人と本気でぶつかれない
あなたやあなたの周りにこういった人はいるだろうか?
・自分の意見よりも他人の意見に合わせてしまう
・誰からも嫌われないように言動にいつも気を遣っている
・人の目や人からどう思われているかがいつも気になる
・八方美人で「いい顔」をせずにはいられない
最近読んだ新書「だれにでも『いい顔』をしてしまう人」の言い方を借りれば、これらは「嫌われたくない症候群」の症例のひとつだ
私自身、この本のタイトルや見出し、目次を見てピンときたのだが、読後の感想も同じである、「まさに私のことが書いてある…」
今回はこの本の内容に沿って、中でも私が気になったワードやトピックを扱って自己分析やテーマについての思考を深めていきたいと思う
人とのつきあいは「接待」と同じ感覚
フロムは有名なドイツの精神科医である
彼は幼少期の母親との関係性、とくに愛情の欠如がもたらす精神的な問題点や特有の症状などについて語っている
つまり愛されないで育った子どもは、その愛情飢餓感から成長して大人になっても「だれにでも好かれたい」という強迫的欲求と呼ばれるものをもつようになると語っている
冒頭に並べた4つの項目はあくまで一例にすぎないが、当てはまるところがある人は自分の愛情飢餓感・強迫的欲求・愛情の欠如について考えてみる必要がありそうだ
なぜ大人になった今立ち止まって考える必要があるかといえば、冒頭の4つの項目に当てはまる人物というのは人間関係において悩みを感じやすく、人生を比較的きゅうくつに感じていることが明白だからである
この記事のテーマ「人と本気でぶつかれない」についてあなたはどう思うか?
人と本気でぶつからないことによって生じるメリットは何も起こらないこと、つまり平穏である
しかし人と本気でぶつかれないことによって生じるデメリットは数知れない
人にハッキリと意見を言わない、ぶつかろうとしないことによってその場は何事もなく収まるだろう
だが当の本人の腹の中はどうだろう?心の奥底ではどう感じているだろう?
争い事が起きずホッとしている?自分の意見を言わない、あるいは嘘をついて周りに合わせることでその場を乗り切れた達成感でハイになっている?
いや違う、「自分の本当の気持ちに嘘をついている」「他人に向けて本当の自己を表現できない」ことで確実に本人の中のなにかが崩壊し摩耗しつづけている
おそらく人にいい顔をしてしまう人、人に気を遣いすぎて疲れてしまう人にとって、他人との会話は「接待」のようなものである
自分の意見を殺し、相手を立てる、そこに深い意図はない
本人にとっては幼い頃からずっとやってきた慣習に違いない
しかし本当の自分を偽ることで自分だけでなく他人との関係性もだんだんとおかしい方向にいってしまうのが「いい人」でいることの裏面性、そして恐怖であると私は考える
今回はその恐怖について、紹介した本の内容を追いながら語っていこうと思う
自分を安売りして他人に尽くす
本書の中で、「〇〇銀行」という表現があった
〇〇に入るのは人の名前である
皆のためを思って、気を遣って、嫌な空気になるのが嫌で…様々な理由でその人は食事会のお金を多めに払う
でも周りはそれに感謝もしないどころか、その人を裏で銀行呼ばわりしているということである
本人はそれに微塵も気づかない、むしろ感謝されているはずだと思っている、本当はただいいように利用されているだけで、尊厳すらその目には映っていないのに…
「嫌われたくない症候群」のひとは、自分に能力があってもそれを過小評価する
他人に嫌われるのが怖いから相手がどんな人であるかも関係なくどんどん下手(したて)に出て、機嫌をとることで頭がいっぱいになる
しかしそのことが相手を傲慢にさせる
自分は偉いのだと、自分は目の前にいる人物に何を言っても許されるのだと勘違いさせてしまうのだ
それによって関係性は当然対等でなくなる、理不尽でアンバランスで不安定な関係だが、本人は尽くしているという意識があるのでよくない関係だということに気がつけない
そしていつの間にかその人の周りにはその人をうまく利用しようとするずるい人たちが集まり、人間関係がこじれやすくなり、悩みの種になってしまうという悪循環を自ら招いてしまうことになる
飛んで火にいる夏の虫
自分の能力を低く見積もる、いきすぎるとそれは自己蔑視と呼ばれるものになるが、ドイツの精神科医、カレン・ホーナイによると、他人が自分を虐待することを許してしまうのがその特徴だという
親から情緒的虐待を受けた子どもは、大人になってから他人からの虐待も受け入れてしまう
なぜならその人自身が虐待されることに心の底で同意しているからである
バカにされた扱い、軽視された扱いをされることにその人が心の底で同意している
自分で自分を軽蔑しているがゆえに、自分を大切に扱ってくれることには逆に違和感がある
だからこそ質の悪い人に対して献身し、やさしい人をおろそかにしていくのである
優先順位が間違っていることに本人は全く気がつかない
人を見る目が養われていない以前に、相手を見ていない
そして図々しい人のカモに、自らすすんでなる
自己蔑視している人は「飛んで火にいる夏の虫」である、と本書では語られており、この文章は私の胸にグサリと刺さって今も血だらけで抜けないままだ
「小さな不満」が大きくふくらむ
人は神様でないから、慣れ親しめば不満は出るし、トラブルは起きて当たり前のことだ
そのトラブルを解決することで、いままでよりもいっそう親しくなる
加藤氏は本書で、トラブルはコミュニケーションで「あなたの真実を見せてください」と叫んでいるのと同じである、と述べている
また、ケンカが起きる仕組みについても興味深いことを述べていたので是非紹介したい
ケンカはある出来事の解釈の違いから起きる
おそらく両方が正しい
外国人との結婚を考えればわかる、文化が違うからトラブルになってもどちらが悪いというわけではない
正しいことと正しいこととの矛盾である
正面からぶつかったときには両方に言い分はある
トラブルの解決において大切なのは頭の理解ではなく、感情の納得である
「臭いものには蓋」では親しくなれない
嫌われるのが怖い人は、よく見て見ぬフリをする、でも知っている
そういうつきあいは長続きしない
人と人とがぶつかり合う、つまりケンカをするというのは意見の主張であり、どちらが正しいとか間違っているかを競うものではない
どちらの意見も正しいのだ
だからぶつかり合うことを避けてばかりいると本当の相手が見えてこないし、本当の自分を見せることもできない
争いごとは好きなタイプではないが、主義主張は個人で持っていて然るべきものだし、それぞれ意見や価値観が違って当然である
本音でぶつかり合って、腹を割って話してはじめて理解し合える関係というのを経験したことがある人もいるのではないだろうか
もしそういった関係性の人が思い当たらない場合は、本書によると心のふれあいがない関係性といって、自分が築く人間関係を見直す必要がある
人と本気でぶつかれないことの弊害と原因
「人と本気でぶつかれない」この記事のテーマを見て、まずあなたはどう感じただろうか?
人と衝突しないことはいいことだと思った人もいれば、人に対して本音が出せないなんて苦しいと思った人もいるだろう
本記事では人と本気でぶつかれないことの弊害について語ってきた
「いい人」の仮面をかぶって周りを見ずに接していると、いつの間にかステレオタイプの薄っぺらい人間関係しか築くことができず、相手から慕われたり尊敬されたりすることがなくなる
周りには「嫌われたくない症候群」であることを嗅ぎつけうまく利用してやろうというずるい考えの人たちが集まり、よくない上下関係ができてしまう
しかし人と本気でぶつかれないことの原因は根深い
幼少期から親から愛されてこなかった、あるいは情緒的に深い関係性で結ばれてこなかった人たちは常にだれかに愛されたいという愛情飢餓感を持ったまま大人になる
親に反抗する=生きていかれない状況にあり、人から嫌われることに潜在的な恐怖を植え付けられることになる
私自身は親から愛されてこなかったとは思っていないが、精神的なつながりは薄く、親の機嫌を伺って行動しないと痛い目を見ることが多い環境にあった
親との関係だけではなく、個人的には学生時代にいじめを受けたことも私の「嫌われたくない症候群」の原因の多くを占めていると考えている
人とぶつかることが怖い、人の機嫌を損ねるとひどい目に遭うことをそこでよく知ったので、人に迎合しなくては集団の中では生きていかれないと学んだ
とはいえ今回この記事で紹介した「だれにでも『いい顔』をしてしまう人」を読んで、その生き方を反省した
もちろん過去に起きた出来事は変えられないし、そうするべくしてそうなってしまったこともあると思う、つまり大事なのはこれからの人間関係のつくり方に向けて過去の反省をしなければならないということである
次回の記事では、本書の第二章にあたる「とにかく愛されたい人の心」について自分の考えや経験を交えて考察していきたいと思う