「勉強とは、好きなものをもっと好きになるための主体的苦痛」
以前幼馴染と話していてこんなことを言われたんです
「〇〇は勉強好きでいいよな、俺は勉強できもせんし好きにもなれん」
「勉強」という言葉がずーーっと魚の骨が喉に引っかかった時みたい、引っかかったことないけれど
勉強というものがいわゆる学校でやる国語算数理科社会みたいなものに直結しすぎている気がするんです。そんなに不自由で固まったものを私は勉強と呼びたくないわけです、その理屈だと私勉強ぜんぜん好きじゃないですし
ピンとこない。こんな時は勝手に自分で定義してしまえば良い
うーーーん
「勉強とは、好きなものをもっと好きになるための苦痛」
うん、なんか論じれそうな気がしてきました
その友達は車が大好きで。私とドライブをしていてもすれ違う車を見てあれはどこどこの〇〇という車でこんなすごいところがあるとか、あれはスポーツカーで馬力が〜とか延々と効いてもいない解説を垂れ流してきます
私はそんなに車に興味がないもので彼の話の2割も理解できないんですがそれも私からすれば勉強だと思うんです
その知識は雑誌だったりテレビだったりインターネットだったり。彼が自分で「知りたい」と願って情報に触れて、そうやって覚えたものですよね。それを勉強と言わずに何を勉強というんだろう
「言語を早く覚えたければその国の恋人を作れ」なんて言いますけどこれもまさにそう。言語なんて学ぶにはどうしたって地道に文法覚えたり単語暗記したり、苦痛は伴うんですよどうしたって
じゃあなんで苦痛を選ぶかと聞かれるとその根底には相手への「好き」があって、相手の言うことを理解したい、相手と同じ世界を見たい。その想いが老若男女を勉強に走らせるのではないでしょうか
『金と6ペンス』で知られるサマセット・モームはこんな名言を残しています。掃除をするのが億劫な時によく思い出します
私は勉強がとても嫌いで英語が主専攻になり4年経っても英語をちっとも話せるようになりません。単語帳は買って終わり、英検は一次を受かるも二次に行かずに落ちるという体たらく
そんな私ですが勉強をした後はなんだか気分がいい。魂に効いているがします、魂の筋トレ、みたいな
一度勉強をするごとに凄まじい筋肉痛に襲われしばらく遠ざかる癖が無くなればいいのにな、本当に
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