2023.09.25
今月末までに文学フリマの原稿(初稿)をあげたいと思っている。漫才を4本、コントを2本書く必要があって、現時点で漫才は終了、コントはあと1本書かなければいけない。良いペースに見えて、割と焦っている。コントを書くのが苦手だということに気が付き始めているからだ。
元々舞台脚本を書いていた。大学進学に伴い、脚本よりも小説をメインで書くようになった。メソッドは小説で教わった。脚本の書き方は全て独学である。
舞台は好きで今も趣味で脚本は書くが、これが正しい形であるのかわからないし、自分の書いているものが「舞台でやる」必要があるものか毎度悩む。結局小説のフィールドで表現を模索することになるので、脚本に関する技量が増えることがない。
コントの台本も基本的には脚本と同じである。ただこれは「書き方」がという意味だけであって組み立て方や作品の中身に関しては全くの別物だ。
しゃべくりの漫才でできることをコントにしても華がなくて映えないし、舞台にしすぎてしまうと笑いよりもメッセージが強くなってしまう気がする。面白いをどう伝えればいいのかわからなくなってぐるぐると悩む。これを日常的にやっているプロは本当にすごいし、言語化して教える講師がこの世に存在していることもすごい。
ユーモアを解剖して説明することの難しさといったらない。感心による面白いは説明がつくが、笑いによる面白いは多分説明できない。言語化できないギリギリの感情で笑ってしまうことがほとんどで、意味がわかんないから面白いことも往々にしてある。
KOCも見るし劇場も行くが、コントよりも漫才を多く見てきたので意識してコントを見るようにしている。
普通の舞台でもそうだけれど、設定と展開がやはり大事だなと感じる。
最近見た牛女の「トイレのタンクで牡蠣の養殖をしている」ネタは状況が変すぎてずっと笑ってしまっていた。多分これは活字でも伝わる変さだし、絵がなくても笑える。反対にジェラードンの「赤ちゃんショー」も大好きなコントだが、視覚に訴えるものが多く活字には向いていない。そして彼らの動きやビジュアルによる面白さが大きいので「見る」ことでしか面白さが伝わらない。
今回、同人誌として発行することもあり「読んで」面白い内容でないと意味がないことも縛りのひとつになっていて、大変つらい。お前が始めた物語だろ、文句を言うな。ごめんなさい。
本来であれば音も絵も使えるのに、文章のみで受け手に大分ゆだねる形となるのがきついところだけれど、どう伝えたら自分の中のユーモアを同じように想像してもらえるのかを考えながら引き続き向き合っていきたい。
最後のコント執筆、戦います。