ぼくの挑戦的フットボール論ー考えた先の無意識
問い続けた先で見えた価値観
これまでのサッカーキャリアを通して、
「すべての現象は自分の選択の積み重ねとしての結果でしかないはずなのに、人や環境のせいにしてしまう自分が嫌だ」
「その人の価値観とか関係なく、勝つためには必要だと言わせる強い選手になってやる」
そんな二つの想いを抱くようになり、圧倒的な個を目指して、生活スタイル、フィジカル、技術、戦術勉強など、考えられるものに手を出してきた。
前十字のリハビリ期間中。
普段であれば抑えきれなかった感情がすっかり影を潜め、客観的にピッチを観察できたことで、サッカーが上手くなる方法、その楽しみ方は、人の数ほど存在することに気付いた。
それと同時に、これまで目指してきた「圧倒的な個」というものは存在せず、それを目指すことは、人のできる域を超えた驕りであるように感じるようになった。
むしろ、自分の力を過信しすぎたその傲慢さが、前十字靭帯損傷という形として表れていたのかもしれない。
このオフは基本的に部屋に篭って、ずっと言葉を吐き出し続けた。
そこで気付いたことは、大事にしていることは自分の形にこだわることではなく、とにかく成長し続けること。
そして、勝つためであればその手段を選ばない一面もあること。
つまり、自己成長や勝利への意志のような自分をつくる根幹のあり方には徹底的なこだわりがあっても、目的のためには自分を変化させる柔軟性はあることに気付いたのだ。
結局のところ、自分が結果を出してチームが勝てばなんでも良いというご都合主義ではあるものの、「結果の出し方」の定義が広がったことで挑戦の質も数も変わる。
勝つために最適化し続ける過程が、ぼくの求める「常に進化し続ける自分」を可能にしてくれる。
身体操作プログラムの書き換え
前十字のリハビリ明けということもあって、身体に関してはいま最も時間を割いている部分。
とはいっても、ネガティブな意味ではなく、リハビリを通して一番伸び代を感じた部分ということもあり、今後の怪我予防などにも繋がる期待感を持っている。
身体の感覚を高めることで、さまざまな部分を使えることだったり、それによって気持ちよく動ける感覚の学習は継続して行っていく。
ぼくにとってこの感覚は、ピッチに立った時に無意識に入るための大事な鍵であり、全身で気持ちよく動ける時は「夢中」に入れる。
それと同時に、これまで勝手な解釈でつくり上げてきた、頭の中の運動プログラムの書き換えも行っていく。
例えば、以下の投稿にあるInverted Rowでの動作。
いままでは胸を棒につけることが目的となっていて、その意識でやるととにかく腕がつらくなる。
ふと昨日のこと、背中の筋肉を収縮させ、その結果として身体が持ち上がるように意識してみたところ、今までとはまったく異なる感覚になった。
その後に軽く走っていたところ、特に背中が使いやすくなったことで、体幹の動きで手足が連動するように感じる。
これは内部操作(見た目は同じ動作でも使う筋肉などが異なったり、動作の始動部位が異なることなど)における変化で、特にキックはかなり練習してきたこともあって、我流になっていることが多いだろう。
ここ数年は、自主練習量を抑えても内転筋に痛みが出たりしていたので、今年は特に意識して見直していきたいところ。
頭と身体のすり合わせ
また、感情のコントロールも動作面には大きく影響している。
一人伸び伸びと、自由にボールに触っている時は柔軟に動けるのに、チーム練習、特に紅白戦のようなゲーム形式になると、途端にリハビリ前のような硬さが戻ってくることがある。
ミスを恐れることであったり、上手くやろうとする気持ちであったり、外から見られる目を意識するさまざまな感情が、動作遂行に影響を及ぼしているのだろう。
こういった側面から考えると、アスリートにとっては鈍感力も武器になると思うが、ぼくの場合はぶっ壊れるまで発揮してしまうため、徹底的な思考と挑戦によって自分のモノとしていきたい。
また、これは先日のnoteにも書いたが、頭の中で考える動作スピードと、実際に身体が動けるスピードの間に差があることにも気付いた。
この時はノートに文字を書く動作で気付いたが、時間的制約のあるピッチ上では尚更ズレが生じることだろう。
まずはさまざまな動作面で自分の傾向を把握し、最も効率的に動ける状態を把握すること。
レベルアップのトレーニングにしても、まずはそこから始めなければ怪我のリスクなどにも繋がるだろう。
余談だが、これらはSunnyさんが元々やっていたトレーニングの考え方だ。
SNSではその変化が映えないと、あまり表には出していなかったが、彼が積極的に表に出してこなかったものこそ、特にある程度の経験則のあるアスリートにとっては大きな変化をもたらすものだったと考えている。(noteは勉強になるので気になる方はこちらから)
考えた先の無意識
ここまではざっくりと、自分自身に関することを述べてきたが、サッカーはチーム競技である。
今年はチーム在籍6年目ということで、これまで所属してきたどのクラブよりも長い経歴となっている中で、
「あなたはもう思っている以上にスフィーダのことはよくよくわかっている」
とのことらしい。
それが果たして本当なのか、やってみなければわからないというよりは納得はできないが、とりあえず求められていること、評価されている部分も明確な体制となった。
腹を括って挑戦できるシーズンにはなるとは思うが、ぼくにとって大切なことは、ここに書いたようなことを何度も何度も、繰り返し問い続けること。
徹底的に分析し、自分に馴染むまで考えられた言葉を用いながら、いま実際に、目の前で起きているかのような解像度で勝利のイメージを描く。
もちろんその道に完璧はなく、大切なのは「それまでの過程」に自信を持つことで、ピッチではなにも考えなくても良い状態にすること。
考える時間、迷いをなくして、常に大胆に、かつ挑戦的に決断し続ける。
その姿勢が勝利への意志を表現し、それを感じて、反応した結果として心が動く。
「観るものの心を動かすフットボール」
これがぼくの考える挑戦的、スフィーダフットボール論。
そして、今年のチームはきっと、チームとしての基準をあげていくことにフォーカスしていくことになるだろう。
ここ数年間はサッカーをほったらかして自分探しばかりだったので、久しぶりにサッカーに没頭してみようと思う。
常に全力で、夢中になるからこそ、経験に主体性が生まれ、成長し続けることができる。
ぼくはただ、ずっと夢中でいたい。