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トロント到着|クィアのカナダ旅行記|水上文

【この連載について】
2023年6月に北米最大級のプライドパレード「トロント・プライド」を訪れ、そこで見聞きしたことを自主制作本としてまとめた著者(同年11月発行『クィアのトロント旅行記』)。本連載では、およそ1年ぶりのトロント再訪と滞在の経験を通し、プライド月間に限らない、カナダのクィアの日常について報告する。個人的な旅行記ではあるが、個人的なことこそ政治的である。カナダの旅を通じて、日本の現況を改めて照らしたい。

 4月22日16時57分、エア・カナダが着陸した。
 わたしには、約10か月ぶりのカナダである。でもあまり実感はなかった。
 およそ14時間に及ぶフライトの末に降り立ったトロント・ピアソン国際空港(オンタリオ州)はごく普通の空港で、飛行機を降りたばかりの疲れ切った身体には、羽田空港とたいした違いがあるように思えなかったから。だって、だだっぴろくて、白くて、スーツケースを持った人がたくさんいて、日本語以外の言語が普段よりも多く聞こえる、ただそれだけの空間だから。
 前を歩く5歳くらいの子が日本語で、「カナダはどこ」と言っている。
 母親らしき人物に「ここがカナダだよ、もう着いたんだよ」と言われても、その子はいぶかし気な顔をしながら「カナダはどこ」と繰り返している。求める答えではなかったようだ。飛行機で眠っている間にカナダに着いたのが不思議なのかもしれないし、「カナダ」が何を指すのかわからないのかもしれない。飛行機による移動という概念そのものが根本的に腑に落ちていなさそうなその子どもに、わたしは共感していた。
 カナダに来た、ということが現実として上手く飲み込めないのだった。
 浮ついたような、どこか地に足がついていないような心持で、それでもともあれ入国審査を突破し、パスポートにスタンプを押してもらって(記念である)、わたしはゲートを出た。待ち構える人々のなかに、目に眩しいような鮮やかな水色の帽子をかぶった人が見える。タマである。タマはわたしを空港まで迎えに来てくれていた。およそ3か月半ぶりの再会だった。わたしはタマに会いに、はるばるカナダまで来たのであった。

 空港からタクシー(リフト)に乗って、タマとわたしはタマの家に向かった。
 タクシーの窓からは、確かに普段見ているものとは別の風景が広がっている。
 広々とはしているもののアスファルト舗装のあちこちにほころびが見え、でこぼことした道路の道沿いに、低い建物が立ち並ぶ。トロントは大都会で、タマの家も中心地からそれほど離れているわけではないのだけど、ぎゅうぎゅうと高層ビルが立ち並んだりはしていないし、どこかのんびりとした大らかな部分がある気がする。
 切れ端のような小さな土地に建物が詰め込まれ、建物は横に伸びられず縦にばかり伸びていき、道行く人がみんなせわしなく張り詰めているような、そんな日本の都会とはずいぶん印象が違う。もちろん植生も違う。住宅地の雰囲気も、ずいぶん違う。
 一軒家と思われる家はたいていの場合、玄関横にベンチが置いてある。ベンチは道路の方を向いている。わたしはそれを見るたび、どうして道行く知らない人の方を向いた形でベンチを置くのだろうと思う。なぜわざわざ自分の家で道路の方を向いて座らなければならないんだろう? 道路から丸見えで本当にくつろげるのだろうか?
 さて、大抵の場合玄関の前には、ドア横のベンチに留まらずちょっとしたスペースがある。花壇になっているところが多いけれど、小学生くらいの子どもが遊びそうな、小さなトランポリンを置いている家もある。時にそれは意見表明の場にもなっているようで、プログレッシブプライドフラッグを立てている家もある。
 プログレッシブプライドフラッグは、クィアのプライドや社会運動のシンボルである。プログレッシブプライドフラッグは、クィアの中でも脇に追いやられがちな有色人種ピープル・オブ・カラーの人々を示す茶色と黒、トランスジェンダーの人々を示すピンクと水色と白を取り入れたデザインである。黒にはHIV/エイズによって失われた人々や、エイズと共に生きる人々を示す意味もこめられているという。要するに、クィアの中でも周縁化されやすい人々の存在とかれらへの連帯をより明確に示した旗なのである。日本では、クィアのプライドや社会運動の象徴といえば6色の虹色の旗が一般的なように思うけれど、カナダで見かける旗は、体感では9割以上がプログレッシブプライドフラッグだった。お店でも見かけるし、玄関前のスペースでも見かけるし、外から見えるようにプログレッシブプライドフラッグのシールをドアに貼っている家もある。日本ではプライドマンスの6月にもほとんど見かけることのない旗を、街中でさえない住宅地でも見かけることが出来るのだ。
 それはもちろん素敵なことだ。
 ただ住宅地のプライドフラッグは、わたしをいささか不安にさせる。見知らぬ人に住居を知られないよう常に警戒するべきで、下着を外には干さないように、名前と住所の入った書類を捨てる時にはわからないように切り刻んでから捨てるように、と言い含められて生きてきたわたしの中の何かが、そのあけっぴろげで堂々とした様子を不安がるのだ。
 悪い妄想が広がりそうになる。こんな風に家にプライドフラッグを立てていて、差別的な人に目をつけられたりしないだろうか? 嫌がらせをされたりしないだろうか? ここにクィアないしアライが住んでいると知られてしまっても大丈夫なのだろうか?
 そういうことが気にかかって、心配になってしまうのだ。
 もちろん、さほど大きな危険はないと考えているからこそ置いているのだろうけど。

 タマの家に着くと、ルームメイトのJが出迎えてくれた。
 Jはケベック州モントリオール出身の、中国系カナダ人の女性である。フランス語圏のモントリオールで生まれ育ったJの第一言語はフランス語で、英語は成人してから習得したらしい。それからJは中国語も話せる。小柄で可愛らしい雰囲気だけど声は低めでかっこよくて、笑い声がとにかくよく響く。満面の笑みでハグしてくれたJに、お土産のバター醤油味のポップコーンを渡して、わたしたちは出かける準備に取り掛かった。
 明日の予報は雨で、明日になったら雨で桜が散ってしまうかもしれない。だから着いてすぐではあるのだけど、わたしたちは近所の公園にお花見へ出かけることにしたのだ。
 疲労がたまっていることは間違いない。でも、わたしは元気だった。すでに18時半ごろになっていたものの、あたりはまだ明るくて、夜には見えないその明るさも、外へ出てみたい気持ちを後押しした。春と夏のトロントの日は長い。日没は20時頃なのだ。
 タマの作ってくれた料理を詰めたお弁当、そしてあたたかいそば茶を入れた水筒をもって、わたしたちは公園へと向かった。
 家から少し離れたところにある公園は、ひとがなかった。
 桜の木は日本のように密集して生えてはいなくて、広場の周囲にぱらぱらと生えていた。満開である。トロントの桜は4月後半の今がちょうど、満開なのである。色はヤマザクラの華やかなピンクではなく、ソメイヨシノのような白に近いピンク色である。いわゆる花見スポットの、さあ見てくれと言わんばかりに計画的に寄せ集められた木々と違って、この公園の桜は気負いなく散らばっていた。枝は垂直方向にまっすぐと生えていて、誰の目もさほど気にすることなく咲き誇り、のびのびとしていた。
 夕暮れと言うにもまだ早いほど空は青い。
 絶好のお花見日和である。でも桜は綺麗だったけれど、何よりもこの場に存在できることがわたしにはうれしかった。わたしはカナダで、何でもないごく普通のこと、観光客としてするのではないことをしたかったのだ。お花見はそれにうってつけだった。
 桜の木の下にはテーブルとベンチがあり、わたしたちはお弁当を広げた。
 お弁当の中身は、アスパラの焼きびたし、金柑コショウ(カナダでは柚子胡椒がやたら高いため、なんとタマは金柑を使って金柑コショウを手作りしているのだ)で味付けされたごぼうとにんじんのサラダ、そして長時間塩ゆでされた豚肉に胡麻油を垂らしたもの。
 薄青い空の端、公園の向こうの木の後ろに金色の日が沈んでゆくのを眺めながら食べるごはんは格別だった。
 ネーミングセンスが壊滅的なタマが「豚の死骸」と呼ぶ、ごろっとした角切りの塩ゆで豚を嚙みしめる。食欲をそそる胡麻油の香りが鼻に抜けて、とろりとした油をまとった肉が口の中で柔らかく溶けていく。塩ゆで豚を食べた後には、ぴりっと爽やかな酸味の金柑コショウで味付けされた、サラダのまろやかさが美味しい。金柑コショウは金柑の皮と緑の唐辛子を細かくすりつぶして、塩と混ぜ、密閉した瓶で熟成させるのだという。わたしが食べたのは四年物くらいらしい。この金柑コショウがごぼうとにんじんの甘味とマヨネーズに絡んで、なんとも癖になる味わいである。それから、良く味のしみこんだシャキシャキした旬のアスパラの焼きびたしの、だし汁香る奥行きのある味でバランスを取るのだ。いつまででも繰り返せるサイクルである。
 少し肌寒いけれど、春の桜もお弁当も素敵で、わたしは幸せだった。特段変わったことをしたわけではないけれど、観光らしい観光もしていないけれど、久しぶりに訪れるカナダの春は穏やかで、ただただ解放感でいっぱいだったのだ。

 でももちろん、あらゆるすべてが穏やかで完璧なはずはないのだった。
 そのことに早速気付かされたのは、トロントに到着した次の日のことである。

 朝のわたしはのんきに幸せな気分でいた。
 なんと言ってもごはんが美味しいのである。この日の朝ごはんは、まずJがモントリオール土産に買ってきてくれたベーグルと、昨日のお弁当で食べた野菜の残り物、それからタマお手製の紫玉ねぎジャム。
 日本でベーグルといえばお餅のようにもちもちした触感が思い浮かぶけれど、モントリオールのベーグルは硬い。オーブンで焼いたベーグルは外側に黒ゴマがまぶされていて、香ばしく、カリッとしていて、中はずっしりと詰まっていて噛み応えがある。ふわふわではなくずっしり、である。そんなベーグルにスライスチーズをのせて、さらにタマお手製の紫玉ねぎジャムものせていただくと、お食事パンとして最高に美味しいのである。
 そしてベーグルを食べ終えると、さらに別のパンが追加で登場する。
 タマがパン種から作ってくれたパンが、焼きあがったのだ。オーブンから取り出した焼き立てパンを切って、バターを溶かしたフライパンに置き、玉ねぎジャムを塗り、その上に昨日の塩ゆで豚を薄く切って乗せ、お手製のマスタードをかける。そしてもう一枚パンを重ねて、グリルプレスでぎゅっと押してこんがりと焼きあげるのだ。豚肉のサンドイッチである。日本のパンのようにとにかくほのかな甘みを追加していくタイプとは違って、武骨でストイックな酸味のある焼き立てのパンが塩ゆで豚によく合い、そこに玉ねぎジャムの甘味とマスタードがスパイスを添える。これがまあとにかく美味しい。
 というわけで、朝からベーグルにサンドイッチにたっぷりと食べてしまった。いささか量が多すぎるような気はしたのだけど、あまりのおいしさに完食してしまったのだった。

 おなかもいっぱいになったところで、わたしたちは朝の散歩に出かけた。
 昨日お花見をした時には、公園に入ってすぐのところしか行かなかったのだけど、今日はその奥まで歩くのだ。歩いていると、思っていた以上に広々としていることがわかる。単に広場がある、といった風情ではなく、公園の中で歩いていると景色が変わるのである。たとえば茶色いむき出しの道の両脇に広々とした緑の芝生があり、運動するのでも、ピクニックをするのでも、なんでも思い思いのことができそうなスペースがあるかと思えば、またしばらく歩くとドッグラン広場のようなものが出現して、様々な犬が自在に駆け回っている。かと思えば芝生が立ち消え、林のようになっているところもある。日本ではなかなか見ない高い木々にはまだ緑が見えず、裸のまま黒々とした枝をさらしていて、犬と犬を連れた人々がにぎやかに交流していたあたりとはずいぶん雰囲気が違う。
 人通りが多くなく、エンタメ性に富んだ部分もなく、ただ広いスペースと自然ばかりがあるような飾り気のないこの公園は、散歩にうってつけだった。変わりゆく景色は歩くにも楽しい。ただそうではなくても、わたしはこの場に行ってみたいと思っていた。なぜならタマが普段からよくこの公園を散歩していて、スマホのビデオ通話越しにわたしはよくこの公園を見ていたから。いつも見ているばかりだった風景に、存在したかったのだ。
 けれども公園は、ただ穏やかなばかりではなかった。
 公園の街路灯には、至るところに人の顔写真のポスターが貼られていたのだ。
 顔写真の左下には、その人物の名前と年齢と思われる文字が記され、右下には、大きな赤い文字で「今すぐ彼らを家に帰せ Bring Them Home NOW.」と刻まれ、さらにその下には小さな黒い文字で「#イスラエルから誘拐された#KidnappedFromIsrael」と書かれている。顔写真の上にも、赤背景に白抜きで「誘拐された KIDNAPPED」と書かれている。その上からかぶせて、「殺害された MURDERED」というシールが貼られているものもある。黒背景に白抜きのその文字が、顔写真の左端を横切る。つまり、2023年10月7日に起きた「悲劇」についてポスター群は語っている。イスラム組織ハマスによって誘拐されたイスラエル人の人質ひとりひとりの顔が、ポスターとして貼られているのだった。
 だから当然、ポスターは一種類ではなくて、いくつもあった。色んな年齢、性別、肌の色の人々がポスターの中からこちらを見つめていた。それはなんとも重苦しい気分になる光景だった。複数のポスターに取り囲まれる場所で、その中のいくつもの顔の左端を「殺害された」が横切っていく様には狼狽させられた。
 ポスターに登場した人々の身に起きた出来事が悲劇であるから、というだけではなくて、何よりそれはイスラエルによるパレスチナ人の虐殺を正当化するべく持ち出される悲劇だったから。「10月7日」をすべての始まりであるかのように強調することによって、イスラエルが行ってきた民族浄化と占領の歴史が覆い隠されるから。
 実際、ポスターが連想させるのはホロコースト、大量死のイメージなのだ。
 ポスターは個々の顔を表示してその個別具体的な個人に起きた悲劇を強調しているようでいて、実のところ同じ構図で入れ替え可能な複数の顔を表示し、集合的な悲劇としてこそそれを表象する。そしてこの種の悲劇を描き出す様は、たとえばホロコーストを扱ったクリスチャン・ボルタンスキーの作品を連想させる。ボルタンスキーの作品——それは個別の死が産業化される大量死に回収されることの悲劇性を喚起するイメージの芸術である。犠牲になったのは他ならない個人であるにもかかわらず、犠牲者が他の誰であってもあり得たこと。大量死の持つ悲劇性とは、そうした犠牲の代替可能性にあるのだ。ポスターが喚起しようとするものはもちろん同種の代替可能性の悲劇であり、ここでのイメージの連なりは、今まさに起きているパレスチナの人々の死を覆い隠すためにこそ呼び出される。個別の死が大量死に回収されるという悲劇が、異なる死、異なる虐殺のさらなる回収を要求しているのだ。
 そしてこうしたイデオロギー的働きをまざまざと実感させるものが、突如として公園に、あるいは街角に出現する。穏やかな春の公園に。のんびりとした散歩のさなかに。
 それは日本で普段生活しているなかでは経験し得ない不穏さだったのだ。
 もちろん日本でもパレスチナを支持するデモは行われているし、以前からずっとイスラエルを非難してきた人々はいる。ただ日本社会の中で、たとえばイスラエルを支持するユダヤ系の人の存在が可視化される機会は多くない。少なくとも、街中でこうしたポスターを見かけはしない。でもカナダは違うのだ。カナダとイスラエルの関係は深い。カナダのトルドー首相については、日本のリベラルの間で、多様性を重んじ、プライドパレードに参加し、過去の先住民の人々に対する抑圧について涙を流して謝罪したという類いのニュースばかりが好意的に伝えられているように思う。でも彼は、イスラエルによるパレスチナ人の虐殺が始まってもイスラエルを止めず、およそ2か月が過ぎるまで停戦を求める国連の決議案に賛成することさえなかった。ここはそういう政府の国だった。ポスターは生きた個人を映し、生きた個人が貼り、そして個人を超えたイデオロギー的働きを作り出しているのだ。
 タマは「このあたりにはユダヤ系の人が多いから」と言う。実際、歩いていると、幾人かキッパ(ユダヤ教徒の伝統的な帽子)を頭にのせた人々を見かけもした。落ち着かない気分は、ポスターが集中的に貼られた場所を過ぎ去るまでちいさな染みのようにそこにあった。ポスターは明らかにある地域には集中的に貼られ、別の地域ではほとんど見かけなくて、存在感に差があったのだ。それは一見して他の場所と変わるところのないその地域を、確かに他から隔てているように思えた。
 ポスターに取り囲まれる経験は、わたしをいささか緊張させた。なぜなら、わたしはいつも金色でかたどられた「フリー・パレスチナ FREE PALESTINE」のピンバッジをつけたトートバッグを持ち歩いていて、この日もそれを持っていたのだから。日本ではつけていても特に不安などないピンバッジが、ここでは違った風に感じられた。
 その時わたしは、到着からたっぷり一日ほど経ってようやく、カナダに来たのだという実感がわいた。ここはカナダで、楽しいばかりではないすべてが、確かな現実なのだった。

【著者略歴】
水上 文(みずかみ・あや)
1992年生まれ、文筆家。主な関心の対象は近現代文学とクィア・フェミニズム批評。文藝と学鐙で「文芸季評」を、朝日新聞で「水上文の文化をクィアする」を連載中。企画・編著に『われらはすでに共にある——反トランス差別ブックレット』(現代書館)。

注記:写真はすべて著者が撮影したものです。

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