履歴書以上の人になりたい
意外と履歴書に収まっている自分にふと気づいてしまったので。
履歴書を埋めている時には、「あれっこれで私が表現できるのか?」と戸惑っていた。文章にしたら、いや自分が全然大したことないのは分かっていたけれど、それにしてもつまらない。特に興味をひく項目がない。たしかに人柄とか性格で仕事をするわけではないし、職場にお友だちを求めに行くわけでもないんですけれど。ああー、これは埋もれて見られなくて落ちるのわかるな。突っ伏した、かつての私。でも同時に、所詮こんな数値化されてるだけのもの、とも思った。(就活で苦労した負け惜しみです。)
だったのに、だったのに。自己紹介、というときにいつしか「どんな仕事をしています」が私をもっともよく表すものとなってしまった。そして、私もそういう風に、いつの間にか見てしまう。市役所、保育士、美容師、ジム、経理、主婦、などなど。相手がどんな社会人として日常を送っているのかを知ると、その人のつじつまが合うような気がして、安心する。
私には、職業別に、メディアとか親戚とかからの先入観やステレオタイプの情報が植え付けられていて、私は相手をそのフィルターを通して言動を見る。するとその人の余白が埋まっていく。でも同時に私も、そのフィルターを利用している。「こういうタイプの人です」とフィルターを指定することで、そういう人として扱ってもらう。
これは一見楽ちんだけど、次第に首が絞まっていく。職業として望まれる人物像、が無言にプレッシャーをかけてくるからだ。傾向と対策の負の遺産、その枠の中で苦しんでいるのは、もしかして私だけだろうか…。でもおそらくはこれが、履歴書通りの最近の私の原因だと思った。拾ってきた鋳型に自分を合わせてしまっていたのだ。そういえば名刺の表書きが落ち着かなかった頃のことを、ちっとも思い出していない。
履歴書を書きはじめて以来、拾ってきた鋳型に合わせられない私のことは無視して捨ててきたのかもしれない。それは合理的で能率的だけどちょっと不安になるし心配だし、時々悲しく切なくなる。私だけかもしれないが。
拾ってきた鋳型に私を合わせる必要なんかまるでないんだということを教えてくれたのは、職業不詳の先輩と出会ったからだ。先輩の知人であった彼女は、全然「その仕事の人」らしくなかった。(パワフルでお日さまのような方です。)彼女と話をしていたら、拾った鋳型に合わせる必要はないし、捨ててもいい。好きな鋳型を選んでいいし、そもそも鋳型なんてただの鋳型に過ぎない。鋳型の価値は鋳型の以上でも以下でもない、それなのになんで自分が合わせる必要があるのか。意味とか価値を決めるのはあなたでいい。だからあなたがそう決めたなら、たとえば履歴書に書けないことにだって意味はあるのだ。
そして人生の真価はそういうところにある。
と、言われているような気がした。だって彼女は人生を謳歌しているように見えたし、のびのび自由に見えた。もちろん、自由であることが楽なことではないと思うけれど。
私も履歴書以上にいろいろ語れる人になりたいと思った。履歴書頼みになるのではなく。