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アンチノミーズ

アンチノミーっぽいものをいくらか呟いては消していたのですが、ここにまとめて供養します。アンチノミーっぽくないものも供養しています。つぶやきの墓場。ナンマイダー。

※アンチノミー…二律背反。正命題、反命題のどちらにも証明できる矛盾・パラドックスのこと(Wikipedia調べ)。


アンチノミーっぽい

理由、意味

理由があるから生きる。生きることから理由が生まれる。意味があるから生きる。生きることから意味が生まれる。これらはどれも正しい命題だ。肉体から社会性を生み、社会によって肉体を維持する人間にとっては。

物事には理由がある。出来事の理由を理解しないまま生きていると、日々起こる物事に振り回されるがままになってしまう。この世界の出来事に理由などない。この世界はあるがままにこの世界であるだけ。何事にもつけて理由を探して生きていると「理由」に振り回されるがままになってしまう。

人を信じないと生きてはいけない。人を信じすぎても生きてはいけない。

自身が世界の中で比べようのない一人の人間だという自覚を持つべきだ。それは自己知、優れた自他の差異の自覚に繋がるから。自身が世界のどこにでもいる凡庸な人間だと自覚すべきだ。それは傲慢を退けるから。この2つの自覚は両立する。人は皆一人では生きられない凡庸な、ただ一人の人間だから。

上野の近くを歩いていて、「永遠の未完成こそ完成」という言葉を掲げている寺があるのを見た。「永遠の未完成は未完成でしょ」と心の中で軽くツッコミを入れたあと、確かにこと人格においては永遠の未完成の自覚はある種の人格の完成だなと納得してその場を歩き去った。いい日だったな。

私を去れ。我欲に囚われていては、誰かのために何かをすることはできない。私に留まれ。自身の意志を維持できなければ、誰かのために何かをすることはできない。

左とか右とか言う前にまず、人間であることを確認しようぜ。

よかったことは忘れてしまう。悪いことはいつまでも覚えている。感謝を忘れて不平ばかりをこぼしてしまう。だから陽気でいることは一つの倫理だと思う。でも陽気さを無邪気に信じてはいけない。この世の不条理と苦しみ、自らの無力を忘れてはいけない。

絶対的な正義があるということは違う。人間にいついかなる時も正しいものを知ることはできない。絶対的な正しさを信じて他者との関係を紡ぐことは出来ない。絶対的な正義は必要ないということも違う。正しさを放棄すればこの世は成り立たたない。正しさを放棄して、他者との関係を紡ぐことは出来ない。

言葉

言説は固有の歴史から見て取られるべきである。どのような立場からそれが語られたのか、どのような政治的な力が働いたのかを知らなければならない。言説は固有の歴史から離れて見て取られるべきである。固有な歴史だけをみていては、理論への跳躍の可能性を全て捨てることになる。

学説や概念、理論、モデル、理念型……そういったものはそれだけで済ますことはできないし、それ無しで済ますこともできないものだと思う。

自分の意見がいつもまっすぐ通ることは異常な状態なのであって、それを期待するのはおかしいことだ。かといって、正しい議論が全く通らず受けいれられない環境は異常ではあるけれど。

真っ当なことを真っ当に言う人は必要だと思う。でも真っ当なことを言うだけでは何も変わらないこともあると思う。真っ当な策に対して、奇策がいる。でも、奇策だけでは何かを変えることはできないと思う。それは繰り返すに連れて力を失う。

社会

自分も含めて、きっと国や社会を批判する人は現実を失っている。「日本」と軽々しく口にするが、一億もの人間の生活の何を知っているのか。きっと国と社会を批判しない人もまた現実を失っている。今この生活を成り立たせている社会と政治への批判(吟味)なしに、望ましい未来の生活が与えられるのか。

いま社会を壊している人々は、社会に染まり過ぎているからそんなことができるのではないだろうか。彼らはずっと社会の中に浸かりすぎていて、その外側の世界を知らない。だから社会の限界が分からない。彼らにとって世界とは社会であり、それが壊れるということが考えられないのではないだろうか。

社会の限界がわからない人が社会を壊してしまうように、社会の限界がわからない人が社会に殺されてしまうのだろうな。社会的な信用は失ってはいけない、でも、完全に自分の身体を社会に委ねて蝕まれてはいけない、そのことを知らなかった人が。

深入りはするな

もし姪や甥が大学に進学したら文学や哲学を読んでみると面白いよと言うと思う。もしもドハマリしたら、深入りはするなと言うと思う。

理想と現実

ありのままでいいということと、今ここにないものを求めるということ、それはどちらも必要なことなのだと思う。自分自身を否定しては、闊達には生きていけない。流転する世界の中で何も行動をしなければ、生きてはいけない。

自力本願はついぞ叶わないことを知らねばならない。自力は限界があり万能ではない。他力本願はこの世の希望でないことを知らねばならない。それは社会を諦めたところにある救いだ。

理念は捨てなければならない。それほどに現実を見誤らせるものはない。理念を捨ててはならない。現状に甘んじて希望を捨ててはならない。

世界

これから、何が起きても驚くことはない。きっと人間の歴史というのはまだ始まったばかりで、人間は驚くほどには何も知らないのだから。この世界で起こるすべての出来事は驚くべきものだ。この世界が存在してそこに私が生きているという奇跡は。

世界に「答え」は存在しない。何かを知るということは、何かが限界づけられるということであり、限界の先には常に未知への問いが待ち構えているから。世界に「問題」は存在しない。世界はいつもただあるがままの姿で私たちの目の前に存在する。それが世界の真実そのものであるから。

世の中形式化すべきところと、個性を発揮するところを取り違えているのではないか。個性を発揮する場所を形式化し、形式化する場所を個性にまかせているような。個性と形式化は両輪だと思う。形式への理解があるから優れた人間性や個性を発揮でき、人間性への理解があるから優れた形式を生み出せる。

アンチノミーじゃないっぽい

世渡り

この世をうまく渡る技術を持たないことを恥じることも、それに落胆する必要もない。そんな人がナイーブであることは確かだ。しかし、その手の技巧で勝利する野蛮さを考えれば、それは誇ってもいいことだ(勝利の全てがそんな野蛮さを持っているとは言わない)。上手く生きれないことを嘆く必要はない。

宗教

ある種の宗教というのは「あなたは生きていてもいい」というメタメッセージなのではないだろうか。究極的なところで自分を肯定するなにか。それを失って代わるものがあるとすれば、それはカントの倫理ではないかと思う。「私はあなたを目的とする」、「あなたは私を目的とする」という相互承認が。

IT

ことITの世界ではそうなのではないかと思うのですが、ある問題解決の手段はそのまま次の問題の原因そのものだなぁと思う今日このごろです。( - -) _旦~~

リレーショナルデータベースでなぜレコードにIDを振るのか、というのは遡ればアリストテレスの実体に至るか、その再表現なのではと思うことがあった。ITの世界は古い西洋哲学とかなり関連の強いものではないかと思う。アリストテレスが論理学の祖であることを考えれば当然のことなのかもしれんが。

何かの数学の本に書かれていた「同じものはまとめる、違うものは分ける」という言葉が、プログラミングや仕事の業務、哲学などの学問の全てを通して、最も役に立ったというか、この世で最も深い言葉だと思うことがある。この言葉は情報処理というものの真髄を一言で表している。

ITは、哲学を古びさせることはない。むしろITの世界を理解するのに西洋の哲学を学ぶべきだろう。ITの世界は万物は数であるというピタゴラスの思想の世界であり、抽象への憧憬、プラトンのイデアの世界であり、アリストテレスに始まる論理学の世界である。それは生成AIにおいてですら変わらない。言葉の出現確率をもととする生成AIはヒュームの認識論の世界の具現化だろうから。ITとは何かを考えるのに、西洋哲学を考える必要があり、またIT技術は西洋哲学とは何かという謎を問いかけるものである。

とらのあな

私の書いた本ですが、検索するととらのあなの成年向けページに登録されているのを見つけました。なぜ…?安心してください、R18ではありません。
『誰も知らない夢の果てから』|松笠 遥
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n9737b56f7edc 
https://amzn.asia/d/079xhRdo

論争

論争をする人間は、論に勝ち負けがあると思うなんて馬鹿げている。そういった人間は正しい道を教えられたとき、そのことをもってして人を恨んだり、そのことに勝敗をつけようとする倒錯を生きているのだから。

ある種の人たちが、自分が正しい立場にいること、自分が賢い立場にいることに陶酔を感じながら、声高に声を上げているように見えることがある。「俺は正しい、お前は間違っている」それを確認するために誰かを糾弾しているように見える。戸惑いのない正しさというものが苦手だ。

政治家

政治家の論戦を見ると、やれ株価が上がったり景気が上向いたのが自党のおかげだとか、物価が上がった責任が相手のせいだとか言う。一般的に政策で打ってはいけない手はあるだろうが、その成否は半分は情勢によるのであって、全てが為政者の功績でも責任でもないだろう。責める側も誇る側も誠実ではない。

悲しみ

悲しみや憎しみは次の悲しみや憎しみを呼ぶ。きっとそれらを断ち切れる人を大人と呼ぶんだろうな、となんとなく思った。世界は成熟していない。

ツイッター

私にはツイッターでかわいい動物映像をリツイートする習性があるのですが、生成AIで作られた映像をリツイートすべきなのか揺れています。真実を取るべきか?かわいいを取るべきか?簡単には答えが出そうにない問いです。

https://twitter.com/Catshealdeprsn/status/1849126135918965194?t=0qBfu43cKVeRILbcz2EKCw&s=19

独裁者

殺戮を行う独裁者ほど救われるべき惨めで哀れな人間はいない。自然と人間を愛でる喜びに満ちることを知らず虚妄にとらわれながら大量の人間を殺す罪を背負うのだから。

殺戮を行う独裁者ほど救われるべき惨めで哀れな人間はいない。虚栄に囚われ敵を殺め、真実を伝える者を殺め、昨日の友を殺め、その罪を犯した上に周囲に残されるのは嘘と自己保身に長けた者たちのみ。そのゆく道は欺瞞と恐怖と死に満ちていて、慈愛の温かさを知らないのだから。

真実

真実を求める者は世界から自身の言説が認められないことを恐れる必要はない。自身が誤っていて世界がそれを認めないなら、それは真実を求めるものにとって正当な結果なのだから。逆に世界が誤っていたなら、そんな世界に認められることに価値はない。その時は真実が花開くのを一人信じていればいい。

未来

あたかも今ここにあるものやかつて生まれたものに頂点があって、未来にそれよりも優れたものが生まれることはないかのように考える現在中心的な考えというのは、つまらない。

ラーメン

仕事休んで食べるラーメンは美味しいね。

突っ走れ

誰に憎まれたって生きていける。突っ走って砕け散れ。

心残り

昔ロシアに留学していたときに寮母のおばあさんに世話になったことをふと思い出した。シベリア鉄道に乗らなかったことは心残りだ。いつかまたあの優しいロシアに行って、シベリア鉄道からウクライナまで旅をしてみたい。そんな日が来ることを祈っている。

ある種の形式を忌避、破壊する言説は形式との対比において意味を持つのではないだろうか。例えば守破離。破離は守との差異性においてのみ意味を持つのであって、破離だけではただの無秩序か無鉄砲になってしまう。また、例えば主体に関する日本のポストモダニズムの受容はこれに類するのではないか。

願い

どうか私達を遥か未来に連れていってほしい。誰一人残すことなく。殺戮を行う惨めな独裁者に慈悲の温もりを与え、飢えるばかりの扇動者に足るを知る知恵を与え、刹那の快楽を貪る私達に彼方を見通す目を与え、日々の糧を欠いた人々に満たされた今を与え、寒さの中に斃れた者たちに安らかな眠りを与えて。ロクデナシの願い。

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