぇっとぉ、瞑想なさってるところ恐縮なんですけど……」と、あたしは言った。「正直、今更ではあるんですけど……ここのお寺で奉公してる女性の方々って、どうして水着姿でアチコチ歩き回ってるんです?」
ふと周りを見れば、肌色が目にチラつく。
水着姿の女性が数人、境内の庭を歩いている。およそ寺に相応しくない光景が、あたしの目の前に広がっている。
くす、と鼻を鳴らす先輩。
口元に手を当てて微笑む仕草が上品。どことなく貴婦人を思わせる、物腰やわらかな品のある振る舞い。
「あは、ほんと今更だねぇ」とミレイ先輩が言った。「リホちゃん、うちのお寺に来てもう二ヶ月くらい経つのにね。来週で三ヶ月だったかな?」
「まぁ、そうなんですけど……」
「まだ慣れない?」
「えぇ、まぁ。前よりは慣れたと思うんですけど……」と、あたしは言った。「ふと我にかえったときに疑問に思うっていうか、水着姿の女性がウロチョロしてるの異常な光景かなって。まだ少し緊張してるかもです……」
口元を隠すように手を当てて、くすくすと微笑むミレイさん。
「あはは、そっかぁ。うちのお寺に来たばっかりの頃のリホちゃん、壊れかけのロボットみたいにカチコチだったもんねぇ」
「そ、それは、だってぇ……」と、あたしは返した。「そりゃ緊張もしますよ。あたしが寺の門くぐったとたん、みなさん水着で出迎えるんですもん。動揺しないほうが変ですってばぁ……」
「まぁ、気持ちは分かるけどね〜」
あたしから目を逸らして、ミレイさんは庭のほうを見た。陽の光を受けたミレイさんの両目が宝石のようにきらめく。
「このお寺って、海に近いでしょ?」
「は、はい。まぁ、そうですね……」
ミレイさんの視線を辿るように、あたしも境内の庭に目をやった。
視線の先には緑。
ほのかに磯の香りも辺りにただよう。
あたしの目の前には、青と緑が広がっている。スッと背を伸ばすヤシの木が視界に映り込み、ほんのりと香る潮の匂いが鼻腔をくすぐった。ふがふが、はっくしょん(※くしゃみの音)。
お寺から海までの距離、たぶん徒歩五分くらい。
目と鼻の先に海が広がる寺って、だいぶ珍しいような気がするよね。少なくとも、あたしは今まで見たことないかも。
「だからだよ。この辺って暑いもんね?」
ちょこんと首を倒して、ミレイさんが短く言った。あざとい。
「え、えぇっとぉ〜……?」と、あたしは返した。「ご、ごめんなさい。ぜんぜん分かんないですぅ……」
生憎とミレイさんの言葉が理解できず、あたしは正直に「わからない」と伝えた。
や、マジで全然わかんない。
びっくりするくらい分かんないんだけど。なにが『だから』なのです?
海が近くて暑いことと、水着を着て生活すること。まったくと言っていいほど両者がリンクしない。「あれれぇ、水と油かなぁ?」ってくらい結びつかないんですけど。乳化剤はいずこ?
混じり合わないはずの水と油を混ぜ合わせる、魔法のアイテムは何処へ行ってしまったのですぅー?
あたしが首をひねっていると、廊下の奥のほうから軋み音が。
ギシギシと木の床が軋む音に誘われて、あたしはミレイさんの背後に目を向けた。
視線の先には、ひとりの女性。
いっそうグラマラスな女性が、こちらに向かって歩いてくる。さも水着を着るのが当たり前かのように、肌の露出が多めなビキニを身にまといながら。
「おはよう、リホちゃん。ミレイちゃん」
こちらに微笑みかけながら、カレン住職が朝の挨拶をした。
「あ、カレンさん。おはようございます」
凛と通る声に誘われるかのように、ミレイさんは後ろを振りかえった。
くるっと後ろを振り向いて挨拶するミレイさんに続いて、あたしもまたカレン住職に向かって軽く頭を下げて会釈をした。
「お、おはようございます……」
「もうすぐ朝ご飯よぉ」とカレン住職が言った。「そろそろ朝の瞑想は終わりにして、いっしょに食堂に向かいましょう。今朝はフルーツたっぷりのアサイーボウルですって」
「わぁい、やったぁ〜」
とたん、ミレイさんの表情が明るくなった。
カレン住職から朝食のメニューを伝えられるやいなや、ふにゃふにゃと頬を綻ばせて子どものように喜ぶミレイさん。かわいい。あざとい。あざとカワイイ。
ってか、朝から優雅。
どこぞの貴族が食べてそうな朝食なんですけど?
お寺で出てくる朝ご飯にしては、ちょっと優雅すぎる気がしますわ。『たっぷりフルーツのアサイーボウル♡』とか、およそ修行僧が食べる朝食とは思えないメニュー。僧侶は粗食を口にするのが普通なのではなくって?
口元に笑みを浮かべたまま、ミレイさんがコチラを向いた。
「やったね、リホちゃん。朝ご飯が良いって幸せだね〜?」
「そ、そうですね……」と、あたしは返した。「フルーツは消化に良いですから、朝食に出てくると嬉しいかもです。カロリーも低めですし……」
相変わらず笑みを浮かべながら、うんうんと繰り返し頷くミレイさん。肯定&共感を示すジェスチャー。
「ねー、わっかるぅー。朝ご飯って一日の始まりだと思うから、せっかくなら美味しいもの食べたいよねっ」
「は、はひっ。そう、です、ねっ……⁉︎」
こちらに共感を求めるかのように、ずいっと顔を寄せてくるミレイさん。
目の前に迫り来る肌色。
こちらに身体を寄せてくるミレイさんに戸惑い、あたしは思わず上擦ったような声をあげてしまう。マントヒヒ♀にも似たような甲高い声が辺りに溶け出す。
や、知らないけど。
あたし、マントヒヒ♀の声が甲高いとか知らないんだけど。すっごいテキトーなこと言っちゃいましたけども。
「あらぁ、リホちゃ〜ん?」
不思議がるような声に誘われて、あたしはカレン住職のほうを見た。
「は、はい?」
「ちょっと顔が赤いわぁ。のぼせちゃった?」
その場で屈んだカレン住職が、あたしの頬に手を伸ばしてきた。
ずいっと迫り来る肌色。
あたしの視線の先にある大ぶりの桃ふたつが、ふにゅんっと形を変えて自らを主張してくる。まるで、自分の存在を知らしめるかのように。
ち、近いっ。
お二人とも距離が近いですっ。ちょっと近すぎますぅ!
距離感近すぎ注意報発令っ。両親からお姫さまのごとく甘やかされて育てられたがゆえに、他人との距離感ゼロの女友達みたいな距離の近さなんですけどっ。
や、実際そこまでじゃないけどっ。
「あ、ほんとだぁ。お顔ちょっと赤いかもー?」
その場で膝を折ったカレン住職に続いて、ミレイさんもまたコチラに近づいてきた。
「ちょ、おっ……⁉︎」
目の前にある肌色の桃が倍に増えて、あたしは思わず素っ頓狂な声をあげた。とたんにオロオロと狼狽えてしまう。ぱにっくっ!
ミレイさんがそっと手を伸ばした。
あたしの頬に手を当てるカレン住職に倣うかのように、こちらに伸ばした手で前髪をサッとよけるミレイさん。おでこに手を当てて「熱があるかどうか?」を確認しているもよう。
ちなみに、熱はありません。
あたし別にカゼ引いてるとかじゃないですから。
細菌に身体を冒されてるとかじゃなくって、二人の色香に惑わされてるってだけですから。いたって健康体だけど脳みそがゴジラみたいな悲鳴あげてるってだけですからね。あんぎゃー(注:ゴジラの鳴き声)。
「んー、熱はないねぇ。お水でも飲もっかぁ?」
あたしの額に手を当てつつ、ミレイさんが提案してきた。
「そ、そうですねっ。今日も暑くなりそうですから!」
ミレイさんの提案を受けて、だいぶ早口で答えるあたし。まるで、必死に言い訳をする浮気性の旦那のよう。
まぁ、知らないけど。
あたし今までの人生で浮気とかしたことないし。浮気性の夫の気持ちとか全然わかんないし。ほ、ホントなんだからねっ?(必死)
ようやく頬から手を離したカレン住職は、あたしの顔をジッと見つめながら言った。
「朝こそ油断しがちだけど、しっかり水分補給しなきゃ。いつ熱中症になるか分からないもの」
「は、はい。気をつけます」
「あとで、スポーツドリンク用意しておくわぁ」とカレン住職が言った。「お昼頃は30℃近くまで上がるそうだから、お水は小まめに飲むようにしてちょうだいね。無理しちゃダメよぉ?」
「あ、ありがとうございます。カレン住職……」
あたしの言葉を受けてか、苦笑いを浮かべるカレン住職。
「もぅ、リホちゃ〜ん?」とカレン住職が言った。「うちでは役職じゃなくって、名前で呼んでって言ったでしょう?」
ぴんっと人差し指を立てて、こちらに注意を促すカレン住職。
まるで、子どもを嗜めるような声のトーン。やさしく諭すかのように注意を促すカレン住職の隣で、ミレイさんもまた同様に困ったような笑みを浮かべている。
この不肖アテクシめ、なんだか居た堪れない気持ちになってきましたわ?
「す、すみません。か、カレンさんっ……」
焦って口にした言葉は、途中でノドにつっかえた。
ちょっと吃った。ちょっと恥ずかしい。
とたんに、彼氏/彼女のことを初めて名前で呼ぶときみたいな恥ずかしさが込み上げてくる。
付き合って一ヶ月目くらいの学生カップルで、いっちばん初々しい時期にありがちなアレね。「そろそろ名前呼びしたいけど、でも変に思われるのはヤだしぃ〜……」みたいなアレです。アレです、アレですよ。ね、わかるでしょ?
「はい、よろしい」
にっこりと満足げに微笑むカレンさん。
女神のような笑みを浮かべるカレンさんに続いて、すぐ隣に座るミレイさんもまた安心したように笑った。
「うちのお寺にいる間は、役職で呼んじゃダメよぉ」とカレンさんが言った。「イマドキのIT企業を見習って、もっとフレンドリーにいきましょう。ね?」
カレンさんが一つウインクをした。ばちこーん☆
「は、はいっ……」
リアルでウインクする人、あたし生まれて初めて見た。初ウインクです。
基本、ドラマとか映画でしか見ないヤツだよね。
フィクションの世界では見るけど、現実世界で見ることは少ないヤツ。ウインクみたいなキザったい仕草って、だいぶ芝居がかった感じ出ちゃうからさ。やる人を選ぶ仕草かもだね。
だけど、よく似合う。
ウインクするカレンさん、すっごくサマになってる。
カレンさんが纏う雰囲気も相まって、ウインクする姿が結構マッチしてる。
世界一のウインカー(=ウインクする人)を決める『ウインク世界選手権大会(住職の部)』があったら、きっと多分ぶっちぎりでカレンさんがグランプリ取って世間をアッと言わせちゃう案件だよね。
や、知らないけど。
ウインク選手権のこととかマジぜんぜん知らないけどね。ってか、何その選手権?
「さ、ごはん食べに行こっ」
すっくと立ち上がったミレイさんは、あたしの顔を見下ろしながら言った。
「わたし、もうお腹ぺこぺこ〜。瞑想中『おなか鳴っちゃわないかな?』ってヒヤヒヤしたんだからぁ〜」
ミレイさんの言葉を受けて、くすっと微笑むカレンさん。
「あら、元気でいいわぁ」とカレンさんが言った。「ミレイちゃんのお腹の虫が鳴らないうちに、はやいとこ食堂のほうに向かいましょうねぇ。腹が減っては何とやらですから、ね?」
こちらに手を差し出すカレンさん。
あたしは差し出された手を取って、あぐらを崩してから立ち上がった。
「は、はいっ。そうです、ねっ……⁉︎」
その場で立ち上がった拍子に、足にビビビッと電流が走った。
あ、痛たたた。
ちょっとだけ足しびれたかも。
ふくらはぎの辺りがビリビリする。あんまり度が過ぎると産まれたての子鹿みたいに足プルプルするヤツね。ほら、わかるでしょ?
「お、とと……」
若干もたつきながら立ち上がると、ミレイさんもまた手を貸してくれた。二人に支えられながら、なんとか立ち上がるあたし。
「足しびれちゃったかなぁ。だいじょぶ、リホちゃん?」
「だ、大丈夫です」と、あたしは返した。「すみません、お手数おかけして……」
二人の優しさに支えられながら、その場で少し足踏みをするあたし。足の痺れを和らげるための動作。
「んーん、気にしないで。慣れないうちは足しびれるよねー」
ミレイさんの後に、カレンさんも続く。
「じきに慣れると思うわぁ」とカレンさんが言った。「最初こそ大変でしょうけど、だんだん楽になっていくから。いっしょに頑張りましょう、ね?」
菩薩のような二人の慈悲に当てられて、あたしの涙腺がパカっとひらきそうになる。
「あ、ありがとうございます。がんばりますっ」
あたしの精いっぱいの宣誓を受けて、両サイドに立つ二人は揃って微笑んだ。
め、女神かな……?
ここのお寺、お優しい女神さまが二柱も住んでいらっしゃるのでー?
すんでのところでダムの決壊を堪えると、だんだんと両足のしびれも治まってきた。軽く屈伸運動をして足の筋肉を伸ばすと、すっかり痺れは引き潮のように引いていた。
「も、もう大丈夫です。ありがとうございました」
カレンさんが手を離したあとで、ミレイさんもまた同じく手を離した。あたしの身体から二人分の熱が遠ざかっていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
熱が逃げていく寂しさを感じながら、あたしは二人と一緒に廊下を歩き出した。
先頭を歩くミレイさん、真ん中を歩くカレンさん。二人の少し後ろを歩きながら、あたしは庭のほうに目を向けた。表のヤシの木が風に吹かれてガサガサと揺れている。
風にそよぐ木々のざわめきが、あたしの耳をかすめていった。
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