山崎光さん五行歌集『宇宙人観察日記』(市井社)
あけましておめでとうございます。
昨年はお世話になりました。
今年も栢瑚五行歌部(仮)をどうぞよろしくお願いいたします。
新型コロナウィルス禍の状況が厳しい中迎えた新年ですが、一刻も早く事態が好転し、よい年になりますように。
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こんにちは。南野薔子です。
今日は、山崎光さんの五行歌集『宇宙人観察日記』の感想です。
ベタな云い方になるが、山崎光さんは五行歌界の「若手のホープ」である。1999年生まれ、現在現役の大学生だ。中学生の時からその五行歌は注目を集めてきた。
私が憧れてやまないものに「早熟の才能」というものがある。しかしこれは永遠の憧れで終わることが決定している。今から私が何かで才能を示しても誰も「早熟の才能ですね」と云ってくれない。だから、山崎さんの五行歌を読んで「早熟の才能」が溢れているのを見て、うらやましくてじたばたしている。
井坂洋子さんが詩作をめぐって書いた文章を集めた『ことばはホウキ星』(ちくま文庫)という本がある。その中にこんな記述がある。
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もし、中学の二、三年生の人達すべてに詩を書いてもらったところで、十四、五歳の生命力が詩の中に投影されている作品はまれでしょう。
たいていは一度読んだことのありそうなありふれたことばづかい、ありふれた比喩で、その中に聞いたようなコピーが入ってきたりして、書いても書かなくてもいいような類型のよろい(よろいに傍点あり)に組み敷かれたものが多いことでしょう。
若ければ若いだけ、自分の表現をもつのはむずかしいのですから。
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だと思う。自分自身の若い頃を省みてもそうだと思う。いや、今でも類型の中に組み込まれてしまう。
だから、若いうちに、自分のことばづかいを得ている山崎さんがことさらまぶしい。どうしてそうなれたのだろう。
その本当の理由は私にはわかるべくもないが、この五行歌集を読んで感じるのは、山崎さんの鋭敏な自意識、その自意識と世界との界面のひりひりするような感触である。
「人間は特別な生きもの」と思われがちである。だが、山崎さんはその前提に立っていない。他の生きもの、いや、物質などとも等価に人間を見ている。そして「特別な生きもの」と思われがちな人間というものに生まれついてしまったことへの恥じらいというようなものがある。さらに、そういった感覚を持ちながら、それを持ち、またそれを言葉で表現してしまう自分というものに対しての恥じらいがある。ものごとに対する鋭い批判の歌がある一方で、そういうものを歌う自分も徹底的に相対化する目がある。「若さ故の鋭敏さ」という類型に陥ることも拒否しているある種の潔さがある。
この感性を持って生きてゆくのは大変だろうなあと老婆心ながら思う。だけれど、多分、この自省力をもって、またさらに経験の襞を積み重ねながら、今後も鋭く深い歌を書いてゆくのではないだろうか。
いくつか歌を紹介したい。どの歌を紹介するべきか迷うが。多分日が違えば違う歌を選びそうな気がする。
子どもであったことを
うらやましく思い
そのうち
人間であったことも
なつかしく思う
ヒトの眼は
静止するものを見れない
私も
平凡な日常を
幸せと見れない
生きにくさ
にも
優劣があって
ぼくは
甘ちゃんだと
私は
山も川も海も森も風も雨も
怖い
精神的苦痛
地球ハラスメント
脱毛するくせに
ラヴ
アンド
ピース
かよ
借りた
言葉と身体で (身体=からだ)
伝えていく
借り物じゃないと
思いこんでいる心を
この五行歌集を読めば、おそらく「クレショフ効果」(歌集中に出てくる言葉の一つ)が起こり、世界の見え方が変わる。
表紙の写真が好きだ。窓に映った、メリーゴーラウンドの屋根だろうか、サーカスのテントか何かだろうか、そのつかみづらい、不思議な奥行きのある感じが『宇宙人観察日記』の持つテイストとよくマッチしていると思う。