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大日本帝国陸軍の軌跡
はじめに
この度、書籍『草むしぬ』のまとめをするにあたって、大日本帝国陸軍の歴史を深堀していく過程で必要な基礎知識を集めてまとめたものになっています。
あの戦争とは何だったのかということを事務レベルで大まかに知るには最適な知識を理解して、これまで動画にしていた『草むしぬ』の記録を追いかけていただく参考にしていただければと思います。
大日本帝国陸軍
1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通称は日本陸軍、帝国陸軍、陸軍。解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍、旧帝国陸軍、旧陸軍という名称も使用される。
概要
大日本帝国憲法制定前は、その定めが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後においては軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。したがって、陸海軍の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、帝国陸軍については陸軍大臣・参謀総長・教育総監が天皇を除く最高位にあり(直隷)、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし陸軍中将が任命されるため、役職自体は帝国陸軍の最高位といえど、階級自体は必ずしも最高位の者が就任するものではなく、特に歴代の陸軍大臣と教育総監には陸軍中将が任命(補職)されることも少なくなかった。
この三長官の補佐機関として、「省部」や「中央」とも呼称される陸軍省・参謀本部・教育総監部の3つの役所(官衙)が設けられており、陸軍大臣(陸軍省)が軍政・人事を、参謀総長(参謀本部)が軍令・作戦・動員を、教育総監(教育総監部)が教育をそれぞれ掌っていた。また、三機関の序列第2位の次席相当職として陸軍次官・参謀次長・教育総監部本部長がある。
1938年(昭和13年)12月、航空戦力の拡張・独立および統率柔軟化のために陸軍航空総監部が新設されたが、第二次大戦最末期には航空関連学校(一部補充学校を除く)ともども軍隊化され、航空総軍に改編された。
参謀本部は、大元帥(天皇)の名において発する大陸命を作成する存在であるが、これをもって参謀総長がいわゆる陸軍最高指揮官となるわけではない。なお、教育総監は帝国陸軍の教育を掌握する建前であるが、憲兵・経理・衛生・法務や機甲・航空、参謀・諜報といった特定職務に関係する学校等は、それぞれ陸軍省・参謀本部・航空総監部やその外局の管轄である。
大元帥
明治天皇、大正天皇、昭和天皇の3名がこれを称した。なお、軍人からは「大元帥陛下」と呼ばれた。大元帥の呼称については、古来天皇のみが行うことが出来た外寇鎮圧の仏教儀式である、大元帥法という大元帥明王に対する祈祷に由来するとされている。
軍旗
1870年6月(明治3年)、帝国陸軍のシンボルとして十六条旭日旗を意匠とした陸軍御国旗を採用し、さらに1879年(明治12年)に改めて陸軍御国旗の仕様を一部改正した旭日旗が軍旗として制定されている。
この軍旗は、連隊旗として歩兵連隊と騎兵連隊のみに対し大元帥(天皇)から親授される重要なものであったが、旭日旗の意匠は「帝国陸軍の象徴」として軍民問わず広く国民に認知・使用されていた。また、旭日の意匠を用いたいわゆる「旭日旗」を日本において初めて考案・採用したのは帝国陸軍である。
組織
帝国陸軍の組織は、1,役所である官衙、2,部隊組織である軍隊、3,将兵を養成ないし再教育する学校(実施学校・補充学校)、4,衛生を担う陸軍病院と、5,これらのいずれにも属さない特務機関とに区分されていた。
官衙とは軍における事務機関を指し、
陸軍省(陸軍大臣)、参謀本部(参謀総長)、教育総監部
があり、部隊組織である軍隊の部隊編制は主に、
総軍・方面軍・軍・師団・集団・旅団・団
があり、それらを構成する連隊(聯隊)や大隊を中心とする、
歩兵部隊、砲兵部隊、騎兵部隊、工兵部隊、輜重兵(輸送担当兵)部隊、機甲部隊(戦車部隊)、航空部隊、空挺部隊、船舶部隊等の特科部隊
からなる。帝国陸軍においては戦闘職種および憲兵(軍警察)を兵科、後方の支援職種を各部とし、合わせて「兵科部」と称したが、1940年(昭和15年)9月の改正により憲兵を除き廃止され、これらをまとめて「兵科」とした。
西郷隆盛が陸軍元帥であった建軍最初期の僅かな期間を除き、日本軍において元帥は階級ではなく、元帥府に列せられた陸海軍大将に与えられる称号である(元帥陸軍大将)。帝国陸軍においては大将から少尉を将校、准尉を准士官、曹長から伍長を下士官、兵長から二等兵までを兵と称していた。将官のうちの大将は親任官、中将・少将は勅任官、佐官・尉官は奏任官、准士官・下士官は判任官で、これらは天皇に仕える武官たる官吏となり、これらの階級に任命される際には任官と称する。兵は国民の義務たる兵役によって軍隊に入隊し与えられる階級であるため、官吏ではなく任官とも称しない。なお陸軍予科士官学校・陸軍幼年学校・陸軍少年飛行兵学校などの生徒は階級を指定されない。
おおむね大東亜戦争頃の部隊・隊指揮官の任命(補職)例は以下の通りである。
●支那派遣軍・南方軍・関東軍の各総軍総司令官 /第1総軍・第2総軍・航空総軍の各司令官 - 元帥陸軍大将・大将
●方面軍司令官 - 大将・中将
●軍司令官・航空軍司令官・師団長・戦車師団長・飛行師団長・高射師団長 - 中将
●挺進集団長・旅団長・歩兵団長 - 少将
●飛行団長 - 少将・大佐・中佐
●挺進団長・歩兵連隊長 - 大佐
●砲兵連隊長・騎兵連隊長・工兵連隊長・輜重兵連隊長・戦車連隊長 - 中佐
●飛行戦隊長・大隊長 - 中佐・少佐
●挺進連隊長・滑空歩兵連隊長・捜索連隊長 - 少佐
●飛行中隊長・独立飛行中隊長・中隊長 - 大尉・中尉
●飛行小隊長・小隊長 - 中尉・少尉
●飛行分隊長 - 曹長・軍曹
●分隊長 - 軍曹・伍長
帝国陸軍創成から解体(終戦)までの歴史
帝国陸軍の起源は、明治維新後の1871年(明治4年)に薩摩・長州・土佐から徴集されて組織された天皇直属の御親兵である。当時、薩摩・長州は、献上できる完成度の騎兵がなかったが、板垣退助が練兵を行った土佐藩軍は、騎兵、歩兵、砲兵を兼ね備えたもので、また最も練度が高かった。明治政府は、この兵力を背景にして廃藩置県を断行し、御親兵はその後、近衛と改称された。その時点では士族が将兵の中心であったが、この創成期の帝国陸軍では、大村益次郎が兵部省兵部大輔として主に兵制の基礎を構築しており、士族による軍制から徴兵制度による国民兵制への移行を目指していた。この近代的な兵制改革を提唱したことから、大村は帝国陸軍建設の中心人物と評されるようになった。この後、1872年(明治5年)2月の兵部省改組により、陸軍省が正式に発足した直後に大村が暗殺され、その後を山縣有朋が承継し、1874年(明治7年)1月に徴兵令を発布した同年4月に、東京鎮台に初の徴兵による兵卒が入営した。
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