セルフレビュー「「地図と土地」の「貨幣論」」
以前に書いたエッセイ「「地図と土地」の「貨幣論」」について、書いた後から振り返ってみて、おかしかったこと、気がついたことをここに書き加えていく。レッツ反省会。
2022/5/23〜24
ニーチェかぶれ
ニーチェはポストモダン風の懐疑主義者ではないという読解があることを書いた後に知った。論の内容に関係することでは全くないが(なぜそんなことを書いているのだろう)、「ニーチェかぶれ」は「いわゆる通俗的解釈の「ポストモダン」かぶれ」程度に修正するべきなのかもしれない。
一つのサイクルの一部
私の言いたかったことは《ものそれ自体》が存在する立場とそれは造られた消失点であるとする立場は、主義主張の対立ではなく、どちらも認識のプロセスの一面を切り取ったものだと言うことなのかもしれない。
それもまた人の業から生まれる
それを言うなら、非道な所業も人の業から生まれ、それもまた最大限に関係論を利用するであろうことは念頭に入れておかなければならないのだろう。
法人論について
岩井克人の貨幣論と普遍論争というつながりから、法人論を思い浮かべるという、ややこしいミスリードを誘発してしまうかもしれない。法人は人間を一定の方法で一元的に処理はしていないよう思えるので(例えば株主と社員とでは待遇は異なり、社員と顧客では対応が異なる)、これはそこで定義した集合的合理性に当てはまらないと思っている。
集合や普遍論争の問題が一元的な処理だと言えるのは、「定義」に当てはまれば内包され、当てはまらなければ除外されるという一つの規則によって分類されるからと私は考えている。集合的合理性という概念は創造してみたものの、結局抽象的で曖昧で、説明も足らず、使用に足る比較尺度ではないかもしれない。ただ私自身はそれを認識し続けてしまうかもしれないが。
詰めが甘い
前のセンテンスも後ろのセンテンスも正しい命題であるとは思っているが、「つまって」はいない。前者は後者の論拠たり得ないし、また「示差関係の中心化」とは曖昧だ。後者を言うにはこういう例えを持ってくるべきだった。ベイトソンは言っている。
私は「地図と土地の貨幣論」を書く前にベイトソンが『天使のおそれ』でこのようなことを言っていたことを覚えていなかった。そして今次のエッセイを書く際に、引用する箇所を探している際に再発見し思い出し、愕然とした。いかに私がベイトソンの言葉に潜在的に影響を受けており、それをそのまま劣化コピーの如く繰り返しているのか。そして、ベイトソンの思考の変哲で奇妙なコピーの失敗の結果である私の目から見えるものを付け加えたい。
ここで他に例を見ないほどの慧眼を発揮しているベイトソンが――実際のところ私の知識量ごときでは「他に例を見ない」かどうかは判別がつかないのだが――、「天秤に付け加えられる何か」というもの、ベイトソンの言うところの比率を測ると差を測るの違いを探るにあたって考えなければならなかったのは、天秤において「比べるものの一方の重さがすでにわかっているとき」というのはどういう状態かということであっただろう。私は根源的な意味では実はそんな状態というのはないのだと思っているけれど。
つまり天秤だけを用い単位を定めると仮定して、それに何が必要か考える。それには、ある基準となる重さのものを用意して、それと他のものを何度も天秤にかけて、釣り合ったものを多数準備することが必要だろう。そのことによって、「初めの重りとそれに釣り合ったもの」を単数ないし複数組み合わせて、さらに他のものを比べることで、それが「初めの重り」の何個分かがわかる。つまり単位が生まれる。
このことが示すのは何かを「測ること」に必要なものは「同一性のある単位として使用できるものを複数ないし単数個使って比べることを続ける」ということであり、それが「比べる」ことを「測る」ことへとクラスを上昇させ、変化させるということだ。
そして、これが比べるものの一方の大きさが「わかっている(定義されている)」ということである。つまり、それはそれを持って「単位」として「測る」ものについては何も語らない(そして恐らくは認識を全体的に考えた時にもこれは当てはまるのだと思う。)。
どうやら私の曖昧な言い回し「示差関係の中心化」とはこのこと、「比べる」から「測る」への昇華、「同じもの(単位)で比べ続けること」を指していたらしい。
2022/6/4
どうやらセルフレビューそれ自体にレビューを加えなければいけないよう思う。
生ける中心化過程
一つ目。
もちろん、より同一性が担保された単位にたどり着くには貨幣に例示されるようなさまざまな試行錯誤と紆余曲折があり得るし、それは現在も進行している事象だということだ。
巡り廻る「わかる」ということ
二つ目。
これはある意味で還元主義的な見方のように思える。確かに「わかっている(定義されている)」とは同じもので比べ続けることで、「重さを測ること」は「単位」についてそれ以上何も語らないとは思う。
しかし、「認識を全体的に考えた時も同じ」ではないだろう。というのも、私たちは「重さを測ることそれ自体」はいかなることか、と「重さを測ること」の外部から何かを説明することはできる。つまり、一つ階梯の高い説明、あるいはそれを使用する状況からの説明を生むことができる。
そして、考えてみなければならないのはその外部からの説明もまた、それの外部から語り得るだろうということだ。恐らく、階梯を上げた先にあるのはもう一つの還元主義的な、あるいは知そのものとは何かという哲学にたどり着くだろう。そして、それもまた、「私達はただ何かと何かを比較している」ということ以外には辿り着かないだろう。
私が誤りだと思ったのは別の道があるよう思えるからだ。それは、使用する状況から考える場合は「有用性」の循環論法(参照 https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb5e88710eff1)と類似した、説明原理が回り回って帰ってくるような循環的「説明」が生まれるかもしれないということだ。こういったことを見落としていた。
2022/11/20
問うもの、問われるもの、吟味
元ネタを明記しておく。「問うものは問われるもの」は大学生の時に受けた講義で先生が言っていた「見るものは見られるもの」という言葉のもじりであったりする。見る人が見ればこれだけでおそらく身元が割れるかもだが、まあ、書くべきことが書けて捨て身の人生が終わったので、もう別にいい。身元がバレて周囲の人まで広まると今の人間関係が元のままの人間関係でいられないであろうことが悩ましいくらいだ。
また、以上は以下のソクラテスの言葉をもじったものだ。
哲学とは吟味であるというのは、柄谷行人のどこかの著作で見かけたこともあるし、また、この部分に関しては八木雄二の『古代哲学への招待 パルメニデスとソクラテスから始めよう』(平凡社)という本を読んで知って感銘を受けたのだったと思う。私自身は究極的には哲学はソクラテスの言葉さえ学べばそれでいいのではないかと思ったりするほどソクラテスを高く評価しているが、実質私の哲学はプロタゴラスと類似してしまっているだろう。強調しておくが、プラトンでなくソクラテスであり、ソクラテスの言葉を守るのは恐ろしく難しいことだと思う。まあ、ほかにもいろいろ学んだほうがいいに決まっているが。
そして、「よいと悪いのリヴァイアサン」で述べたように、「問うものは問われるもの」、あるいは「自他がともに吟味される」という事柄は、フィードバックループと類似性を持つ事柄なのではないかと思う。影響を及ぼした一者が影響を及ぼされた相手の状態に応じて変化するという相互作用は一方向的なリニアルな考え方とは異なっている。
「選択を生む選択」は最も単純化された関係の表現であるから、リニアルな認識をもたらすように見えるかもしれない。しかし、一般的に一つの「選択」は影響を与える周囲の様々な事柄に次の「選択」をもたらし、影響が帰ってくると考えられるために、必ずしもそれがリニアルな認識に帰着するとは限らない。ただ、モデルとして単純化することが関係をリニアルに表現してしまう。そもそも定義上そこには「時間」という属性すらないため、表現の対象が因果関係に限られていなかったりするが。ちなみに、「影響を与えるものに選択をもたらす」というのは、ほぼ同語反復である。選択の次元には「影響を与えない」という選択があるので少し違う。
このように「ソクラテスの吟味」と「フィードバックループ」の類似性を指摘するということに何の意味があるのかと思ったりするのだが、その問いは何か逆立ちした問いだろう。この用法での「意味」というものはおそらくは「次の比較尺度で使える=次の比較器にかけて結果を出力できる」ということ、「ソクラテス」に関する知識群を「フィードバックループ」に関する知識群に相互に、相対的に照らしあうことが「意味」を生み出すのである。
数ある知識群を照らし合わせ続けた末に一つの「中心」、「貨幣」が生まれたりすることもあるのであって、そういった営為を理由なく否定することは、いたずらに新たな可能性を殺してしまうことであったりする、と書きながら思った。
あるいは、そういったことを否定するのは究極的には「知」そのものの否定にもつながるかもしれない。人の持つ知識は歴史の中で特殊な位置を占めるものであり、常に相対性をもつものだと思うので。
正直「ミッシングリンク」と「リヴァイアサン」を書いたので、私に残っているのはもう出涸らしのような知恵しかないのと思うのだが、最後にもう一つ「問うこと」について書きたいと思っている。また、これはまだ何も構想がないのだが、「すべてが関係であるとすれば、"責任"ということがらはいったいどのように考えられるだろうか?」という問いがある。
その辺は國分功一郎の「中動態」の話や『悲しき熱帯』で触れられていた北アメリカの平原インディアンの警察組織の話や第二次世界大戦後のケインズの考え、あるいはハンムラビ法典、ニューロンの発火のメカニズムが道しるべにならないかと思っている。時間が許せば書きたい。無理だったらもう無理だ。
→2022/11/22に微修正
「中動態」の話→國分功一郎の「中動態」の話
責任を考えることへの手がかりに「ニューロンの発火」を追加→主体は外部関係と内部関係によって行動するという考えはなにか類似しているのか?と思ったので。
2023/2/11
ルッキズム批判について
それに加担している自分自身をも含めて「美/醜」の二項対立ゲームそのものにクソ食らえと思っていたが(ずいぶん前から言ってはいるのだが自分は矛盾まみれだ)、ルッキズム批判について少し思いとどまるべきだろうか。それは身体の喪失、言語中心的な思考の推進とどう区別がつくのだろう。
それはもっと何か大きな巨大な流れ、プラットフォーマーの台頭(最近は利益は落ちているが)、資本主義経済の一層の深化など、集合的合理性と呼んだものの支配を推し進めるものなのではないか、何か世界をよりプラトニックなもので埋め尽くしていくような流れにあるかもしれない。
人間が集合的合理性を利用しているのか、集合的合理性が人間を媒介にしてより強靭になっていくのか、そんな「使う/使われる」のような対立。それも使う側に常に立つべきというよりは、おそらくなにかの循環をなしているのかもしれない。循環を暴走しないようにフィードバックを受けながら、コントロールするのが重要かもしれない。
「美/醜」の二項対立から抜け出そうとするというよりは、それを積極的に多極化していくのがすでにある現実であり、最も現実的な制御方法なのかもしれない。美は「ある」ものではなく、世界に全く違う形式の美が無数に読み取られることを認めること。
2023/3/12
要するに「ハブ」
日経の何かの記事を読んでいて、ここで「集合的合理性」と呼んでいるものは要するに物流で言うような意味での「ハブ」のことだと気づかされた。そのほうが一言でわかりやすい。ただ、やはり物理的な制限を含む意味に縛られないことと(物流のハブは地理的条件に縛られる)、抽象度の高さ(具体的な個物への適用可能な数の多さ)から言って「集合的合理性」という新しい概念の呼び名は捨てないでおきたい。
巡り廻る「正しさ」
ふと、これは「正しさ」についても言えることなのではないかと思った。「正しさ」という関係も循環論法のように巡り廻るのではないだろうか。
そして、「「私達はただ何かと何かを比較している」ということ以外には辿り着かない」ということと、循環する説明もまた認識の切り取り方の違いに過ぎないのではないかと思った。
2023/3/19
科学と宗教の交差点
マッハの言をうろ覚えに引きながら(引用するべき場所を忘却しているので引用も出来ていないが)、科学に「ものそれ自体」は不要な概念なのではないかなどと述べているが、ふと「関係の外部」を非科学的と切り捨てるのは思いとどまったほうがよいのではないかと思った話。
というのも、いささかシンプルな話なのだが、まず第一に科学は新発見、あるいは既存の知識の迷妄を取り払うことで進展するだろう。そして、既知の事実とは既存の知識の体系、「関係の体系」である。しかし、「新発見」と迷妄の指摘は必ず既存の知識、「関係の体系」の外側から訪れる。なぜならば、既存の知識の体系との差異性において新発見は「新しい」のであり、「迷妄の指摘」は既存の迷妄との差異性を必須とするからだ。故に「関係の外部」なしに科学が発展することはあり得ない。「関係の外部」と私はいうが、それは「ネットワーク」全体の外側だけではなく、ノードのつなぎ方の差異であることも注記しておく。ネットワークのノードのつなぎ方が組み変わったとき、それは既存の「関係の体系」と差異ある外部となる。
また、それでも「関係の外部」に惑わされてはならないといううろ覚えのマッハの言に一理あることは間違いない。そこに新しい知識がないにもかかわらず、「関係の外部」を探る探究もまた「迷妄」にとらわれているからだ。ただし、それを人が知りうるすべは究極的には存在しない。それは現時点で所有している「知識」との関係性においての外部に関することであるから。有限の時間しか持たない人間はその点は保有している情報について判断を行う評価を避けえないという限界を持つということでもある。あるいは、「関係の外部」が不要なケースには「関与する項」が増加しなくなった「事後的な視点」を取っている場合もある。
そして、「関係の外部」はまた、ある特定のタイプの「宗教」が行きつく場所ではないだろうか。人間の目に見える世界がすべてではなく、知と自力の限界を諭し、我、我欲を捨てることで安らぎを与える種類の「宗教」。老子や親鸞やイエスの言葉(そしておそらくは仏陀)にはそれに類する何かがあるのではないだろうか。それはソクラテスの無知の自覚にもつながる何かだろう。
「関係の外部」は「その場所があること」を教えることはできる。しかし、それによって「自己」や「我」の限界を自覚させることを他者に強要することはできない。それはおそらくは「左右」を教えることにわずかながら近い。というのも世界内存在者である有限の人間は各々の「関係の総体」が世界のすべてであるが、「関係の総体」は世界のそれぞれ別の場所に定位する人間にとって異なるであろうからだ。実際に我々各々にとって世界との関係はそれぞれ異なる(ただし、それでも世界は一つなのだろうと思う)。
ある人の「関係の総体」と他の人の「関係の総体」は異なる。故に「関係の外部」は個々人によって異なり、その自覚の仕方も異なるだろう。だから、それを正確に自覚することができた人間は「自己知」に近づく。「関係の限界」は自らと世界の関わりの限界であるため、「自らの限界」でもあるからだ。逆にそれを見誤った人は他人になりすますか、他者を自己にしてしまう(かなり耳の痛い言葉かもしれない。)。だから、「関係の外部」を他人に強要するその仕方の如何によっては、悲劇を生むだろう。
このような「関係の外部」は思想においてはもちろん、大衆文化に溶け込むほどすでに広く語られたようなことではあろう。ただ、それだからといってそれによって本当に自己の限界を知り自覚している人は極めて少ないだろう(もちろんかく言う私もそれを自覚しているとは言えないし、そのような人物が全くいないとも決していうことはできない。)。そんなことが簡単できると言うことは『老子』を読めばすぐに「老子」になれると言っていることに違わないからだ。「関係の外部」と唱えれば「関係の外部」が「現れる」わけでもなく、それによって「指し示すもの」は「指し示されるもの」とは異なる――まさにこれがなんと簡易で困難な関係であるか――のである。
私はイスラム教やヒンドゥー教については不勉強で何も知らない。ただ、優れた宗教はこの「関係の外部」と表現できるものに収斂していく可能性がないか、それは「科学」が切り離すことのできない場所であり、ある特定のタイプの「宗教」はいまだ別れざるその場所を「科学」と共有し続けているのではないかなどとふと思った。そんなことがなければ、新しい仮説が胡散臭がられ、やがて受け入れられていくというプロセスが説明できないのではないだろうか。
2023/4/6
測り知れぬ神、ガンディーの真理、最も勇敢なる者
その著作を数冊読み終えたところだが、ここにまさにガンディーを加えるべきだと私は思った。ガンディーはこう言っている。
ガンディーはここで「神の愛」を「測り知る」ことを否定する。これはある意味で「関係の外部」について言及しているのだといえる。なぜなら、「測る」ということは選択肢群、比較尺度から選択されるということである。逆に「測り知れない」ということは選択ができないということである。翻って、「関係」とは「選択と選択の連動」である。つまり、一方が選択できないとき、それは「関係の外部」に位置づけられる。故に「測り知れぬ神の愛」は「関係の外部」への言及だと言っていい。
しかし、ここで考えてみたいのは、「神の愛」を測り知れないと述べながらも「真理の探究」、「実験」としての生を生き、運動を起こしたガンディーは明らかに何らかの「正しさ」を保有していたのではないかということだ。私はそれは究極のところ、「我」から生まれる「よい/悪い」、「我欲」の「暴力」を放棄し続けたところにその「正しさ」があったのではないかと思う。「我」から生まれる「よい/悪い」の尺度を放棄して、測り知れぬ「真理」、「非暴力」、「神の愛」に身を委ねた、そこに彼の「正しさ」があったのではないか。
さらに、それがなぜカルト化しなかったのか。それはガンディーが「探究」、「実験」として「自己の限界」と「真理=非暴力」のしかるべきあり方を極めて正確に見極めていたからではないだろか。このような言葉がそれを示唆するだろう。
自らの限界を知り我欲を放棄しその身を測り知れぬものにゆだねる、まさにここに「関係の外部」を示す宗教の、しかもそれが社会的に偉大な結果を生むにまで至ったあり方が現れているだろう。
また、私は『老子』を読んだとき、「慈なるが故に能く勇」という言葉に感銘を受け、それは正しいことだと思った。それは以下のような解釈をしたからだ。
つまり、「慈しみ」を持っていること自体が「勇」そのものなのだと。相手を倒そうと「戦う者」はその相手に打ちのめされることを恐れている。あるいは相手に何かを奪われ、失うことを。しかし、たとい相手が自らよりも強大で敵意を持っている場合でも、そのものに対して恐れからでなく「慈しみ」を分け与えることができるものは「戦う者」よりも遥かに「勇」を持っていると言わざるを得ない。その者は相手もその暴力も、何かを失うことも、自らの死も恐れていないのだから。そして、その命がけの跳躍に成功したならば、確かに「敵」を打倒できるであろうし、それは「争い」への勝利であり、そこにはただ平和だけが残るであろう。それは「福音」の最も崇高な何かでもあるだろう。
これはガンディーの「非暴力」に近しい考え方ではないかと思う。ガンディーはこう言っている。
私はこれはほとんど「人間」にできることではないと思っていた。それができるのは神性を帯びた「聖人」のみだと。だから、それは大々的に積極的に広めるべきものでもないと思っていた。自身の身の程をわきまえなかった私は実際に7〜8年前に一人でカルト化して精神科に行くことになった。
ガンディーは全くそれとは異なる。確かにガンディーは私の読んだ書物から判断する限り、明らかに「聖人」に極めて近しい人なのだと思う。しかし、ガンディーは「非暴力」の力で他の人々、他者を巻き込み社会運動を成立させているし、「非暴力」が「個々人にのみ限られるものではなく、大衆的規模において実践できる」とまで述べている。
私は「聖人」でもなければ、ガンディーでもない。そのような人々と同じやり方もできないし、そのような行いに至ることも決してできないだろう。あるいはガンディーの「実験」にも全く誤りがないわけでもないだろう。私はベイトソンが抱いていた意識そのものへの不信感を進んで継承し、そのため自身の思い描く「善」が地獄への道を開くことを最も恐れている。しかし、ガンディーの言葉は「非暴力」に近づくための何かを為す試みの実践への恐れを少し取り払ってくれた。
これから未来の世界をリードするのはインドであるという見方がある。未来がどうなるかは分からないが、私はその時インドがマハートマ・ガンディーの「非暴力」の精神とともにあること、そしてそれが世界に広まっていくことを祈る。
2023/4/9 「愛の精神に暴力はやどるか?」の参照元に誤りがあったので修正。
(マハーデヴ・デサイ記――『ヤング・インディア』1937年3月20日号)→(マハーデヴ・デサイ記――『ハリジャン』1937年3月20日号)
2023/4/9
きっと、いつか「敵」は消失する
ガンディーは自身の思想に正確に従っている限りにおいて、何人たりとも本質的、絶対的な対立、敵対関係を持つことがなかった、彼にとって「敵で”ある”」人間は誰一人として存在しなかったのではないだろうか。だからこそ運動は大きな影響を及ぼしたのではないか。ガンディーはこのような認識を持っていた。
同書でガンディーは「インドはイギリス人にではなく、近代文明に踏みにじられている」と述べているし、「イギリス人は賢明で勇敢で勤勉」であるとも述べている。彼はイギリス人を憎んでいないだろう。
彼が争っていたのはイギリス人ではなく、もっと巨大な何か、近代文明そのものにも完全に還元できない人間に巣くう何か、さらにその集合体である何かではないか。おそらくはガンディーは科学をそれ自体として悪とは認めなかっただろう。科学はあくまで「正確な認識」であり、それによる堕落は人間に責任が帰されるべきものだ。
ガンディーの運動は交換様式BとCに対する同時的な反発であり、その抵抗の仕方から考えて、それはある種のすべての人間に巣食う性質に抗するもの、何か"恐怖"に近いものに対する抗争であったのではないか。もちろん、それは生得的なものであるかもしれないが、ある程度は社会的関係によって自己強化されるもの、社会的関係の中で負に作用してしまうものであるだろう。
彼は自己統治によって運動をなそうとし、実際に大きな社会運動をおこしはしたが、それは永続するものではなかった。それを鑑みるに、ガンディーの争った人間に巣くう何か、そして、その集合に抗する運動は、運動それ自体がその自己実現であり、かつ各人の自己を目指すところのものであると同時に、本質的に社会的で交換様式に対する働きかけでなければならないのではなかろうか。
ガンディーの「非暴力」は正しかっただろう。ただし、ガンディーの方法に完全に倣うわけにはいかない。ガンディーの「非暴力」を倣って自分の問題をすべて乗り越えれると考えるのは、自身の「非暴力」が神の力を持っていると言う傲慢に等しい。あるいは本当に「非暴力」を徹底することができたのなら、それは可能なのかもしれないが。それに近しいものを目指し続けることは大前提として――つい感情的になることはあるが、実際に私は私には何人たりとも「敵」というものはいないはずだと思う――、しかし、少なくとも聖人でもなければガンディーでもない自分に「非暴力」のみでそれが完遂できるとは思ってはならないと肝に銘じたい。
ただ、思うに人間が人間である限り「非暴力」の完全なる遂行は不可能であったとしても、私はもしも人類が環境問題を乗り越えたなら、「魔女」と「魔女狩り」が言葉のあや以上の意味を持たなくなっているように、人類から「敵」と「敵が”存在する”」という考えが消失すると思っている(悪意ある地球外生命体がきたら別かもしれないが、それも時間がかかるようになるだけかもしれない)。これはガンディーを信じているからというよりはむしろ「「よい」と「悪い」のリヴァイアサン」と「「違う」と「同じ」のミッシングリンク」からの論理的な帰結である。そして、数百年後かいつか、それが為された時には交換様式BとCが形式上残っていたとしても、そこを支配しているのはDなのではないか、そんな可能性について思っている。
2023/4/16
“それ自体”として”ある”物はない
ガンディーの偉大さに圧倒されて、自分の信念の中枢を半ば忘れかけていたかもしれない。「万物は周囲の項との関係性においてそう"ある"のであって、何物も"それ自体として"そう"ある"ものはない」ということだ。ガンディーの我欲を放棄する正しさに関しては交換様式BとCに対抗する強力な社会的な力を発揮したから、私はそれは善いことであったと思う。
ただ、我欲の放棄は確かにそれが他国を排撃するような形で国家への盲目的な信仰に向けられると悲劇を生むだろう。そこは警戒してしかるべきだ。
我欲の放棄は「それ自体として"善"である」わけでは無いこと、「全ては関係性において判断されなければならない」ということ、それが「自身の限界を見極める」ということであること、それを肝に銘じたい。「関係」の中に生きる自分には「いついかなる時も"それ自体として善である"もの」など知り得ないのだから。
2023/4/18
ソクラテスの関係論
書いた数時間後に、これはソクラテスの善に対する態度の別表現ではないかと、ふと思った。前に思いついていたのと同じかもしれないが。クセノフォーンの『ソークラテースの思い出』にはこうある。
私はこの言葉を、善というものがソクラテスにとっては、無制限ではなく、限られたものであること、目的との関係性においてそうであること、相対性を持っていることを示しているのではないかと考えた。つまりはソクラテスの徳や善に対する態度は関係論的なものなのではないかということだ。そう考えれば、ソクラテスの目指した自己知と私が以前記した関係の限界と自己知に関する考えとも整合してくるだろう。
ソクラテスの自己知は――そのすべてを知ることはできないけれど――関係論的な論理構造を有していた可能性がある。私が関係について考え始めたのは、「万物は何かと何かの関係において、何かとして在る」ということが不気味に思えたからだった。関係とは一体何か、その可能性と限界がどこにあるのかを考えていた。
しかし、ミッシングリンクを書き終えた今考えれば、「関係の体系」が知識そのものであるならば、その限界は知性そのものの限界と完全に一致するはずだということがわかる。つまり、上記の仮説が正しければソクラテスの善に対する態度は知性そのものに、関係論に極めて忠実な態度であったと言え、彼が対話において知性=関係の限界を常に認識していたことを示唆するのではないだろうか。
また、「スピノザの神」がなぜ「関係の外部」に位置づけられるのかといえば、それが「他の物によってある」のではない、「自己原因」で存在する、すべての時空間を含んだ世界全体そのものをおそらくは極めて正確に描写、論じているからであり、――逆に言えばそれ以外のほとんどのものは「他のものによって」、「関係のうちに」ある――私の考えでは、すべての時空間を含んだ「世界全体」はすべての事象がそこで生起する場所であるから、外部に「関係」というものを持たない。
ただし、「世界は「問い/答え」でできている」で述べたように、人間にその限界がわかるのか、真の限界のその外部を比較によって考えてしまうのではないか、という疑問はあるものの。
それはさておき、私が興味深いのは、ソクラテスがそのようなスピノザの神に類似した満たされた神を信じていたよう思えることだ。「思い出」には神についてこうある。
この認識、何か満たされた神や世界への認識は「関係の限界」を自覚することと何らかの関連を持つのかもしれない。
ソクラテスは国法に従うのが善というが、それは彼が国家に絶対の忠誠を誓っていたというよりは、「人類すべてにわたって、神々をうやまうということが最初の掟であるから」(『ソークラテースの思い出』p210)という言葉通り、国家の中にいる自身を見守る神を信じていたのだろう。
このような彼の態度は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というイエスの言葉に近いもの何かがあったのではないだろうか。
そして、私の構築する世界市民思想も基本的にはこれに準ずるようにしたい。「…国家のものは国家に、地球のものは地球に、世界市民のものは世界市民に」そのような論理構成を持つようなものに。というのも、それはおそらくは「論理階梯理論」と「関係論」に忠実にしたがうことに等しく、その可能性と限界を探る営みが可能となり、さらにはそこにおいては敵対関係にあるものたちが調和できる可能性を感じるから。
2023/4/20
関係の限界、心身二元論の関係論的統合、つまらない話
「自己の限界」について述べつつ、未定義の言葉、「関係の限界」という言葉を持ち込んでいる。いただけない。「自己の限界」としての「関係の限界」とは一体何か。それは「選択を予測、制御できる限界」、つまり「選択を決定できる限界」のことを指す。
だから、人は「自己の限界」を自覚することで時に「関係の外部」に触れることができる。「関係の外部」とは測り知れない場所、力能が届かぬ場所、「選択ができない場所」のことであるから。
そして、この「自己の限界」にまつわる定義は、心身二元論的な差異を考慮する必要がない。それは両方の限界を同時に表現できる。つまり以下のようなことだ。
「2×2は?」という問いに答えることができるという知性の能力は「他でなく4が選択できるということ」で判定できる。逆に「5」を選択してしまうと、そこにその一者の知性の限界が露呈する。
身体の限界については、スポーツの競技を考えると分かりやすい。例えば、走り高跳びの高さ1m50cmが跳べて、1m60cmが跳べない時、その限界を知ることができる。つまり身体によって跳ぶことが出来ている「状態」を実現できるかどうかということを「選択」という形式でとらえることができる。
あるいは、この形式は身体ではない分野においても有効だ。例えば、精密加工の分野でも公差7μmに収めるなどという表現がある。これも「選択」という形式でとらえることができ、その可否はある一者のあるいは機械のフィジカルな限界を示すことになるだろう。
関係論によって心身二元論を、一歩下がったアプローチで統合することが可能だということが理解できるのではないかと思う。
このように関係論について述べていると、本当につまらない話をしているなとつくづく私は思う。ただ、それは科学の発展が世界から魔術を消失させていくような、知性が進展していく上での宿命ではないだろうか。
まあ、私が正しければ、というお話であるが。
2023/4/29
関係の形態学
どこにもない場所なき場所、「関係の外部」はいたるところにある――文学のふるさと、未知性、他者、レヴィナスの言う「無限なものの観念」、無為自然、スピノザの神、地下室人の「地下室」、悟り、研ぎ澄まされた「今ここ」、ガンディーの真理、アダムとイヴの楽園……――それは文化の数だけ、あるいは文化に限らずとも科学でさえそれなしでは発展することがなく、あるまとまった形を作る関係のネットワークの塊、「関係の総体」の数だけ存在する。あるいは、量子力学の重ね合わせの状態というのはそれが物理的に存在している稀有な例なのか、とも少し考えたが、私にはわからない。
私たちはその「関係の外部」を周囲の項との関係性において分別し、形態の分類をすることができるだろう。あるいは、知識が関係のネットワークであるなら、ありとあらゆる全ての知は、関係がいかなる形態をしているかということについて述べていると言える。学問とは一般的に言って関係の形態学なのである。
これは何か特別なことを述べているのではないと思う。もしも「世界が関係でできている」のならば、寧ろごく当然のことでさえある。「関係の総体」、「関係の外部」、それは突き詰めて言えば単なる呼び名にすぎない。それは情報のネットワークとその外部性、それらに共通する関係性を抽象化して示した貨幣としてそう呼ぶのであり、それがそれ自体として「存在する」わけではないのだ。
このようなことは、「情報」が「形式の中の形式」であることと矛盾すると思われるかもしれない。しかし、それは取る視座の違いに過ぎない。例えば、ある対象の認識において、化学的な視座から対象の「本質」を考える場合、それは認識の対象がどのような「化合物」で出来ているかということなどになるだろう。しかし、美的感覚の「視座」からある対象を見たとき、むしろ対象がどのような形状、色をしているか、どのような感情を見るものに起こさせるかなどがその「本質」となるだろう。
「本質」と「形式」は視座との関係性によって、都度都度措定されるのであり、ほとんどの場合その対立の構成は、認識の対象に対するある一者の「問い」が暗黙裡に抱えているのである。
2023/5/20
安らかな心で
ほとんど深い考えもなかった言葉であったが、この態度は知性に忠実な倫理の姿勢を捉えているかもしれない。つまり、知性が捉えるのは「関係」のみであり、唯一絶対の世界は決して知性では届かない外部にある。しかし、「唯一絶対の世界」を手放せば人は他者とつながることができずバラバラになってしまう。
故に、自身が捉えているのは「関係」でしかないという姿勢を持ちながら、「唯一絶対の世界」という「関係の外部」を信じ続けるとき、人は「自身であることに安住する」と同時に「ここにないものを探す」こと、安らかな心で転変する世界を闊達に生きることができ、自己を保持したまま他者と再び結びつく可能性を開くことができるのかもしれないと、そう思った。このような知性と「関係の外部」との関係は宗教にも似ていて、あるいは宗教とは「関係の外部」と人間を再び結びつけるものなのかもしれない。
知性は万能ではない。独我論の決定不可能性はそれを端的に示すものであり、それによらない「何か」を人はどこかで行使する必要がある。知性のみでは「選択」ができない状況は必ずある。あるいは、知性によっても「選択」を変えられない状況が。しかし、知性が万能でないことは知性の行使によってしか示すことができない。知性を行使しないものは、その限界を知ることは決してないだろう。
あるいは、自らの限界を示すことそのものが知性の働きでさえあるだろう。情報、知とは差異、限界、閾にまつわるものなのであるから。そして、知性の限界を示すことは、同時にその可能性を見出すことであり、あるいは寧ろ限界と可能性の発見はそもそも等しいものであり、それらは同時に示されてこそ意味があるものなのだと思う。
貨幣、時間、単位、実体の誕生
「ミッシングリンク」英訳版の序文に書いてある、岩井克人の『貨幣論』とカルロ・ロヴェッリの「時間」に関する議論の類似点と、そして、前者とベイトソンの議論を受けて私の記した「単位」に関する議論の関係に関してまとめておきたい。
岩井克人の『貨幣論』はマルクスの価値形態論を受けて考察された一つの理念的な貨幣の発生のモデルである。つまり、種々の商品(リンネル、小麦、コーヒー、金、茶……)の物々交換を重ねていくうちに、交換を円滑に進めるられるもの、それ自体は物理的な可用性の少ない、交換に適した象徴的な価値を持つ一つの商品(ここでは「金」)が交換の媒体の中心と選ばれ、「貨幣」として存在し始める。その際、岩井克人は価値の「実体」として「労働力」を据え「労働価値説」を唱えたマルクスを批判し、貨幣の無根拠性を説く。
私は、カルロ・ロヴェッリは「時間」について、それと同様のことを述べていると思う。
彼が述べているのは、時間というものが「あり」それが万人に流れているというのではなく、この世界におけるすべての「変化」を私たちは「時間」と呼び、それはいわば観測者自身もその「時そのもの」の一部である中で何かと何かを比べることでしか理解できない――まさしく循環論法のようなしくみで――ものだということであり、古典力学の時間tは「実体」の「存在しない」、その「すべての変化」を仮に中心化して基準とするために生まれるものだということだろう。これはまさしく、「労働力」という価値の「実体」をマルクスの価値形態論から取り去った岩井克人と同様の仕事を、古典物理学に対して行っているのだと思う。無論、経済学も物理学も知らない素人の目からみたものではあるが。
そしてまたそれと同様の着眼がベイトソンによって提起されており、私はその仕事を引き継いで抽象化していたようだ。それは本稿「詰めが甘い」でも引用した議論であり、「「地図と土地」の貨幣論」での比較尺度にまつわる議論だ。
岩井克人が物々交換から貨幣の謎を解き明かす方向に向かうのに対して、カルロ・ロヴェッリの仕事は逆で、古典力学の時間から離れてループ量子重力理論によるミクロな時間の解明に向かう方向性にある。それでも、岩井克人の議論とカルロ・ロヴェッリの議論は切り口が違うように見えて、本質的に同様で「単位」、「比較尺度」の誕生、「実体」の解体にまつわる議論なのだと思う。
いわば、彼らは「実体」に見えるものが関係論的にいかにして生まれるか、「実体」に見えるものがいかにして関係の集積でしかないかということについて述べている。あるいはそれは私の「「地図と土地」の貨幣論」も同様かもしれない。私の議論の流れは「「地図と土地」の貨幣論」から「ミッシングリンク」に向けて、実体から関係へ、カルロ・ロヴェッリの議論と同じ向きで進んでいたと思う。
ループ量子重力理論についてはこれからの進展により変わる可能性があるかもしれないからそれが正しいと断言はできないが、このような議論はある程度の正しさを持っているのではないかと思う。
そして、商品と貨幣の交換の失敗や、あるいは万物に同じように流れる時間が存在しなくなることは、ある意味で「指し示されるもの」と「指し示すもの」にある命がけの跳躍の失敗、その緊張関係の一つの形であるのかもしれない。「指し示されるもの」と「指し示すもの」の緊張関係、それは「選択が選択を生むこと」、「関係」にまつわる困難である。その「関係」を紡ぐことができるか否かという問題の。
遠い未来と遊動性
柄谷行人のいう「山人」の「原遊動性」について、かなり前から思っていたことがあるので、書き記しておく。それは、人は「遠い未来」について考えるときに、「山人」のそれではないにせよ、ある種の根源的な「遊動性」に直面せざるを得なくなるのではないかということだ。
つまり、今のところ私たちはいずれ必ず老いて死ぬ。その単純な事実に思いをはせるだけで、現在の「富の蓄積」、「力」、「敵対」も「出会いと別れ」も何かすべて逃れられない刹那的な悲運を帯びるものとなり、あるいはそれからの自由を得られるような、それら自体が根源的な時の流れによる「遊動性」にさらされる。それはある意味で単独的な場所に立たされることと同じなのではないかと思う。
そう考えれば、むしろこれらのために他者と争うことは、一瞬で消える快楽のために、たださえ永続しない生物の苦しみの世界で、いたずらな諍いを増やすものとして、忌避されるようになるのではないかと思う。私はこの「遊動性」に仏教と同じ論理を見ているのかもしれない。
このようなことは例えば個人が不老不死になろうが、個人を超えた「家」や「国家」の「富」や「力」を考えても変わりはない。なぜなら、それが人為的なものどうかはともかく、遅かれ早かれ地球上の住環境が毀損する日は必ずやってくるからだ。それは宇宙に逃げても変わらないかもしれない。
一応言っておくが、無論、社会の人間すべてが出家すべきだとか、ヴァニタスを抱いて生きていくべきだとかなんて言いたいわけではない。刹那的に何かを求めることは生物の宿命でもあろう。ただ、それでも「遠い未来」を考えるとき、私たちは避けえない「遊動性」にさらされる。その中で必要以上に何かを求めて争うことはないのだと私は言いたい。ある意味で、何もせずとも私たちは皆いつ何時も久遠の時の流れの中で彷徨う「遊動民」なのである、と、そう思ったことがあった、そんなお話。
2023/6/11
続、関係の形態学
これは「関係一般」についても言えるのではないかと思う。「関係」は「それ自体としてある」のではない。「関係」とは個々のユニークな「選択」の連動の呼び名に過ぎない。「関係」とは数限りなくある「知識」の最も基礎的な「1単位」、その呼び名、その「貨幣」、抽象物である。というのも、「関係」とは「選択(情報)」の連動であるし、その概念それ自体ではいかなる必然的な物理的特性も論理的特性も指示されないからである。
このような抽象化の起源を求めるなら、それは私たち自身の認識を生み出すところのものである比較器の、あるものには反応し、あるものには反応しないその作用、あるいは言葉であれば、何かを排除することで何かを指し示すこと、そのことによって、対象が元あるところの関係から脱埋込みされることに求めなければならない。
また、発生論的な話として、具体的なものの捨象によって抽象物が生まれるというわけでもない。ベイトソンは「μファンクション」という概念を用いて、子猫は自分の要求について、対象の個物を指すのではなく、「依存!依存!」という関係性を叫んでいるのではないかと述べている。私たちも最初から最も現実に近い具体的な個物を知っているわけではない。
「原子」などの物理的な構成物は後から発見ないし、「説明の原理」として導入されたものであり、たとえば、人づてに聞く伝聞は具体物をともなうことはなく、抽象物として先に現れる。発生論的に言って、私たちの知識は、ある抽象度のレベルから発生しており、以前までの知識と周囲の環境という基盤をてこにして、より具体ないし、抽象的なものを発案してきただろう。抽象と具体の階梯、「ミッシングリンク」で言及しているような比較の階梯は、発見ないし発明の後、事後的に見出されるものであり、認識の発展の順番ではないことを注記したい。
世界、存在(者)、時間
私の関係論からみた世界、存在、時間というある種の哲学的なトピックの姿を記してみようと思う。注記しておくが、これは「ミッシングリンク」の仕事ができたからできる仕事であり、カルロ・ロヴェッリの本の影響下に多分にある(オリジナルで思いついていたものでもあるのだが)。
それは言い換えれば「ミッシングリンク」の完成によって、始めて私は「差異と同一性」という最も基礎的なもの、情報のユニットをなすもの、それをもとに世界を記す方法を編み出すことが出来たということだ。なぜか『エチカ』風になってしまった。
1.世界について
1.世界とは、すべての事物について、それらの関係が発生しているその総体をそう呼ぶ。
2.存在者と存在について
2.世界に「ある」事物、存在者は、世界のうちにあるその他の事物に差異、変化を生むことによって検知される。
2-1.世界に「存在している」が他の事物に全く変化をもたらさないものを、私たちは「知り」、「検知する」ことが出来ない。それは何の計器でも検出できないし、考慮する意味がない。そのような「もの」は「あっても」「なくても」何も「変わらない」からである。
ここから、「認識を行う一者」にとっての「存在する」とは世界のうちで、「差異」によって「測り」それを「知っている」ということであること、さらにその「関係」の限界に制限されることが理解される。
2-1-1.この制限から「認識」(関係の限界のうちにあるもの)と「ものそれ自体」(関係の限界の外にあるもの)を技術的に区別する必要が要請される。上記の「存在する」の定義は「ものそれ自体」を考慮した「認識上」のものである。実質的な「存在する」ということの定義は「他の事物に変化を及ぼしている」ということとなるだろう。
日常生活上、「ものそれ自体」の考慮はコミュニケーションの経済的理由から省略されることが多いと考える。
2-2.ある「事物」が、「何かと何かの関係」であるか、その「まとまり」であるか、あるいは「項」であるかという区別は認識を行う上での技術的差異にすぎない。
2-2-1.例えば、「家族」、「社会」、「国家」はそのメンバーの関係の集積であるが、一つの「項」、「事物」として扱える。あるいは「物質」も「原子」などの「関係」の集積である。「原子」の認識についても、それは「相互作用」による検証や、他のものとの「関係」によって、確認されるものである。
「「地図」と「土地」の貨幣論」でみたように「実体」は「関係」の集積によって、生み出され、措定されるものであり、私たちには突き詰めれば「関係(相互作用)」以外存在しない。「実体」が「関係」の集積として以外の形で認識されることはあり得ず、それ自体として存在するかどうかは認識の限界、「関係の限界」を超える。
故に「事物」や「項」と「関係」、「関係の集積」という区別はコミュニケーションの技術上の区別である。
3.差異、変化、関係について
3.世界、存在者、事物を知るためのところのものである、変化、差異、関係は「比較」によって検知される。
これについては「「違う」と「同じ」のミッシングリンク」での議論を参照。それは、循環論法のような仕方で検知される。ある一者にとっての世界ないし、存在者や事物やその認識は「比較」によって構成され、その限界に制限される。
4.時間について
4.時、時間とはこの世界の変化の総体をそう呼ぶ。差異は最も基本的な時間の単位「前/後」の区別を生むからである。種々起こる変化の中で他のすべての変化の基準とするものによって、ある一定距離の範囲内の変化の速さなどを測ることが出来るだろう。
正確にものごとを測るのであれば、それは最も速く、頻繁かつ同一の間隔に起こる変化を基準とするべきである。また、暗黙裡ないし明示的に定められた基準そのものもまた時間と呼ばれているだろう。
4-1.現在とは、認識の主体がそれに属すると規定する、明示的ないし暗黙裡に定めた同時とする一定の時間内、同様に定められた一定の範囲内に存在する関係の総体の認識をそう呼ぶ。
4-1-1.「同時と定める」ということからわかるように、そこにはいくらかの「時間の捨象」が存する。
例えば、私たちの感官の見る「現在」はその像の中で、別の場所にある事物間の「光」の移動にかかる時間的差異を捨象して構成されている。しかし、日常生活を送る上で、私たちの周囲にそれが問題になるほど早く変化するものは存在しないため(電子機器などは除くことになるであろうが)、それを「現在」と呼んで支障はおきていないことが多い。
4-2.過去は、現在より前に世界に存在したと認識の主体が考える関係の総体をそう呼ぶ。
4-3.未来とは、世界に存在する事物や諸項の関係や変化のある一定期間までの総体の結果を予期的にそう呼ぶ。諸項の変化が単調である状況は予測可能であろうし、複雑で偶然に絡み合うものは、予測できないだろう。
4-4.補足。現在と過去、未来は2つの観点から考えなければならない。「指し示すもの」(認識)と「指し示されるもの」(ものそれ自体)の一致不一致に応じた形で。また、現在、過去、未来には世界の状態としての用法と基準としての用法がある。
4-5.時間の認識論的な起源は「比較」による何らかの差異の検知に遡る。「比較器」上の差異の有無が認識にとっての根源的な「前/後」の区別を生み、その限界が測りうる限界を規定する。
これで関係論から見た、世界、存在(者)、時間の定義が十全に、重要な箇所が説明されていないところがない形で出来たと思う(「ミッシングリンク」と「「地図」と「土地」の貨幣論」というかなり巨大な外部への参照があるが。)。
いろいろここから進めていけそうな気もするが、そのような仕事はするかどうかわからない。ちなみに、私の関係論では「空間」を取り扱うことが出来ないよう思う。関係の論考のプロトタイプを考えていた時からそう感じていたのだが、カルロ・ロヴェッリの本を読んで、それは言及しなくて正しかったように思う。「情報」の形式に全くかかわってこないということはあり得ないのだが、それに根源的なものではないような気がする。
※若干の修正を行っているが、読みづらくなるので、これに関しては修正を記録していない。
2023/7/6
続・“それ自体”として”ある”物はない
「人は意識しないが、それを行う」という言葉、「考えていること」と「実際に行っていること」は違うという言葉は、「ある主体や項が持つ意図やそれについて持たれる思念と、実際にそれらが他のものとどのように関係するかは別である」という言葉に換言できる。あるものは常に他のものとの「関係」によってあるものなのであって、あるものについての自己規定や意味内容そのものが自己自身を完全に支配することはできない。主体が自己をどう規定しようとも、主体は他の項と「関係」してしまう。
自己が何者であるのか、ある項が何者であるのかは、いかなる関係の階層においても、自己のみによって定められるのではなく、他の項との関係によって定められる。それが比較――他の項との差異性において何かを認識すること――と、関係――ある項が他の選択によって定められ、選択されること――のうちにないものはないということの帰結である。すべてのものがそうであるから、個別的になにかを指摘することにほとんど意味はないのだが、「文脈」や「コンテクスト」は、そのようなことの典型的な例である。たとえ、何かと何かが実際に「関係」がなくともそうだ。比較において私たちはそこに「関係がないという関係」をみてとってしまうから。
あるものがあるものであり続けるためには、他のものとの関係を幅広く制御し続けなければならない。さもなくば、あるものに変化がなくとも、あるものは他のものとの関係において変容してしまう。
しかし、究極的には「関係」を完全に制御することはできない。自力には限界がある。「関係(選択の連鎖)」はほぼ必ずと言っていいほど、次なる「関係」を生むが、人が何かの制御を行うには「関係」を介するしかない。つまり、制御する手が次なる悪しき「関係」を生むことがありうる。
しかもなお、それは制御を放棄してよい理由にはならない。あるものでありたいと、主体が望むのであれば。
逆にこのようなことから「無為自然」という考え方が生まれ出るだろう。下手に数をうち「関係」を紡ぐよりは、何もしないほうが良いという手が。
遡行的モデル生成
ホッブスの『リヴァイアサン』、マルクス、岩井克人の価値形態論、ダーウィンの進化論、カルロ・ロヴェッリの時間に関する考察、ニーチェの『道徳の系譜学』、私の「「地図と土地」の貨幣論」……これらはある「実体」の生成をモデルとして遡行して、その起源を問うものである。そういった議論を「遡行的モデル生成」と名付けることができないだろうか。
それは実体の歴史的起源を追うものではないが、ある「実体」が生成される合理性の解明や、それが「関係の集積」であることを指摘する議論である。
2023/7/30
統整的理念としての存在の真理
それがなくなると全体の統整が失われてしまうような理念と言うなら、物それ自体や地図と土地の土地、あるいは存在の真理は統整的理念ではないかと思う。それは現れるものではないが、それがなくなれば関係の世界からは現実の実在が消失する。それは絶対の真実の世界でありながら、人は「見る」ことも「触る」こともできない、というよりもその関係の外部であり、かと言って不要として切り捨てることもできない。まさにそういったものではないか。
現実に対する認識を始めとする分断の世界で我々は今まさにこのような統整的理念を必要としているのではないかと思う。
2023/8/4
貨幣の機能、情報の機能
なぜ貨幣論と比較尺度、情報の議論が親和性を持つのか(前者は後者の一部であるが)。貨幣の3機能、「尺度」「交換」「保存」は貨幣の機能の本質である以前に、寧ろ十全な情報の機能の本質であるからだ。
情報はこの3つの機能を満たせねば失われてしまう。そして、場面によっては「失われる」という性質もまた一つの重要なモーメントである。
その意味で、これもある意味自明なことではあるが、貨幣はより大きな範疇、情報という集合の特殊な要素なのである。
ここから、極めて大きな一つの仮説を導き出してもいいだろう。資本主義社会とはその基盤をなす貨幣の本質から言って、最も巨大でダイナミックな情報化社会であると。その中核をなすのは「価値情報」であり、それを巡って社会や人間の行動、事物の流通が左右される。
それはある意味で本質的な「脳化社会」というもののあり方の一つの形だと言えるかもしれない。あるいは「尺度」「交換」「保存」、それは無為自然の志向が抗うところのそのものであるとも。それらは何故か似通っている、関係の真理と存在の真理の探求の志向を分かつもの。
2023/10/1
ああすれば…
情報化社会は無数の「ああすればこうなる」に囲まれている。「ああすればこうなる」とは情報機器の演算の基本的な原理そのものであるからだ。
それを人や自然、歴史に見るのは、誤りとは言わないまでも、時に致命的な誤謬をもたらすだろう。それは事後的な視線を世界に向けるということである。事前の視線は取りうる可能性から何が選ばれるかわからないという態度であり、事後的な視線を事前に向けることはその逆であるから。
そして、あるいは、資本主義社会もまた、無数の「ああすればこうなる」に満ちている。契約を取り結び履行するというのは、それの一つ他ならないから。「ああしてこうならなかった」ら売り手は買い手に補償しなければならない。
それは市場経済のみならず、むしろ交換一般の原理である。贈与に返礼を、義務に権利を(恩に奉公をと言ってもいいかもしれない)、費用に効用を求めること、それは、与えて失ったものを、与えたが故に補填するなにかを求めることに等しい。
「ああすればこうなる」、それはあるいは予定調和的なコミュニケーションであり、「バカの壁」に遮られるもの。
それらを断念すること、それは関係の外部に触れること、他者に触れることに等しい。この見地からすれば、なぜ『バカの壁』がヒットしたのかがわかる。それは自己の限界を諭し、関係の外部をもたらすものだったから。それは安らぎを与えるものだったから。
どうにも私が養老孟司と柄谷行人に惹かれるのは、偶然ではないようだ。彼らのテーマは似通っている。過剰な「ああすればこうなる」の否定、交換の批判(吟味)、規則を共有しない他者とのコミュニケーション、"バカの壁"。これらは行き過ぎた社会性への批判という点で、同じ見地に立っている。果たして、その向こうはあり得るのだろうか。
関係の外部、優れた理論家の条件
真に優れた理論家になりたければ、その者は自らの信じる理論を信じると同時に、進んで理論が有効性を失う臨界点を探るべきである。さすれば、既存の理論とは異なる、新たなる理論への道が開けるだろうから。自身の信じる理論を懐疑することは優れた理論家へいたる一つの契機である。
存在の真理、関係の外部への思考は、そのような関係への懐疑から生まれた。